「私の妻だ」

第8話

「ミゥカ。もうすぐ着くから起きてくれ」


優しく肩を揺らされ、現実と夢の境界で揺蕩っていた意識が引き上げられる。窓が切り取る景色は、いつの間にか渋滞の車列から閑静な住宅街に変わっていた。わたしはどれぐらい眠っていたんだろう。


隣に顔を向けると、穏やかに微笑む空閑と目が合った。わたしからしてみれば、目的地は虎穴にも等しいのに、あまりにも緊張感がないと思われただろうか。恥ずかしくなって目を逸らすと、小さな笑い声が耳を打つ。


やがて車は、漆喰の塀の前で停まった。ドアを開けて先に降り立った空閑が、手を差し出してくれる。


「では、行こうか。すべてを終わらせに」


いたずらっぽく片眉を上げる空閑はまるで子どものようで、自然とこちらの口角が上がる。その手を取って外へ出た。


漆喰の塀の肚には、古き時代の様相をそのまま残した日本家屋が収められている。ブラックのロングコートを翻し、歩き出した空閑の背中を追って敷地に足を踏み入れた。


等間隔に置かれた露地行燈の灯火を導として、砂利の海に浮かぶ飛び石を渡る。引き戸を開けると、着物の女性がわたしたちを出迎えてくれた。


「空閑様。お待ちしておりました」

「客は?」

「山茶花の間にて、皆様お揃いです」

「ありがとう。頼んだ物は三十分後に届けてくれ」

「かしこまりました」


空閑は鷹揚に頷くと、上がり框の睨みに従って革靴を脱いだ。だから出かける際、足元には気を遣わなくていいと言ったのか…と、ひとり納得する。


黛さんが見繕ってくれた、ドルチェ&ガッバーナの、銀糸が織り込まれたツイードワンピースとジャケットに合うのは、ヒールの高いパンプスだということは百も承知だった。でも完璧なスタイリングは、足の痛みと引き換えに得るもの。だから、空閑の言葉に嬉々として飛びつき、メリージェーンスニーカーを選んだ。


全体を見ると抜け感がありすぎるが、誰かの目に触れないのなら気にすることもない。空閑のさりげない気遣いにより、羽が生えたみたいに軽やかな足で後を追った。


空閑にとっては勝手知ったる日本料理屋なのか、迷いのない足取りで、年季の入った茶褐色の廊下を進んでいく。途中、大きな池に掛かる廊橋に出た。池の水は底が覗けるほど透き通っていて、色鮮やかな鯉が優雅に泳いでいる。水に惹かれてしまうのは種族の性か、つい足を止めてしまった。


「ミゥカ。こっちだ」


心地よいテノールに、視線を手繰り寄せられる。空閑が、廊橋を渡った先で足を止め、わたしを手招いていた。慌てて傍らに行くと、柔らかく細められた漆黒の双眸がわたしを迎える。


「泳ぎたいのか?」

「えっ、あの池で、ですか?違いますよっ」

「いや、そういう意味じゃなく、水が恋しくなったのかと思っただけだ」

「あー…それは…、はい。少し…」


本音をこぼすと、大きな手がわたしの頭を撫でた。十年前の話を聞く以前から、空閑が自然にやっていた行動だが、最近ようやく気付いた。これは単なる空閑の癖だ。


子ども扱いしているわけではなく、身長差から生まれるスキンシップのひとつ。それに気付いてしまうと、こちらも慣れてくるもので、いまはもう感情が波立つどころか、撫でられるだけでじんわりと温かい安心感に満たされる。


「それなら、早く終わらせて、さっさと家に帰ろう。プールサイドにキャンドルを並べて泳いだらいい」

「それはロマンチックですね」


幻想的な光景を想像して顔をほころばせると、空閑も釣られるように口角を上げ、歩き出した。そして、薄紅色の山茶花が描かれた襖の前で足を止める。漆黒の瞳がわたしをちらりと見た。


準備はいいか、と視線で問われ、小さく顎を引く。それを合図に、空閑は無遠慮に襖を開け放った。針のように鋭い視線が、一気に集まる。


「ああ、全員お揃いで。待たせて申し訳ない」


広々とした和室には、二台の長テーブルが独立を保ったまま、向かい合って置かれていた。それぞれ三名ずつ座っており、結婚前の両家顔合わせの場に見えなくもない。でも顔ぶれからすると、それも笑えない冗談だ。


なぜなら、一台には、毒島ヤナギとその両親。そしてもう一台には、海城ヒメナとその両親が揃っているのだから。


そこには、まさにわたしにとっての虎穴が存在していた。


「理由も告げずに我々を呼びつけておいて、堂々と遅刻するとはな。鴉は意地汚いだけでなく、常識を持ち合わせていないのか」


毒島の父親が、片眉を吊り上げて吐き捨てる。でも空閑は、蛇の嫌味などどこ吹く風といった具合で言葉を返す。


「申し訳ない。四百年も恩を盾に他種族を搾取する傲慢な一族や、自分の娘可愛さに天涯孤独な少女を蛇に売る身勝手な一族に合わせる常識は、あいにく持ち合わせていないもので」


