真定(しんてい)

真定 その1

 真定しんてい


 いつもの如く男は、広げた木簡もっかんを巻き戻して棚に仕舞いて、別の巻物を広げ、見ては巻いて仕舞うを繰り返す。そうして男は、幾つかの書に目通しする。また声に出して呟く、曰く「両方、共に会った筈だ。しかし、記録が無い。如何いかなる会見であった、姉の婿なら、想像がつく。歓を尽くしたとしても不思議でもない。問題はもう一人との最初の会見なり。如何なる会見か。何故なにゆえ会見の記録が無い」

 しばらく、上を見たり机をにらんだりしたが遂にううむと声に出して曰く「世に広めるには宜しくなく、また史家が意地を張って書くほどのことでは無かった。その程度くらいしか推測できぬわい」と、筆を執って竹簡に二文字を書く。

 さてと、男は書を開いて、また別の書を開いて、口に出して愚痴ぐちる、曰く「記述が異なる。自ら立ったのか、担ぎ出されたのか」。どのようなものであったかと、男は首を捻る。


 邯鄲かんたんに若いとは言え、目端めはし耿純こうじゅんを置いてきた劉秀りゅうしゅう、北上を続け柏人はくじんに泊まる。その劉秀を追い、目通りを願う者たちがようやく追いついた。

 それを知った劉秀は先ず鄧禹とううを呼んで曰く「珍しい客が来た」と笑う。

 鄧禹問うて曰く「何人なり」

 劉秀答えて曰く「朱仲先しゅちゅうせんなり」

 鄧禹笑いて曰く「確かに珍しいかな」

 そして劉秀は鄧禹に曰く「我ら、長安の昔を懐かしむも良いが、鄧将軍には、仲先の同道人に会って貰えぬか」

 鄧禹僅かに眉をひそめたが「御意」と答え叩頭して席を立つ。


 劉秀、朱祐しゅゆうを部屋に招いて曰く「我と卿のみ、今なら外に話せぬことも話せよう」

 朱祐答えて曰く「そのため鄧仲華とうちゅうかを外させられたか」と部屋の外に目線を遣る。

 劉秀は黙って頷く。

 そこで朱祐は嘆息して曰く「我は伯升殿を敬慕していた。だから、あの最期に義憤し」と劉秀に目を遣り、続けて曰く「劉公が我を遠ざけたのも不審に思い、一人怨嗟えんさせり。今なら分かり申す。あそこで劉公がいきどおりに身を任せても、伯升殿の仇を討てるどころか今頃は九泉に在ったであろう」そして劉秀の目を視る。

 劉秀は何も言わぬまま話を続けるようにうながす。

 朱祐曰く「我、孝孫こうそん殿に説かれり。「元々仲が良かったのに、今汝は長安に行くと言う。河北へ行くべし。我は労苦の吏を劉公に託そうと欲す」。故に今ここに来たる」

 劉秀答えて曰く「相解あいわかった。我、卿に護軍ごぐんを任せたいと思うが如何に」

 朱祐それに対して黙って叩頭し、受諾の意思を伝えた。もはや朱祐は劉秀を咎めなかった。劉秀も自らを弁ずることなく朱祐を責めることもなかった。


 他方、体の良い人払い役なりしかと鄧禹とううが不平を覚えながら、その人物に会う。男は落ち着き、如何にも吏士然としている。

 鄧禹曰く「我は鄧仲華、若輩じゃくはいでは御座りますが、劉公の将をおおせつかり、目通し役を務めております」

 その男、答えて曰く「南陽なんよう西鄂せいがくちんしょうと申します。これは我が長史ちょうしを勤めておりました興徳こうとく侯劉孝孫殿から戴いた書状でございます」

 陳俊ちんしゅん、若くして長安に学び、戻って郡吏と為る。漢兵そして劉玄りゅうげんが立ち、太常将軍となった劉嘉りゅうかの長史となる。陳俊、常山郡曲陽きょくようの県令を任じられた故、朱祐らに同道する。その陳俊、名乗って、檄を鄧禹に預ければ拝伏し、他は言わず。

