第7話7-3
もともと体力がある方だからか、アサイ医師も驚くほど回復は早かった。上半身を包帯とコルセットで幾重にもラッピングしたままではあるものの、三日ほどで病院のベッドに別れを告げた。
アサイ医師の本音としては、俺にもう少し安静にしていてほしかったようだが、じっとしているのは性に合わない。安静にしているより、リハビリの一環として身体を動かしている方がずっといい。それに、病院は常に誰かの気配がして落ち着かないというのも、理由のひとつではあった。
アサイ医師と、妻(ミゥカの母)で看護師のソネさんのふたりだけで切り盛りする病院は、規模が小さいながらもこの町唯一の医療機関ということで、獣神族から人間まで多くの者たちが絶え間なく訪れる。入院患者は俺しかいなかったが、それでも警戒心を緩められなかった。
「キョウヤ様!どこに行かれるんですかっ」
ベッドを抜け出したことで、そのまま姿をくらませると思ったのか、ミゥカが慌てて俺を捕まえに来た。まだどこにも行けないよ、と笑って頭を撫でたが、よほど信用ならないらしい。ミゥカは俺の腕を掴むと、
「わたしの自宅を案内します!これからは、我が家で寝泊まりしてください」
ぐいぐいと病院の裏手に引っ張った。潮風のいたずらで錆びついた門をくぐると、病院の外観と同じく白亜の二階建てが現れる。ヨーロッパのリゾートに、よく馴染みそうなお洒落な家だ。
「こっちですよ」
愛らしい人魚に導かれるまま、家の中に足を踏み入れる。外観の印象に違わず、ホワイトとブルーで統一された内装は海辺のリゾートを彷彿とさせる。春の柔らかな陽射しが明るさを演出するリビングの先には、サンルームが広がっていた。
ガラスの天井から、ダイヤモンドのような陽光の粒が降り注いでいる。その光景だけでもひとつの絵画のようだと思ったが、どうやら比喩ではなく、その場に絵画は存在するらしい。木製のイーゼルや合板のパレット、絵具で汚れたデニムのエプロンが目に飛び込んでくる。
「絵を描くのは、きみか?」
「え?あ、はい。油絵が好きなんです。これもわたしが描きました」
ミゥカはそう言って、階段横の壁に飾られた絵を指差す。夕日に照らされ、一面紅に染まる大海原が閉じ込められていた。
「上手いな。綺麗だ」
「いえ、素人ですよ。二階っ、二階に行きましょう」
照れ隠しか、ミゥカは両手を横に忙しなく振ると、階段を駆け上がっていってしまう。
こちらはまだ走れないんだが…。
苦笑いをこぼしつつ、カメの歩みで二階に上がると、待ち構えていたミゥカが左奥の部屋を指し示した。
「お客様用の部屋はないので、わたしの部屋を使ってください。わたしはお母さんたちと寝ます」
「え?いや、俺はリビングの床で構わないんだが」
「怪我人が何を言っているんですか!ダメに決まっているでしょう!もうっ」
ミゥカは俺の後ろに回ると、腰をぐいぐい押した。分かった分かった、と両手を挙げて降参の意思を示したものの、ミゥカは手を緩めない。そのまま押されるように部屋に入った。
シングルベッドとデスク、それから本棚という実にシンプルな寝室だった。ラピスラズリを砕いて散りばめたようなベッドシーツが、部屋の主人の抜け殻を残して乱れている。ハッと気付いて慌てて整えるミゥカの姿に口角を上げつつ、本棚の方に視線を向けた。
少女向けコミックや文庫本の間に、全三巻のアンデルセン童話全集が紛れている。さらにアルフォンス・ミュシャや高橋由一の画集が並べられており、絵画好きの少女をよく表した本棚だった。
「はい、これで大丈夫です」
振り返ると、満足げに腰に両手を当てるミゥカと、凪いだ湖面のように整えられたベッドがそこにあった。
「さっきのままでも、俺は気にしないが」
「わたしが気にします!あと、着替えですよね。大体はお父さんの物で大丈夫だと思いますが…、あ」
何か思い出したのか、ミゥカが勢いよくクローゼットを開ける。異性の衣服事情を直視するのは何だか失礼な気がして、窓の方に身体の正面を向けた。
眼下には小さな庭が広がっている。色とりどりの花やラタン調のガーデンチェアがあり、中でも背の高い木が目を惹いた。深緑で装飾もされていないあの木は一体なんだろう、と思っていると、後ろから名前を呼ばれる。
「これも使ってください。以前怪我の手当てをした人間のお姉さんにもらったんですけど、わたしには大きくて」
ミゥカが広げていたのは、ホワイトカシミヤのナイトガウンだった。見るからに質がいい。
「きみは一体、どこの御令嬢を助けたんだ?」
「あっ、ということはやっぱりこれ、高価なものなんですね!?」