室内の空気が、ざわりと殺気立った。じろりと睨みつけるだけだった海城家の面々も、空閑に明確な敵意を向けられると黙っていられないようだ。その場にいるすべての者から、見えない刃を突きつけられているというのに、目の前の圧倒的強者は少しも揺るがない。


「そんなに殺気立たないでもらえるか。妻が怖がる」

「妻?」


大きなガーゼが主張する左頬。アームホルダーで固定された右腕、という痛々しい姿の毒島が、訝しげに眉をひそめる。こちらは襖に身体を寄せて中を窺っていたが、空閑の広い背中に隠され、和室内からわたしの姿は見えていなかったらしい。


空閑は、わたしの肩を抱き寄せた。ロングコートにすっぽり包まれると、親鳥に守られる雛のように思える。


「私の妻だ」


空閑に集まっていた視線が、今度は一斉にわたしに向けられ、いたたまれない気持ちになる。


不意に、ダンッ、と乱暴に空気を揺らす音が上がった。出どころに目を向けると、派手な化粧をほどこした女が膝立ちになって震えている。わたしの親戚、海城ヒメナだ。


「なんですって!?そんなのありえない!」

「たしかにまだ書類上の関係だが、ありえない話ではないだろう。私は、花嫁をさらったのだから」

「許されるわけないでしょ!?何言ってんのよ!ミゥカは借金のカタに売られるって話じゃないの!?」


甲高い声でわめき散らすヒメナに、空閑は不快感を隠さない。わざとらしく大きなため息をついた。


「結婚式でのあのパフォーマンスを額面通り受け取るとは、純粋を通り越してただの阿呆だな。先祖返りの恥さらしだ」

「なん…っ、ですって!?」


ヒメナは顔を真っ赤にして、隣の父親を見やる。


「パパも何か言ってよ!ミゥカが鴉と結婚なんて絶対ダメでしょ!?」


ヒメナの父親は何度も頷き、スマートフォンを取り出して何やら打ち込むと、急いで娘に見せる。父親の意思を確認したヒメナは、勝ち誇ったような顔でわたしと空閑に向き直った。


「パパが、鴉を警察に突き出すって。まぁ確実に有罪よね。ミゥカの誘拐と監禁、脅迫…罪状はいくらでもありそうだし」

「警察、か。むしろ訊きたいんだが、なぜこの三週間の内に被害を申告して助けを求めなかった?ミゥカの親友は、一番に駆け込んだというのに」

「それは…」

「ミゥカが鴉にさらわれたと世間に知られれば、蛇と人魚…どちらの一族も面目丸潰れだから、警察に言えなかったんだろう?お前たちは、なにより世間体を気にしているからな」


ヒメナの整った顔が歪む。肚の内を的確に言い当てられ、返す言葉も見つからないらしい。


「私を脅迫しても無駄だ。そもそも、結婚の許可を得るためにお前たちを呼んだわけじゃない」


空閑は吐き捨てるように言うと、感情のない冷めた視線を毒島の方に滑らせる。


「毒島ヤナギと海音寺ミゥカの婚約破棄を、正式に書面で残してくれ」

「ハッ。借金といい結婚といい、鴉はなんでもかんでも書類にしないと、気が済まないのか?」

「口約束は不確かだからな。金はすぐに返せると言いいながら、行動がまったく伴わないヤツらを腐るほど見てきた。あらゆる火種を消しておくためには、用心するに越したことはないだろう?」


明確な嫌味に、毒島は舌打ちをこぼして親指の爪を噛む。よほど苛立っているのか、膝が長テーブルを小刻みに揺らしていた。


「そもそも空閑ァ。お前が言う結婚に、そこの人魚の意思はあるのか?本当に?ストックホルム症候群じゃないのか?」

「…毒島。その言葉は、私ではなく彼女への侮辱だ」

「ハッ。なんだよ。違うと言えるか?なあ?海音寺ミゥカ」


爛々と不気味に光るふたつの目玉が、わたしの内側を探るように見つめてくる。ああ…と思い出す。初めて会ったときからずっと、この蛇男のこういうところが心底嫌いだった。自分の考えがいつも正しいと思い込み、相手の心を挫くような毒しか吐かない傲慢なところが。


わたしは視線を逸らさぬまま、温かい腕の中から抜け出した。深みのあるテノールが、心配そうにわたしの名を呼ぶ。大丈夫ですよ、と告げる代わりに微笑んでから、毒島の前に立った。


