第10話
翌週の月曜日、俺はいつものように病院にいた。
いつもと違うのは、隣に白河がいることだ。
今日、作戦を決行する。
白河を囮にして病室にいてもらい、その間に神波と俺は外に出かける。
元々人通りが多い病院ではない。
退出するところさえ目撃されなければ、うまくいくと思うのだが。
白河は、頭をすっぽり覆うツバの広い帽子をかぶり、水色のブラウスとジーンズを身に着けていた。当然だが、制服を着ていない白河を見たのは初めてだった。普段と違う、少し快活な印象を抱いた。
「……今日は私服なんだな」
「休みの日だからね。氷槻君もでしょう」
白河は現実から隔離されたような病院を眺めて、不思議そうに目を瞬いた。
「ずっと、こういう病院があるのは知ってたけど、中に入るのは初めて」
「ああ、俺も最近までそうだった」
俺と白河はなるべく人と遭遇しないように神波の病室まで足早に向かった。
神波には事前にどう動くか、どんな経路で移動するか伝えていたが、それでも実行当日の今日が来るまで、半信半疑だったようだ。
俺と白河が病室に入ったのを見て、驚き半分、呆れ半分といった様子で肩をすくめる。
「まさか替え玉まで用意するとは思わなかったよ」
「さすがに、ベッドがもぬけの殻だとまずいだろ」
「それで、さすがにそろそろ教えてもらえる? その、協力者が誰か」
神波の声を聞き、白河は帽子を取った。
「……知世ちゃん」
神波が白河を認識した瞬間、病室の空気が凍り付いたのをハッキリと感じた。
小学生の時の友人との感動の再会にしては、あまりにも空気が重い。
背中にじわりと汗が滲む。
もしかして、白河に騙されたのか?
だとしても、嘘をついてわざわざここまで来る理由は?
天使病の患者が珍しいから見たい?
それとも神波に何か恨みがあって、復讐したいとか……。
俺が一度白河を病室の外に連れ出すべきかどうか迷っていると、白河がぽつぽつと話し出した。
「……今さら謝罪なんて、多分澪ちゃんは必要としてないし、それを言ったことで、私が許されたつもりになりたいだけかも」
神波は、ベッドに座ったまま静かに彼女の声に耳を傾けている。
「……ずっと後悔してたの、あの時澪ちゃんを傷つけたことを」
俺は神波の話を思い出し、ハッとする。
仲がよかった、五人の親友グループ。
「私が、澪ちゃんに酷いことを言ったことを謝りたかった」
神波が累翼を見せた時、『気持ち悪い』と言って泣き出した。
白河が、その五人のうちの一人だったのだろう。
俺は神波の様子を静かに見守った。
神波は黙ったまま、白河のことを見据えている。
「……どんなことでもいいから、力になりたくて。でも、会えなくなって、どうすればいいのかって、ずっと考えてた。罪滅ぼしには、ならないかもしれないけど」
押し黙っていた神波は、やがて肩の力をふっと抜く。
「いいよ、もう。私、謝ってほしいんじゃなかった。……けど、それでも謝ってもらえて、ああ、私、ずっとちょっと怒ってたんだなって分かった」
その言葉は、明確な許しの意思だった。
俺は一触即発だった空気が、丸く収まりそうなことにほっと肩を撫でおろしていた。
病室のベッドの周囲を囲うカーテンを引いて、その向こうで神波が入院着から私服に着替える準備をする。
神波から入院着を受け取った白河も隣で着替えをすませ、先にカーテンの中から現れた。
俺は不安そうな白河に最後の確認をする。
「とにかく顔を隠して寝たふりしておけば、うるさく言われないはずだ」
「緊張しすぎて吐きそう」
そう言ってベッドに腰を下ろした白河は、ほんとうに顔色がいつもより悪く、病人のように見えた。
神波はカーテンの向こうから、そんな白河に対してふっと笑みをもらす。
「シーツは、コインランドリーでいつでも洗濯できるから、もし吐いて汚れても大丈夫だよ」
それを聞いた白河が情けない声を出す。
