信都 その3

 劉秀、先軍となって苦陘くけいに至って、耿純が従兄弟耿訢・耿宿を宋子へ帰らせて、その屋敷を焼かせたと聞く。

 劉秀問えば、耿純答えて曰く「ひそかにうかがうところ、明公、ただ一台の車のみにて河北に望み、蓄財ちくざい無ければ、重賞香餌を以て人を集められる者に非ざるなり。只、恩徳おんとくを以てこれをなつけ、それ故士衆ししゅうは附かんことを願えり。今、邯鄲は自立し、北州は疑い惑う。我は一族挙げて命に帰し、老弱は隊列に在りといえども、なお宗族賓客の半ば心を同じくしない者が有ることを恐れる。故に屋敷を焼き払い、その後髪うしろがみ引かれる思いを絶たん」

 劉秀、歎息たんそくする。果敢な行動であり、それにもまして、その思いの深さである。こう伯山はくざんは壮士なり。

 劉秀、耿純を下がらせて尚も考えれば、二つ考えねばならぬことに気づく。一つ、耿純が引いた『こうせきこう』、劉秀もたのむ常道であり、耿純が策士さくしとして有能なことを示す。この者の言、重く用うべし。二つ、劉秀自身が兵を懐かせる施策しさくを敷く必要である。耿純が言うように、劉秀は諸将に諸兵を懐かせねばならない。

 そこで、次々に兵が集まれば、その将を一同に会して、得たる財物を問いたるに、唯、李忠のみかすめる所無し。そこで劉秀、諸将に言いて曰く「我は特に李忠に賜わろうと欲す。諸卿、うらむこと無きを得んや」

 即ち、自ら乗っているだい及び刺繍の上着を李忠に賜う。上着を李忠に自ら着せると、劉秀、李忠に耳打ちして曰く「貯め置くな、いつも乗って現れよ、いつも着て現れよ」

 これによって劉秀、三つを為す。一つは、任光の策によって、諸県に降伏するか掠奪りゃくだつされるかを選択させているが、劉秀自身は掠奪を避けることを望むのを示す。二つ、恩寵おんちょうを忘れたわけでなく、功に応じて恩寵を与えることを表す。三つ、李忠が大驪馬に乗り、刺繍の上着を着て現れる限り、諸将は恩寵があることを思い出し、同時に劉秀自身が恩寵を与えることを忘れずに済むということである。

 また、劉秀、侯に封じた者に、今、その地無ければ、あとで改封するか、現存の地名を封爵の名に付け替えて実にすることを約束する。

 劉秀軍、中山ちゅうざん郡を更に北上し、太守の王丹おうたんに降ることを促せば、王丹自ら従軍しましょうと言い、郡のかなめ盧奴ろどは降る。劉秀、王丹を偏将軍と為す。これによって中山郡はほぼ劉秀陣営に帰することになった。即ち劉秀のために兵は応じ、檄に諸県が応じれば、劉秀、馬を返して南に向い真定国に近い新市しんしを降す。鄧禹には真定の北西に位置する楽陽らくようを降させる。その劉秀軍に劉植らが戻り来たって、劉秀が郭聖通を娶ることで、真定王が劉秀に附くことを報じる。


 劉秀、真定に入れば王の劉揚、さい官属かんぞくが歓待する。劉秀、劉揚とは盟を結び、共に王郎に当たることを確認する。劉揚は、劉植らがさとしたように、劉秀が王郎に斬られれば、自らも王郎に斬られる命運になろうと言い、そのあかしが郭聖通であることを認め合う。劉秀、ここに泊まり、劉揚の許しを得て、鄧禹・銚期らに真定国の県を降させる。銚期は、稿こう稿城こうじょう肥累ひるいを次々に降した。


 その夜、劉秀は妙に寝付けなかった。伝舎の外に出て夜空を眺める。警護の馬成ばせいらが静かに供をする。この空の遥か南に陰麗華がいる、まだ臨月には至らぬが、無事であろうか。その一方、娶られるというが、人質同然の女、郭聖通の身の上を考えれば不憫ふびんと思う。

「劉公、眠れませぬか」と声がし、劉秀が振り向けばそこには劉植・耿純が居並び、共に前に進み出て、膝を屈する。

 劉秀答えて曰く「うむ。あれほど馬を走らせていたのに、何故だか今宵は眠れぬ。そこもとたちは」

 周囲をうかがいて後、劉植曰く「伯山はくざんが万一、王が劉公の首を打ちはしないかと疑いて、配下をして見回らせている由に御座います」

 耿純曰く「万一で御座います。我、邯鄲にて抜かった故に、明公を危中きちゅうに追いりました。二度とあのような思いはさせたく無く、又我も味わいたくありませぬ」

 劉秀、両名に問いて曰く「前将軍の議は相解あいわかった。驍騎将が同道するは、前将軍と同じ思い故か」

 劉植曰く「我は王を疑いませぬ。されど、明公の首を討とうとする輩があろうことは疑います。我ら、明公を頼って来ました。こう言えば不遜ふそんとなりましょうが、我ら明公の身を案じるのではなく、明公が身罷みまかった後の、我らの宗族の行方を案じるのです」