「まあ、値段は張るだろうな」
「肌触りがいいので高いんだろうなとは思っていたんです。だから着られなくても、手放しにくくて」
ちょうどよかった、とばかりに渡されるが、これまでナイトガウンを愛用するような生活は送っていないため、正直困る。だが無下に突き返すわけにもいかず、ぎこちなく片方の口角を上げた。
「あと、何か必要なものはありますか?」
「あー…必要なものはないが、質問ならある」
「何でしょう?」
「あれは何の木?」
庭にある背の高い木を指差すと、ミゥカは柔らかく目を細めた。
「あれは桜の木ですよ。八重桜です。遅咲きだから、まだ蕾なんですよね」
「桜か。満開になると綺麗だろうな」
「ええ。とっても綺麗ですよ。満開になったら、みんなでお花見しましょうね」
花がほころぶように笑うミゥカがまぶしかった。あまりに無邪気な言葉が、乾いた大地を潤す雨粒のように俺の仄暗い心に浸透していく。本人は何気なく紡いだ約束だったかもしれない。けれど、未来の訪れを待ち詫びる約束なんてしたことがない者からしてみれば、それは夜道を照らす月明かりと同じだった。
そして月明かりに導かれるように、海音寺家での居候生活が始まった。平日は学校に行くミゥカを見送ったあと、病院や自宅の掃除をしたり、庭の雑草取りなどに勤しんだ。鴉の家ではハウスキーパーが身の回りの世話をしてくれるため、自ら行動することそのものが新鮮で楽しかった。
けれどやはり、ミゥカと過ごす時間の方が比べ物にならないくらい満ち足りていた。ミゥカは平日の夕方と休日の早朝に、必ず海に出かけた。俺は犬のようについていき、自由に泳ぐ彼女を浜辺で眺めるのがお決まりの流れ。
「あー…気持ちよかったー」
満足いくまで泳いだミゥカが、浜辺にごろりと寝転がる。海開きにはまだ程遠い時期で、人影もまばらとはいえ、水着姿であまりに無防備すぎないだろうか。見ているこちらが心配になる。
「ミゥカ。きちんと身体を拭かないと風邪をひく」
身体を隠すようにバスタオルを渡すと、鈴を転がすような笑い声が鼓膜を震わせる。
「キョウヤ様、お父さんみたいです」
「誰がお父さんだ。せめてお兄さんにしてくれ」
苦情は、軽やかな笑い声で一蹴された。そして、梃子でも動かないらしい。ミゥカは浜辺に背中を預けたまま、暮れゆく茜空を瞳いっぱいに映している。代わりに拭いてやるわけにもいかないので、仕方なく脚の方に上着を掛けてやった。とはいえ、足首まで隠せるわけでもない。
空気にさらされたままのふくらはぎを彩る鱗が、夕陽を反射してきらきらと輝いていた。綺麗だ、と心の内で思っただけのつもりが、喉からこぼれ落ちたらしい。
「えへへ、そうですか?人魚の鱗は個性があって、ひとつとして同じものはないんですよ」
ミゥカは、声に喜びの色を滲ませる。
「そうか。じゃあ、ミゥカの鱗だから美しいんだな」
「…そんなに褒めても何も出ませんよ」
「ハハッ。見返りを求めて褒め言葉を言うヤツが、どこにいるんだ」
そんな風に、これまでの人生からは想像もつかないほど、穏やかな日々が続いた。ミゥカと過ごす時間や何気ない会話が、俺の心に美しい花を咲かせていく。そして何もなかった荒野が、色鮮やかな花々の絨毯に移り変わる頃、胸のコルセットが外れた。
これで息をするのが大分ラクになりますね、と自分のことのように喜ぶミゥカの頭を撫で、学校へ行く背中を見送る。いつもと変わらない平日の朝――になるはずだった。
日中の仕事を探そうとリビングに戻ると、突然アサイ医師が新聞を渡してきた。視線で記事を指し示す。読め、ということらしい。その意図がよく理解出来ないまま、とりあえず紙面に視線を落とす。
一瞬で、不躾な手に心臓を掴まれた。
【関東黒鴉 空閑家当主の三男、空閑オウカ容疑者が拘置所で自殺。オウカ容疑者は、次男の空閑センエイ氏殺害容疑で逮捕され、今月上旬より拘置所に勾留されていた】
弾かれるように顔を上げる。俺を真っ直ぐ見つめるアサイ医師の瞳は、凪いだ水面のように穏やかだった。
彼は最初から分かっていたのだ。
俺が空閑家の者だということも、
いま空閑家に何が起きているのかも、
そして俺にとって一番の脅威は誰なのか、
それさえもすべて。
『きみを害する者は、もういませんよ』
新聞を握りしめる手が震える。口を開いたものの、肝心の声が出てこない。何度挑戦しても喉からこぼれるのはか細い息ばかりで、脳内を駆けめぐる言葉を捕まえられない。
素性を隠していたことを謝らなければ。空閑家の騒動に巻き込まれる危険も顧みず、助けてくれたことに改めて礼を言わなければ。