「そんな具体的な対応策はいらないぃ!」
白河の様子を見て、思わず笑ってしまった。
やがて準備を終えた神波が、カーテンを開いて姿を現す。
「お待たせしました」
神波は、いつもの入院着やパジャマとは違って、レースがあしらわれたワンピースを着ていた。花柄の模様が入ったワンピースの上には水色のカーディガンを羽織っている。足元はスニーカーだった。
いつもと違う神波の姿に、思わず見惚れてしまう。
何か褒めた方がいいかと考えたが、俺が褒める前に白河が「かわいい!」と騒いだので、何も言えなくなってしまった。
白河はベッドに潜り、緊張した様子で微笑んだ。
「行ってらっしゃい、二人とも。楽しんできて」
その言葉に背中を押され、俺たちは外の世界へと足を伸ばす決意を強める。
神波は笑顔で頷き、手を振った。
「ありがとう、行ってきます」
♢
そこから病院の外への移動は、想定していたよりもあっさりとうまくいった。第一関門はクリアだ。
元々厳しく監視されているわけでもないし、看護師の数も多いわけではない。
入院患者も、のんびりした老人がほとんどだ。
だが途中、神波のことを知っているおばあさんが大きな声で「あら、澪ちゃんかわいい恰好ね、どこにお出かけ?」と騒いだ時は肝が冷えた。
そうこうしながら、俺たちはとりあえず、最寄りの駅まで無事に到着した。
電車も平日の昼だからか人の数はまばらで、座席に座ることができた。
電車に揺られながら、神波に乗り換えの駅の説明をする。
「しばらくは電車移動だ。具合が悪くなったら、無理しないですぐに言えよ」
「ん、分かった」
「向こうに着いたら、先に昼飯食べるか。食べたいもの、あるか?」
そう問うと、少し考えてから神波は言った。
「ハンバーガー」
「そんなのでいいのか?」
「普段食べられないから、ハンバーガーが食べたい。あとフライドポテト。ついでにシェイクもあるといいな」
なるほど、たしかに病院食だと、まずハンバーガーとポテトは出てこないだろう。神波がそういう味を欲しても不思議はない。
「分かった、じゃあ到着したら、駅前でハンバーガーを食べよう」
「うん、楽しみ」
神波は電車に乗ってから、しばらくは楽し気に窓の外を眺めていたが、二回目の乗り換えを終えたくらいのところで、ぐったりした様子になる。
「……どうした、顔色悪いぞ? 体調が悪いのか?」
やはり、いきなり連れ出したことで体調に変化があったのだろうか。俺がそう心配すると、神波は具合が悪そうに口元を押さえた。
「……ちょっと、酔ったかも」
「ああ、なるほど、電車酔いか」
もう何年も、神波は乗り物に乗っていない。慣れていない神波が電車に酔うのも当然といえば当然だった。
「一度途中で降りて、どこかで座って休憩するか?」
その提案に、神波はかたくなに首を横に振った。
「ううん、もうあと数駅で目的地に到着するでしょ? そこまでなら耐えられるから、平気。歩いてたら、そのうち治ると思う」
俺は本当に大丈夫かと心配しながら神波を見守る。
「ほら、神波、到着したぞ。降りれるか?」
俺は神波に向かって手を差し出す。
神波は俺の腕につかまり、よろよろとした足取りで電車から降りた。
何か飲んだ方がいい。そう考えた俺は、自販機を探そうと早足になった。
「……歩くの、ちょっと早い」
少し離れたところから神波の声が聞こえ、俺はハッとして足を止める。
それから神波が追いつくのを待ち、彼女の速度に合わせて足を緩めた。
「悪い」
「……服の裾、握っててもいい?」
「いい。好きに引っ張れ」
そう答えると、俺の服の背中あたりが神波の手によって握られた。
「平気か? 喉は乾いてないか?」
「少し乾いてる」
「じゃあ、飲み物買おう。何がいい? 水? 麦茶? アイスティー? ジュース?」
「レモンティーがいい」
「分かった」
駅の構内の周囲に、ベンチがあった。