見下ろされることが不愉快なのか、骨ばった額に青筋が立っている。いっそ、怒りで血管を断ち切らせてしまおうかと思い、わたしは満面の笑みを浮かべて口を開いた。




「空閑様との結婚云々以前に、わたし、もともとあなたと結婚したくなかったんです。だから婚約破棄してください」




室内に充満する空気が、ぞわりと波立つ。空閑を覗いたすべての者が、超常現象を目撃したかのように言葉を失い、こぼれんばかりに見開いた目でわたしを見つめる。


ありえない。

信じられない。


そう言いたげな視線に絡め取られ、少し息が詰まるけれど、恐ろしいとは思わなかった。心強い味方がいるという安心感が、わたしの背中をそっと支えてくれる。


「ウソでしょ…、あんた先祖返りだったわけ…?」


一番最初に金縛りから解けたのは、ヒメナだった。振り返ると、魂が抜け落ちたような顔がそこにあった。


「そうよ。あなたと一緒」

「なんで…、なんで隠してたわけ?」

「先祖返りは蛇に目をつけられるからよ。でも先祖返りなんて、ただ声を出せるだけで、別に特別な能力を持っていないのにね」

「あんた…、なに、あたしを馬鹿にしたいわけ!?先祖返りを隠してたって、結局蛇と結婚することになったくせに!」

「そうね。でも貧乏くじではなかったわ。心からわたしを愛してくれる方が迎えに来てくれたもの」


自然とこみ上げてきた幸福で唇をかたどると、視界に映る真っ赤なルージュがみるみる歪んでいく。怒りかあるいは屈辱を感じているのか、身体がぶるぶると震えている。


美しく着飾った身から、いつ感情が爆発するかと身構えたけれど、爆発地点はなにもヒメナだけではなかった。


「空閑ァ!お前っ、この人魚が先祖返りと知っててさらったな!」


飛びかからんばかりの勢いで、毒島が立ち上がる。その際押しのけられた長テーブルが、わたしの脛に当たった。痛みを感じる間も与えられず、軸を失った身体が傾く。背中やお尻に訪れるであろう衝撃に備え、歯を食いしばった瞬間、力強い腕に抱きとめられた。


「大丈夫か?」


見上げると、夜空を閉じ込めた漆黒の瞳が心配そうに揺れていた。


「あ…大丈夫です。ありがとうございます」

「それならよかった」


目元を和らげる空閑に微笑み返すと、どこからか呻き声が聞こえてくる。声の出どころに目を向けると、毒島が苦悶の表情を浮かべていた。


「おっと、悪い。お前も支えたつもりだったんだが、場所が悪かったな」


ひと欠片も悪いと思っていない平坦な声音に、わたしの胃の底が薄ら寒くなる。よく見ると、わたしを抱きとめている方とは反対の手が、毒島の右肩を鷲掴みにしていた。言うまでもなく、分厚い包帯が存在を主張している場所である。


「ぐぁ…っ」

「で、何だった?ああそうだ。彼女が先祖返りと知っていたか、だったな。人魚の一族さえ知らなかったというのに、部外者の鴉が知るはずないだろう」

「…んのやろ…っ!」

「そもそも、先祖返りに執着するお前たちと一緒にするな。反吐が出る」


空閑は、侮蔑と嫌悪を顕にした声で吐き捨てると、手を離した。ようやく解放された毒島は、畳の上にうずくまって痛みに悶える。蛇の両親が急いで駆け寄り、キンキンと騒がしくわめき立てた。


「二日前といい、今夜といい、暴力でねじ伏せるのが鴉のやり方か!?卑怯な上に野蛮な種族だな!」

「その卑怯で野蛮な種族から金を借りる息子は、一体なんだ?低俗なゴミか?」


空閑は、相手がいくら激情をぶつけてきても、決して冷静さを失わない。凪いだ水面の下に感情を隠したまま、言葉に添えた鋭い刃で傷をつける。だから相手は自分だけが滑稽に思え、その羞恥から押し黙るしかない。


薄汚れた静寂が戻ったところで、空閑はため息をつきながら膝を折った。彼の温もりを失った背中が、少し寒い。


「なぁ、毒島。ミゥカとの縁だけじゃなく、私との縁もそろそろ切ろうじゃないか。お前ももう、うんざりだろう。賭場で借金を抱え、結婚式でメンツを潰され、傷だらけになった挙げ句、私に跪く羽目になって」


毒島が、気だるそうに顔を上げる。汗で湿った前髪の隙間から、恐れや憎しみといったどす黒い感情に染まる瞳が覗いていた。


「ミゥカとの縁が完全に切れないかぎり、私との縁も続く。いい加減、私と出会う前の平穏な生活を取り戻したいだろう?」


空閑は、スーツの内ポケットから紙を一枚取り出し、長テーブルに置いた。毒島の心を揺らすように、朱肉とペンをそれぞれゆっくり並べる。


互いの視線が宙でぶつかり合う。時間にするとほんの数秒。けれど永遠とも感じる無言の探り合いのあと、毒島はひったくるようにペンを掴んだ。紙に穴が空くのではと思うほどの勢いで名前を書き、潰れた拇印を添える。


「よし。よくやった。恩に着るよ」


まっさらな方の肩を叩き、空閑は立ち上がった。テーブルの上を片付けることも忘れない。毒島は聞こえよがしに舌打ちをこぼし、心配して伸びてきた両親の手を振り払った。

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