思えば思うほど言葉は喉でつっかえて、代わりに感情の粒が頬を伝う。
『言ったでしょう。僕は医者で、医者は苦しんでいる者を助けるのが仕事だと。キョウヤくんが何者であれ、僕にとっては大怪我をした鴉の子でしかありませんよ』
アサイ医師は、いつもと変わらず柔和な微笑みを浮かべていた。
『あなたが元気になってくれたことも、安心して送り出せることも、本当に喜ばしいことです』
差し出された手を、両手でぎゅっと握りしめる。俺の命も誇りも救ってくれた恩人の手は、いつかとは違ってじんわり温かかった。奔流のような涙に押され、口を開いた。
「本当に…、お世話になりました…っ」
海音寺家で過ごした三週間の間に、俺は随分、感情が豊かになったと思う。笑い、驚き、戸惑い、時おり怒って、それからこんな風に泣いた。泣き虫になってしまうのは少々困りものだなと思っていたが、本当の泣き虫を前にするとそんな悩みも吹き飛んだ。
言わずもがな、ミゥカである。学校から帰ってきたミゥカに、明日出て行く旨を伝えた途端、わんわん泣かれてしまった。
「桜はまだ七分咲きなんですよ…っ!満開になったらお花見をすると約束したのに」
「…ごめん、ミゥカ」
「コルセットが取れたからって、何もすぐに出て行かなくてもいいじゃないですか…」
当主の座には相変わらず興味がない。だが完全に後継者がいなくなったいま、親戚筋から後継者が擁立されてしまうと、俺は空閑家での立場を失うことになる。それは極道の世界において、鴉として生きていく資格を失うことと同義だった。だから未練を振り切ってでも、新たな後継者擁立の前に帰らなければならない。
「ごめん。ごめんな…」
濃藍の瞳が溶けてしまうのでは思うくらい、ぼろぼろと涙を流すミゥカの頬を撫でた。泣いている子の慰め方もぎこちない自分が、少し恥ずかしい。ミゥカはひとしきり泣いたあと、目元を真っ赤に腫らしたまま、ぽつりと言葉をこぼした。
「わたしの声…」
「ん?」
「わたしの声、覚えていてくれますか」
それは、生まれる前からかけられた呪いの到来に怯える人魚の切実な願いだった。
聞いた話によると、生物の記憶から失われていく五感の筆頭にいるのは、聴覚だという。つまりまず最初に、相手の声を思い出せなくなる。
だから仕方ない、と思うはずがない。たとえ生物の脳が等しくそうであろうと、俺を海の底から救い上げ、夢のような安寧の日々を与えてくれた人魚姫の願いなら、みっともなく足掻いてでも叶えてみせる。
「もちろん覚えている。絶対に忘れない」
鈴を転がすような笑い声も、海に行こうと誘う溌剌とした声も、暖かい毛布のような優しさでおやすみと囁く声も、ガラス天井を鳴らす雨音のような泣き声も、俺の名前を呼ぶ砂糖菓子のように甘い声も、全部。
全部、忘れない。
「約束の証に、ミゥカの一人称をもらおう」
「一人称?」
「いままで“俺”と言っていたが、“私”に変える。こうすると、俺の声にミゥカの声が混ざっているみたいだろう?これから俺は、自分が話すたび、きみの声を思い出す」
ミゥカにとって気休めにもならないだろうが、こちらの誠意をどうにかカタチにして見せたかった。するとミゥカはわずかに口角を上げ、突然しゃがみ込んだと思ったら、ふくらはぎの鱗を一枚剥がし取った。
「えっ、何やって…」
「はい。これ、あげます」
何ともない顔で手を突き出され、困惑が先行する。どうしたらいいのか反応に迷っていると、しびれを切らしたミゥカが俺の手を掴んで鱗を載せた。
「一人称だけだと、記憶が目には見えないでしょう。だから、キョウヤ様が綺麗だと褒めてくれた鱗をあげます。これは、わたしだけの鱗ですからね」
ミゥカの身体から離れても、鱗は虹色の光沢を失うことなく燦然と輝いていた。個性が現れ、ひとつとして同じものはないという人魚の鱗。たしかにこれなら、眺めるだけでミゥカの声も一緒に過ごした時間も、容易に思い出せるだろう。
「ありがとう。大事にする」
「肌見離さず身に付けていてくださいね」
「ハハッ。ああ、そうするよ」
艶やかな黒檀の頭を撫でると、ミゥカは、寂寥の影がさす心悲しい微笑みを浮かべる。その表情が視界を占めた瞬間、胸の奥がぎゅうっと締め付けられた。
痛みはあるが、傷口の悲鳴とはまた違う。さらに、じわりとこぼれる熱が胸を満たしていくが、息苦しいわけでもない。
誰かの優しさに触れたこともなければ、誰かを愛したこともなかった俺が、この痛みと熱の正体に気付くのは、これよりずっと先のこと。
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