俺は神波をそこに座らせて待たせ、近くにあった自販機でレモンティーを購入して彼女に渡す。
「ほら」
「ありがとう」
それを受け取り、一口ペットボトルの茶を飲んだ神波は、俺の顔を見てこらえきれなくなったように、なぜかくすくすと笑い出した。
俺は眉を少し寄せ、笑っている神波を見下ろす。
「何かおかしいことあったか? 今」
「ふっ、だって今日の氷槻君、なんだか……なんだろう、番犬みたいで。飼い主の周りを、ギンッ! って目をして歩き回ってる、ドーベルマンみたいな。俺が守らないと! って感じで」
その後は言葉にならず、また笑い声が続く。
俺は髪をくしゃくしゃとかきあげ、ため息を吐いた。
「ドーベルマンね。もっとかっこいい例えがあっただろうよ。ボディガードとか」
「ドーベルマンだって、かっこいいでしょう? 犬の中で一番イケメンじゃない?」
「たしかに、ちょっと肩に力が入ってたかもな。俺がこんなだと、神波も楽しめないか」
そう言って立ち上がると、神波はきょとんとした丸い瞳で俺を見上げた。
「楽しんでいいの?」
「当り前だ、数年ぶりに自由に遊びに行くんだろ? 思う存分楽しめ。でないと、犠牲になった白河が浮かばれない」
その言葉に、また神波はくすくすと笑った。
「白河さん、別に犠牲になってないよ」
やがて水族館の入っている建物に到着すると、神波のテンションが急激に上昇した。
中に入るまでの列に並んでいる時点で、神波の表情は明るく、喜んでいるのが伝わってきた。
暗い館内を歩き出したのと同時に、神波はぎゅうぎゅうと俺の服を引っ張る。
「ねえ氷槻君、見て! 大きな船の、アトラクションみたいなのがあるんだけど⁉」
「本当だ、すごいな、室内にこんなのあるんだな」
水族館だというのに、館内に入って一番に目に飛び込んできたのは、船の形をしたアトラクションだった。大きさも相まって、かなりインパクトがある。
予想通り、神波は声を弾ませて言った。
「乗りたい!」
俺はアトラクションの前にある看板を読みながら答える。
「いいけど、心臓の弱い方は乗るなって注意書きが」
「心臓は悪くないから平気!」
神波が自信満々にそう言うので、断る理由もないだろう。俺は彼女に引きずられ、船のアトラクションの座席に乗り込んだ。
船はまるで振り子のように大きな弧を描いて、前後に動きだす。
鉄骨の支柱に吊られた船体がゆっくり持ち上がり、次の瞬間には加速しながら反対へと振り下ろされる。
船が高く舞い上がると、乗客たちの悲鳴が館内にこだました。
船体が大きく振れる度に、座席に座った俺たちは放り出されるような感覚に包まれる。
「意外と揺れたな……」
そういえば神波はさっき電車で酔っていたが、平気だっただろうか。隣の神波を見やると、彼女は満面の笑みで満足そうにしていた。
「楽しかった! こういうの乗ったの、初めてかも!」
「そうか、それならよかった。もう一回乗るか?」
そう問うと、彼女は首を横に振り、俺の腕を引いた。
「ううん、大丈夫。水族館だし、魚を見に行こうか?」
次のエリアには、たくさんの水槽が展示されていた。
神波がその一つ一つに顔を寄せ、水槽の隣にある説明まで真剣に読んでいるのを見て、つい表情を緩める。
「見て、氷槻君、クラゲがたくさんいる!」
神波の表情が分かりやすく輝いた。
この一角はさっきより薄暗く照明が落とされ、クラゲばかりを展示している場所のようだ。
俺たちの背丈よりも高い、円柱型の大きな水槽がいくつか並び、そのすべてにクラゲがいる。
神波が素早く水槽に近づいていくのを見て、俺はふっと微笑んだ。
「クラゲ、好きなのか?」
「大好き! 見て、氷槻君! 中くらいのクラゲ!」
「ああ」
喜ぶ神波の隣で、俺もしばらくクラゲを眺めた。神波は楽し気に隣の水槽に移動し、今度はそちらに俺を呼ぶ。
「こっちは、さっきより大きなクラゲ!」
「そうだな」
