第11話
神波と病院を抜け出した翌日の夕方。
今日は月曜じゃない。つまり面会許可日ではなかったが、特例ということで、神波と少し話すまで病室にいていいという許しが出ていた。
そのため、俺は神波の病室の扉を開いた。
俺が部屋に入ったのを見た瞬間、神波は心配そうにベッドから身を乗り出す。
「具合はどうだ?」
「平気だよ。全然元気。変わりなし」
その言葉に、ほっとして息を吐いた。
「そうか、良かった」
そう言って、俺はいつものように椅子に腰かける。
「ね、お父さんに怒られなかった? ひどいこととか言われなかった?」
「言われなかったよ、全然。むしろ、感謝された」
「感謝?」
「娘を連れ出してくれてありがとうって」
彼の姿を思い出すと、自然に笑顔になった。汗をかいて、急いで職場から直行して、神波の顔を見てから、またすぐに職場に戻ったのだろう。
「いいお父さんだな。お前のこと、本当に大事なんだ」
その言葉に、神波は照れたように頬を緩めた。
「一人娘だからね。親不孝者だけど」
彼女の言葉に、俺は自然と言葉がこぼれていた。
「……羨ましいよ。俺の親は異常だから」
「……どんな風に?」
俺は、自分の言動に驚いていた。
今まで、あの異常な母親の話を自分から他人にしたことはなかった。
冴島にはしつこく聞き出され、流れで話したことがあるくらいだ。
あんな母親のこと、誰にも言えなかった。彼女の存在は俺にとって恥だったし、話せば自分の弱みになると考えていたからだ。
……だけど今、俺は神波に、自分の弱音を聞いて欲しいと思っている。
「意外だな。神波は『親が異常なんて、そういう言い方をしちゃいけないよ』、とか言いそうなのに」
そう告げると、神波は俺を射抜くように真剣な目をして言った。
「だって氷槻君、傷ついた顔してる。そんなに苦しそうな表情をしている人に、正論をぶつけても救われない」
その言葉に、ぎゅっと胸が締め付けられる。
「……何から話せばいいか」
「いいよ、思いついたことからで」
それから俺は、ぽつぽつと過去の出来事を話し出した。
「過干渉ってやつなんだと思う。俺の行動も、交友関係も、全部把握したがってた。友達も、教師も、俺に近づく人間は、全部拒絶して、遠ざけようとしていた」
「それは、最初からそうだったの?」
「いや……父親と離婚して、家を出て行ってからかな」
俺は深いため息をついて言葉を続ける。こんなことを神波に打ち明けて、俺は何を求めているのだろう。同情して欲しいのか?
「母は、俺に医者になって欲しいといつも言っていた。だから、偏差値の高い中学を受験させた。一日十時間以上、強制的に勉強を強いられたし、娯楽はほとんど許されなかった。だけどそれは、全部俺の幸せを願ってのことだと思ってた。彼女が俺のためだと言うから、本当にそうなんだと思い込んでた」
俺は両手を組み、自分の額に当てる。
「だけど中学の受験に合格した時、母親が言ったんだ。これで、離婚した父を見返せるって。その時、ようやく気が付いた。俺は都合のいい道具として使われていただけで、彼女は俺自身の幸せなんて、望んでなかったって。それが分かったら、全部どうでもよくなった」
暗くてつまらない話をしているな、という自覚はあった。だが、神波は真剣な表情で俺の話に耳を傾けていた。
「ああ、俺は、母親に愛されていないんだって、その時ようやく気付いた。そうしたら、母親の言う通りにいい子にしていた自分を、めちゃくちゃに壊してやりたくなった。全部、幼稚な反抗心だ」
「……約束を守らない人間が、死ぬほど嫌いなだけだって言ってたね。それは、氷槻君が約束を守られなかった経験があるから?」
鋭い所をついてくるな、と思ってため息を漏らす。
「ああ、そうだ」
「それも、お母さんのこと?」
「いや……」
俺はこれ以上話しても神波の負担になるのではと思ったが、神波は真面目な表情で続きを促した。もはや、今さら隠しても仕方がないか。観念し、俺は話を続けた。
「両親が離婚した当初は、数か月に一回、こっそり父親と会ってたんだ。俺が小学五年生くらいの時までは。たまにファミレスに行って、母親といる時は身体に悪いからと禁止されて食べられないような、デザートもいくら注文してもいいと言われて。単純な俺は、喜んでいた」