 劉秀、高らかに笑いて曰く「伯先はくせん、伯山、我はそれを聞いて安心したぞ。我もまた真定王を疑わぬ。人を案じたると言う者の言には偽りがあるかも知れぬ。されど、自らを案じたる者の言には偽りは無い。よって我、た王を疑わず」

 劉秀、両名に気遣きづかわせてはならぬからと言いかけて、言葉を変えて曰く「我も、自らの身を危険に遭わせても仕方あるまい。伝舎に帰ろう。そこもとらも、得心すれば眠るが良いぞ」と戻る。

 夜が明けると、劉秀、劉揚の言う漆里しつりに向う。真定国に知己ちきの多い劉植・耿純によれば不穏な動きは全く無いという。しかし、耿純は一部の兵をお借りしますと万一に備えた。

 待てばやがて来ると分かっていても、こういう時を待つのは辛いと、劉秀がじっと待てば、郭氏の一行がやって来る。劉秀、劉揚、諸将と共に酒宴を開く。花嫁はと劉秀が目で追えば、郭聖通は始終うつむき、目線が合うのさえ避けるようである。まるで顔が分からぬ。政略ゆえに嫌なのか、さもありなんと劉秀が思うも、宴が進む中、ふと気付くと、じっとこちらを窺う視線があり、それを見やると郭聖通が慌てて俯き、頬を赤らめている。手元がぎこちない。含羞がんしゅう、それかと劉秀、ようやく悟る。諸将、王郎との駆け引きに気をり減らして毎日を過ごしていれば、この宴を大いに楽しむ。真定王劉揚は興が乗り自らちくを撃って歓を為す。こうして劉秀、郭聖通を真定の漆里にれる。


 されど劉秀、王郎と戦っている故と、本来数日に渡る宴を早々に切り上げて、南下する。元氏げんしに至れば、鄧晨とうしん張況ちょうきょうが出迎え、即ち元氏も降った。二人だけとなり、鄧晨はわずか一月ばかり、と劉秀に言う。

 真定王劉揚に会するため、如何にすべきかと共に悩み、王郎が立って北へ向った劉秀は行方が分からず、今また兵を率いて現れる。おまけに、漸く聞いた噂によれば、真定王の姪をも娶ると云う。

 鄧晨問いて曰く「彼の者は如何にされる」

 劉秀、鄧晨の顔を覗えば、真顔である。人形よろしく体の良い人質とするかと問うものと気付く。

 劉秀、笑いて曰く「娶った以上、その上郭氏が添い遂げますと健気けなげに言う以上、妻子扱いをせざるを得まい。高祖こうそ様や西楚せいそ覇王はおう項籍こうせきの如く、戦陣を連れ回すより他無い」

 鄧晨、ふむと頷くが、ふと思いついて、尋ねて曰く「傾国けいこくで御座ったか」

 劉秀、目じりを下げて答えて曰く「驍騎将め、何も言わずゆえ、醜女しこめを覚悟しておれば、傾国とまで行かぬとも傾城けいせいよの」

 鄧晨、飲み込めて笑いて曰く「それは良きかな、良き哉」

 劉秀もまた笑う。

 鄧晨、劉秀と同室にて寝よう、夜半まで語り明かそうと思っていたが、事を知ると別室を用意させる。そして自らは辞去する。鄧晨、自らの部屋に進みて、取り敢えず劉秀・郭氏の仲が良ければ真定王も反せずと安堵する。

 鄧晨、顔をほころばせるとぼそりとつぶやいて曰く「仕官しては当に大司馬と成るべく、妻を娶っては当に陰郭共に得べし、なるか」


 男は笑う。無論、男の想像、いや妄想かもしれない。しかし劉秀が郭聖通を納れて、大事にしたのは事実である。劉秀が寵愛したのは二人だけ、また陰麗華の件より、劉秀も美女を好むと分かれば、おそらく郭聖通も美女であったと想像は付いた。そして既に役位は執金吾を越え、美女二人を娶ると為れば、その周囲はうらやんだか、はやしたであろう。

 笑いながら、男は部屋を出る。

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