「見て、これはすごく長細いクラゲ!」
「ああ」
「少し小さいクラゲ!」
「全部クラゲじゃねーか」
さすがにツッコむと、神波はくすくすと子供のように笑った。
「ね、色んな種類のクラゲがいるんだね。もうちょっと見てていい?」
「ああ、飽きるまで何時間でも見ろ、今日はいくらでも付き合う」
円柱状の水槽はライトアップされていて、紫、黄色、赤、白、青と様々な色に変化していく。
神波はその水槽にそっと手を当て、興味深そうに中をのぞきこむ。
瞳を輝かせた神波の横顔が、ライトが輝くのに照らされてほんのり光っている。
「クラゲの水槽、実際に見てみたかったんだ。よく写真や動画は見たことがあったけど。こんな風にふよふよ動くんだね。骨がないのに、どうして動けるんだろう?」
「クラゲが動くのは、筋肉に似た組織と神経の反射だってさ。脳も心臓もないから、考えて動いてるわけじゃなくて、流されてるだけみたいだ」
「え、そうなんだ⁉」
それを聞いた神波は、クラゲの身体の仕組みを探るように、さらに真剣な表情でじっと目を凝らして観察する。
「そっか、たしかに全部透けてて、内蔵とか見当たらないもんね……。不思議だね。どんなことを考えてるんだろうって思ったけど、脳がないなら何も考えてないのかな。……本当にそうなのかな? クラゲは自分が生きてる意味とか、これからしたいこととか、考えないのかな」
「……どうだろうな」
神波は目を細め、心から自然にこぼれたように呟いた。
「……綺麗」
彼女が水槽に見惚れている姿を見て、俺も自然と思ったままに呟いていた。
「……たしかに。綺麗だ」
神波はクラゲの観察に満足したらしく、次の場所に移ろうと俺の腕を引っ張る。
そして次のコーナーに移動し、並んでいる水槽を見るやいなや、眩しい笑顔で俺に声をかけた。
「ねえねえ、見て、氷槻君! めちゃくちゃ小さいクラゲがいる! 指先より小さいよ!」
その言葉に、俺は思わず腹を抱えて笑ってしまう。
「え⁉ ちょっと、笑いすぎだよ」
神波が恥ずかしそうに頬を染める。
「……お前、いったいどれだけクラゲが好きなんだよ。もうクラゲのターンは終わったと思ったら、またクラゲか」
神波は笑い続ける俺を見て、つられたように目尻を下げる。
「……笑いすぎだけど、ちょっと嬉しい。そんなに笑う氷槻君、初めて見た」
俺は神波の手を引いて、別の展示の方へ移動する。
「他の魚もいるだろ、ちゃんと見ろ」
「あ、ペンギン歩いてる、かわいい」
俺は腕を組んで、ぺたぺたと歩くペンギンを見下ろした。
「本当だ。ペンギンはかわいいけど、ちょっと生臭いよな」
「ねえ、そんなことな……まぁ、ちょっとそうかもしれないけど」
順路通りに進むと、近くに広いステージがあるのを見つけた。
「氷槻君、もうすぐイルカショーをやるんだって!」
神波が、イルカショーの時間を掲載している看板に駆け寄った。
「ああ、水族館だと定番のやつだな。せっかくここまで来たんだ、イルカも見ていくか」
イルカショーを行う会場は、青く澄んだ水面が大きく広がった円形のプールの周囲を、客席がぐるりと囲む構造になっていた。
水槽の縁には飛び込み台やパフォーマンス用の足場が備えられ、淡いライトが水を鮮やかに照らしている。
水槽の中にはまだ何もおらず、時間が近づくと満席になるのかと思ったが、平日だからか意外と観客はまばらだった。
「どこに座る?」
「せっかくだから、最前列がいいんじゃないか?」
そう言って、俺たちは最前列の椅子に腰かける。
ショーの時間が近づくにつれ、後方の席はだんだんと埋まってきたようだ。家族連れやカップルが、これから始まるショーを楽しみに話すざわめきが会場に広がっていく。
その様子を眺めながら、俺は疑問を呟いた。
「……なんか、前列の方は極端に人が少なくないか?」
「前方四列までは、イルカの水飛沫でびしょ濡れになるって」