目を閉じると、その時のファミレスの光景がぼんやりと浮かんだ。だが、父の顔はもう鮮明には思い出せなかった。
「父親は、必ず俺を迎えに来ると言った。落ち着いたら、親権を母親から取って、二人で暮らそうと言った。その時の母は、正常さを失いかけていたが、それでもまだまともな時もあった。正直、選ぶのは難しかった。父親も母親も、どちらも好きだったから。本当だったらまた一緒に三人で暮らすのが一番いいと思ったけど、子供ながらにそれは不可能なんだと分かっていたし、言ってはいけないんだと察してた」
俺は言葉を一度切り、ため息のように続きを吐き出す。
「けど結局その翌年、父親は母とは別の女と再婚した。その女には、俺と同じ歳の子供がいた。新しい家族と暮らすようになったら、俺のことはどうでもよくなったらしい。必ず迎えに来ると約束した父親は、俺を迎えに来ることはなかった。もう何年も会ってない。今はもうどこで何をしてるのか、知らないし、知りたくもない」
「……どうして、そのことが分かったの」
「母親が、探偵に依頼してわざわざ調べたんだ。発狂してた。それからだ。俺の母親が、脆いところがある普通の母親から、異常に過干渉になったのは」
そこまで話して、俺は目蓋を閉じた。
本当は、分かっていた。
母は、俺が父に奪われるのが怖かったんだ。
だから、俺に対して過干渉になった。
帰りの時間も、友達と遊ぶことも、俺が何かに興味をしめすのも、すべて制限して自分の管理下に置きたがった。
俺にとって、母は加害者であったけど、同時に母が被害者であることも理解していた。
憐れな人だ。
もう、俺を奪われる心配なんて必要なんてないのに。
父親は、俺のことなんてまったく欲しがってない。
「俺は誰にも必要とされてない」
軽く笑い飛ばしたつもりだったが、深刻な口調になってしまい、しまったと思う。
そんなのずっと分かっていたことだったのに、こうして改めて言葉にすると、思いの外気持ちが沈んだ。
彼女の瞳の縁に、透明な涙が滲む。
「そんなことない」
そう言った神波の声は震えていた。
彼女の表情は、安易な慰めや同情じゃなかった。
むしろ、意地を張っているような、怒っているような顔だった。
今にも泣き出しそうな神波を見て、小さく肩をすくめる。
「……泣くな。お前を泣かせたかったわけじゃない」
そう告げたのと同時に、神波の瞳から涙の雫がこぼれ落ちる。
人間は、こんな風に美しい涙を流せる生き物だったのか。
今まで泣いている人間なんて、たくさん見て来たのに。
それこそ泣きわめいている母親なんて、何度も見たけど嫌悪感しか湧かなかった。
それなのに、どうしてだろう。
神波が泣いていると、抱きしめたくなるのは。
「……お前が泣くと、どうしたらいいのか分からなくなる」
泣くなと言ったのに、神波の涙は止まらず、ぽろぽろと零れ落ちてパジャマに染みこんで、涙の跡を作った。
「……誰にも必要とされてないなんて、そんなことない、絶対に」
一度すんと鼻をすすり、神波はごしごしと手の甲で涙を拭った。
「おい、そんなに強く擦ると赤くなるぞ」
それから神波は、貫くようにまっすぐに俺を見て告げた。
「じゃあ、私でいい?」
「ん?」
「私が氷槻君を必要って言ったら、そんな悲しそうな顔をさせないですむ?」
まだ、顔は泣きそうなのに。それでも神波の言葉は簡単に折れない強さを持っていた。
どうしてこいつは、こんなに優しいんだろう。
こんなこと、今まで誰にも打ち明けられなかったのに。
俺は自分の額を、そっと神波の肩に預ける。
神波は小さく息をのんだ後、遠慮がちに手のひらを俺の背中に置いた。彼女の手から、じわりと熱が伝わってくる。
神波の手の熱から、彼女が生きているんだということを実感する。そんな当たり前のことが妙に嬉しくて、俺まで泣きそうになる。
さすがにここで俺まで泣いたら恰好がつかなすぎるので、目蓋を閉じて小さく呟いた。
「……ありがとう」
心のどこかで、神波が病気だから、勝手に何か力になれればいいと思っていた。
だけど神波と会うことで、ずっと救われていたのは、俺の方だったのかもしれない。
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