「なるほど、だからひよってんのか」
神波の言うとおり、たしかに客席近くにそのような説明書きがしてあった。
「……私たち、本当に最前列で大丈夫?」
「平気だろ……。いや、三列目くらいにしておくか」
そう答えると、神波は肩をすくめてくすくすと笑う。
「ふ、ひよった」
「うるさいな、俺は別に濡れてもいいけど、一応お前を気づかってやってるんだ」
神波の手を取って立ちあがらせ、少し下がった席に移動し直す。
「カッパも販売してるみたいだけど」
「いらん、いらん、そんなの。正面から正々堂々と戦え」
「あはは、別に勝負じゃないのに」
そんなことを話しているうちに、ショーが始まった。
調教師が手を動かす指示の通りに、イルカたちは広いプールの中を泳ぎ回る。
「ね、氷槻君、イルカって、すごいスピードで泳ぐね」
神波の言う通り、イルカの泳ぐ速度は俺が想像していた以上だった。
目で追うのがやっとの速さで、瞬きをするうちにすごい速度で広い水槽を半周してしまう。
「たしかに、想像したよりずっと早い。よくぶつからないな」
音楽に合わせてイルカたちが尾びれで水面でリズムを刻む姿や、回転や立ち泳ぎをする姿に、会場は何度も拍手で包まれる。波打つ水面と、輝く水飛沫がキラキラとイルカたちと、観客たちを照らし出していた。
「そろそろショーも終盤か」
「うん、想像していたより濡れなくて良かったね」
そんな会話を俺と神波がしたのを、まるで見計らったかのように。
最後に、イルカの一頭が高く飛びあがり、天井に届くほどに大きく弧を描いて回転し、大ジャンプを決める。
そのイルカは俺たちの真正面に見事に着水し、今までとは比べ物にならないほどの水飛沫が、俺と神波の顔面に浴びせかけられた。
会場は割れるような歓声に包まれ、イルカたちは誇らしげに、再び波を切って泳ぎ去っていった。
びしょ濡れになった俺と神波は、一瞬呆然としていた。
「嘘だろ」
だが、もはや笑うしかない。
顔を見合わせてしばらく笑った後、小さくため息をついた。
「……どうせ夏だし、濡れてもすぐ乾くだろ」
水族館の職員が、濡れてしまったであろう客たちに、タオルを配っているのが見える。
びしょ濡れになった俺と神波も、ありがたくそのタオルを受け取って髪や顔の水分を拭った。服があまり濡れなかったのは、不幸中の幸いだった。
「タオル、貸してくれて助かったね」
「アフターサービスが手厚いな」
神波の黒い髪の毛から透明な雫がこぼれ落ちているのを見て、俺は神波の頭をタオルできゅっと押さえる。
「……お前、風邪ひかないか?」
「平気だよ。そんなにやわじゃないから」
そうだろうか。俺は神波の身体の強度がどの程度なのか、正直まったく分からない。
その後も水族館を周った俺たちは、だいたい順路を周り終えた。
気がつけば病院を出たのは午前中だったのに、あっという間に夕方になっていた。
「そろそろ帰らないといけない時間だな」
そう告げると、神波はほんの少し寂し気に微笑んだ。
「土産売り場でも見るか。欲しいもの、ひとつ選べ」
それを聞いた神波の瞳が驚きに見開かれる。
「え? 何、まさか氷槻君が買ってくれるの⁉ いいよ、私お金はけっこうあるし。むしろ氷槻君に、お礼を何か買おうか? そうだ、知世ちゃんにもお土産買わないと」
「遠慮するな、今さら。こういうのは、気分だろ。誰かに貰った方が、思い出になるだろ」
最初から、記念に何か買うつもりだった。神波が欲しいものを。
俺が強引にそう言うと、神波は照れたように頬を染める。
「えー、そっか? 嬉しい、どれにしようかな……。やっぱり、ぬいぐるみかな」
俺は棚に並ぶぬいぐるみたちを、神波と一緒に眺める。
「クラゲか?」
「いや、ぬいぐるみだったらイルカかな」
「まさかの裏切り。お前、あれだけクラゲばっかり見てたのに」
「だってさ、ぬいぐるみの造形だったらイルカの方がかわいいもん!」
「まあ、お前のぬいぐるみだ。好きに選んだらいい」
宣言通り、神波はイルカのぬいぐるみを手に取った。
会計をするために並んだレジ前には、思いの外長い列ができて混雑していた。
神波はその最後尾に並びながら、イルカのぬいぐるみを両手で抱えてやわらかく笑う。
「氷槻君、今日はありがとう」
俺は彼女の隣で、その声に耳を傾ける。
「ん?」
「私、入院してからこんなに楽しかった日ってない。今日ね、本当に、本当に楽しかった。……だから、ありがとう」
神波の言葉につられ、俺もつい笑みを浮かべる。
「また、出かけよう。その度に、白河に協力してもらわないといけないけど」
神波は、先ほどより熱のこもった口調で告げる。
「体調、もう少しよくなったら、きちんと外出許可出るかもしれないから。今まで、私も諦めてたっていうか、拗ねてたけど。今度は堂々と許可を取りに行くよ。だから、その時はまたどこか一緒に行ってくれる? 二人で」
その言葉に、俺はしっかりと頷いた。
「ああ、約束する」
神波の瞳に輝きが宿り、頬がほんのりと染まる。
「あの……あの、氷槻君。あのね、後で病院に戻る前に、少し話が……」
神波が真剣な表情で何かを言いかけた。
だが、それをさえぎるように、俺のスマホが鳴った。
一度切れるまで放置しておいたが、またほぼ間隔を置かずに、すぐに鳴る。
「……めちゃくちゃ電話鳴ってない? 出た方がいいよ?」
でももうすぐ会計の順番が来るし、こんな時に誰だと思いながら画面を見ると、白河の文字が表示されていた。何かあった時のために、一応連絡先を交換したんだった。
さっきまで館内を歩いていたから気が付かなかったが、白河からの着信は十回を超えていた。
通話ボタンを押すと同時に、泣きそうな白河の声が飛び込んできた。
「どうしてずっとかけてるのに出てくれないの⁉ まずいよ、緊急事態!」
もう、すでに嫌な予感しかしない。
「……バレたか?」
「お昼ご飯のトレイ、返却しに行ったら、その時看護師さんに見られちゃって。多分バレた! 今トイレにこもってるけど、発見されるのも時間の問題! 早く帰ってきて!」
心配している様子の神波に、簡潔に状況を説明する。
「替え玉作戦、バレたらしい」
白河はおそらく個室にこもっているのだろうが、電話からでも扉越しに、看護師の開けなさいという声が聞こえてくる。
俺は小さく息を吐いて、白河に言った。
「白河、隠れてないで、外に出ていい。俺が説明するから、相手に電話変わってくれるか?」
「分かった……」
白河が個室の外に出て、周囲にいた看護師と何かを話しているのが伝わってくる。
俺はスマホを耳に当て、大声で怒鳴られる覚悟をした。
だが、しばらくして電話口から聞こえてきたのは落ち着いた、静かな男の声だった。
「……もしもし。氷槻君だね」
電話に出たのは、神波の担当医の紫藤医師だった。
怒っている気配はなかった。この間話した時と同じように、まるで診察の続きのような、穏やかな声だ。
「はい、そうです、氷槻です。今、神波と一緒にいます。……病院の外にいます」
「うん、そうだろうなと思っていたよ」
「全部俺が言い出したことです。神波の体調は、悪くありません。今からすぐに電車で帰ります。ただ、移動時間を考えると、まだ一時間半以上はかかります。白河……替え玉になったそいつのことは、責めないでください。俺が無理に脅して、協力させたんです」
紫藤が静かに頷いた気配がした。
「……分かった。怒らない。急がなくていいから、ふたりとも気を付けて帰っておいで」
「はい」
電話している間に会計の順番が回ってきそうだったので、俺は一度レジの列を抜け出したのだが、神波も俺を心配してついてきてしまった。
再び視線を戻した時には、レジの列は最初に並んでいた時よりさらに長くなっている。
神波は不安そうに眉を下げ、申し訳なさそうに俺を見上げた。
「まあ、焦ってももうバレたのは仕方ないし、もう一回並んで、ぬいぐるみ買って帰るか?」
俺の提案に、神波は首を横に振る。
「ううん、もういいよ。知世ちゃん不安だろうし、早く戻ってあげよう」
「だけど……」
「本当にいいの。ありがとう、ここに来られただけで、十分だから」
そう言って、神波は胸に大切そうに抱えていたイルカのぬいぐるみをほんの少し名残り惜しそうに、棚に戻した。
それから水族館を出て、駅に向かって電車に乗るまで、俺も神波もしばらく無言で歩いた。
やはり計画に無理があったか。白河にも迷惑をかけてしまった。自己嫌悪でため息がもれそうになる。
背中側の服をつんと引かれたのに気づき、俺はハッとして振り返る。
「悪い、歩くの速かったか?」
「……ううん、平気」
神波が目を細めて微笑む。
俺はふっと笑い、さっきよりも歩く速度を緩めて、二人で電車に乗った。
♢
「いっっっったいあなたたちは、何を考えているんですかああああ!」
神波を担当している看護師の女性の雷が、病室に落ちる。
耳にキンキンとした叱り声が響き、俺は思わず口を歪めた。
俺の隣に立っている神波は、本当に申し訳なさそうに小さく縮こまっていた。
……怒らないって言ったじゃないか。
俺が恨みがましい目で看護師の側に立っている紫藤医師を見ると、彼はにやりと口の端を上げる。
「僕は怒らないと言ったけど、他の人のことまでは責任をもてないな」
……別にいいけどな。怒られる覚悟はしてたし。
それから神波は、念のため精密検査を受けることになり、診察室へ移動した。
廊下に出ると、神波と同じくらい申し訳なさそうな顔をした白河が立っていた。
「悪いな、巻き込んじまって」
「ううん、私こそ責務を全うできなくてごめんね」
真面目な性格の白河は、必要以上に責任を感じているようだ。
「いや、別に白河はやり遂げる責任も何もないんだから、気にするな」
白河は心配そうに、神波が去って行った方向を眺める。
「神波さんは、今から検査?」
「ああ、けっこう時間がかかるって」
「そっか、結果が分かるまで待っていたいけど、私兄弟の迎えに行かないといけなくて」
その時初めて、白河に兄弟がいることを知った。そもそも白河のことを何も知らないが、面倒見が良さそうなので家ではいい姉をしているのかもしれない。容易に想像がつく。
「俺たちのことは気にせず、帰ってくれ。今日は協力してくれてありがとう」
そう告げると、白河は小さく頷いた。
「うん。神波さんの検査、結果が分かったらすぐに教えてね」
「ああ、約束する」
白河を見送った後、俺は診察室の近くの椅子に座り、神波の検査が終わるのを待ち続けた。
待っている間、今さら不安が胸にじわりと滲んできた。
もし俺のせいで、神波に悪い影響があったらどうしよう。
……本当に、今さらだ。
あいつを命の危機にさらす覚悟の上で、連れ出したんじゃないのか。
気がつけば、全身にじっとりと汗をかいていた。
「幸い、今回の外出で大きな影響はなさそうだよ」
検査を終え、紫藤医師の言ったその言葉に一番ほっとしたのは、俺かもしれなかった。
神波は、今は病室で眠っている。
診察室にいるのは、呼び出された俺と紫藤だけだった。
「少し疲れているみたいだけど、病状に変化は見られない」
「そうですか……良かった」
俺の呟きに、紫藤は人の良さそうな笑みで頷いた。
「神波から、余命一ヶ月って聞きました」
紫藤は難しい表情で、机に置かれているカルテを眺めた。
「余命は、あくまで目安だから。余命を超えて何年も生きている人も、大勢いる。そもそもその余命は、最初に診断した時の話だ。今の様子だと、もっと長く生きられる可能性だって、十分ある」
それから彼は、目元をほんの少しだけ緩めて付け加える。
「……そうであってほしいと、僕も思っている」
この人の、こういうところが人間らしくてどうにも嫌いになれない。
まあ医者なんてたいてい誰かを救いたいという動機でなるのだろうから、善人なんだろう。
いや、金儲けとか、跡継ぎだから仕方なくとか、そういう人のためとは程遠い理由で医者を目指すやつだって、大勢いるんだろうけど。少なくとも、紫藤は違うだろう。
俺は半狂乱になり、喚き散らしていた自分の母親の姿を思い出す。
「誰かに勝ちたいから」だなんて、そんな理由で目指すような仕事ではないのだ。
「それと、氷槻君」
過去を思い返していた俺は、紫藤の言葉で現実に意識を戻す。
「はい」
「あとで神波さんのお父さんが病院に来るらしい。今は勤務中だけど、早退してここに向かっている。君と話したいと言っているんだけど。どうかな? もちろん、難しければ断ってもいい」
俺はその言葉に即答した。
「……いえ、話します」
俺の返事に、紫藤は柔和な笑みで頷いた。
「そうかい。じゃあ、面談室を開けておくから。そこで待っていて」
俺は病院の面談室で、椅子に腰かけて神波の父親を待った。
……怒られるんだろうな。
大切な一人娘を無断で病院から連れ出して、危険な目に合わせたのだ。殴られる覚悟くらいはしておいた方がいいだろう。
俺がもやもやと考えていると、面談室の向こうに人影が見えた。ノックの音が聞こえたので、俺は立ち上がって扉を開く。
あんまり神波に似ていないな、というのが第一印象だった。
白髪が混じりはじめた髪を無造作に撫でつけ、スーツの上着を片手に抱え、ワイシャツの袖をまくっている、五十代くらいの男性が立っていた。
「待たせてしまってごめんね。先に、娘の病室に寄っていたんだ」
その言葉に、俺は質問を投げかける。
「神波は、大丈夫でしたか⁉」
神波の父は柔和に笑って頷いた。
「ああ、私が病室に入ると、君のことを責めないでって、それだけ言って、また眠ったよ」
俺は頭を抱えたくなった。どうしてあいつは、こんな時にまで人のことばかり。
「氷槻君……だったかな?」
まだ自分の名前も言っていなかったことに気づいた。
「はい、氷槻蒼真です」
「神波澪の父です」
そう告げて、彼は右手を差し出した。
大きな手は少し荒れているが、差し伸べられると不思議と頼もしさと温かさを感じる。派手さはないが、こうして見ると素朴な笑顔と柔らかい目元は、神波澪に似ているかもしれなかった。
彼と握手をした後、俺は改めて深々と頭を下げる。
「澪さんを突然連れ出してしまって、申し訳ありませんでした。軽率な行動だったのは、深く反省しています」
神波澪を連れ出した行為自体は、良くないことだと分かっていた。
だが俺は時間を巻き戻せたとしても、きっと何度だって同じことをする。
神波の父はしばらく俺を静かに見ていたが、やがてふっと微笑んだ。
「……私はずっと、娘の幸せを考えてきたつもりだった。不自由な思いをさせているのは分かっていたが、それも澪の身体のためだと思って、心を鬼にして、外出はしてはいけないと、諭し続けて来た」
「……はい」
「でも、本当は娘の気持ちをちっとも考えられていなかったのかもしれない」
その言葉に驚いて顔を上げる。
神波の父は、微笑んでいた。
「ありがとう、娘を連れ出してくれて。澪は、とても喜んでいたよ。澪のあんなに嬉しそうな顔は、ここ数年見ていなかった」
そう言って、神波の父は深々と頭を下げた。
「これからも、澪をよろしく頼みます」
「ちょっ、やめてください!」
正直、神波の親には殴り飛ばされても仕方ないと思っていた。殴られる覚悟をして対面した。
それなのに、まさか謝られてしまうなんて。
驚いたのと同時に、ああ、まともな親ってこういう対応なんだ、と妙に感心と、ほんの少しの羨ましさを覚えた。
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