 鄧禹が読み終えても拝伏したままであれば、推薦状の通りの人物なりと、鄧禹、劉嘉の書を束ねれば、我について参られよと、劉秀の部屋に至り、陳俊を劉秀に繋ぐ。

 劉嘉の推薦状を読みたる劉秀、陳俊に言いて曰く「君を左右にと欲す。小県何ぞ貪るに足ろうや」

 陳俊、それを受けて県令の印綬を解いて曰く「それでは明公にお託し申します」

 劉秀、すなわち陳俊を安集掾あんじょうえんと為す。


 次に鄧禹が会った男、背はそんなに高くはないが、実にがっしりとした体躯たいく、鄧禹の脳裏には、強面こわおもてという言葉が浮んだ。

 鄧禹曰く「我は鄧仲華、若輩じゃくはいでは御座りますが、劉公の将をおおせつかり、目通し役を務めております」

 その男、答えて曰く「老若ろうにゃく、関係御座りませぬ。皇帝は幼くとも皇帝になり、劉公は若くともだい司馬しばに為られますれば」

 鄧禹、強面は顔だけではないなと思い、言葉を返して曰く「しかし」、にこりと笑って続ける「太公望はおきなで御座り、翁ゆえの知恵と分別ふんべつを持ち足ればこそ」

 しかし、その男も黙っておらずに、直に返して曰く「若き者、老いることは可なれど、老いた者、再び若やぐことは不可なり」

 鄧禹、下手に反論するは下策なりと思えば、切り返して曰く「なれば、我も老いれば、卿の如く賢くなりたいもので御座います。ついぞ卿の名を聞き忘れ申した」

 ここでこの男、自ら名乗るを忘れていたことに気付いて、曰く「老若にかかわらず申し忘れたはび申そう。君文くんぶんと申す。南陽は冠軍かんぐんの出で、舞陰ぶいんせい先生に学を習いたり」

 鄧禹は十も半ばで、長安ちょうあんに遊学に行く秀才、賈復かふくは強情な性格であるが、そのため学問に対しても正論で望む。話し合えば合うほど、互いの素地が深く正確に読み取れる。鄧禹がこやつ、顔に似合わず、すこぶる学に通じているのおと、賈復に感心し、賈復も、この若造、この若さにしてどれだけ物を知っているのだと、鄧禹に敬服する。

 鄧禹、自分は目通しの役であることを思い出し、問いて曰く「卿、何ゆえ劉公の陣営に来られるよし

 賈復答えて曰く「大司馬劉公に、我を使わぬかと尋ねる由故。これは大将軍興徳侯劉孝孫殿の書状なり」

 鄧禹、劉嘉の推薦状を拝読する。

 この賈復、赤眉せきびの乱が起こる前には、県の為に河東かとう郡に塩を求めに行き、他の者が賊に品を奪われるが、唯一人守り通して、その名を県中に知らしめた。赤眉の乱が生じれば、衆人を集めて自らを将軍と号した。劉玄が立ち、大将軍王劉嘉が冠軍に至って、賊の延岑えんしんを討とうとすれば、賈復、衆を率いて劉嘉に帰属きぞく校尉こういと為った。

 その後、皇帝劉玄の政は乱れ、諸将が放縦ほうじゅうなるを見て、劉玄よりも本家筋に当たる劉嘉にいて曰く「ぎょうしゅん禅譲ぜんじょうによって世をべ、これに至ること能わざるは、いんとう王・しゅう王で、放伐ほうばつによって世を統べ、湯王・武王に至ること能わざるのは、せいかん公・しんぶん公で、覇権はけんによって世を統べ、桓公・文公に至ること能わざるのは、戦国六国りくこくで、均衡きんこうによって世を定める。六国の規範を定めて、安寧あんねいむさぼって守ろうとして、至ること能わざるが、六国を滅ぼしたる所以ゆえんなり。今、漢室かんしつは中興し、大将軍は親戚を以てはんとなるが、天下は未だ定まらずして、安寧を貪ってたもつ所を守りしも、保てなくならざるか」と、劉嘉に皇帝劉玄から独立し新たな政体を作ろうとうながした。

 劉嘉答えて曰く「卿の言、大なり、我が任に非ざるなり。大司馬劉公は河北にいる。必ずく用いてくれよう。只我がげきを持って行け」

 故に今、賈復、劉秀をおとなった。

 鄧禹、これを先に見せれば良いものをと思いつつ、劉嘉の書を束ねれば、我について参られよと、劉秀の部屋に至り、賈復を待たせて部屋に入れば、即座に賈復、劉秀に召見しょうけんされる。劉秀、その人物に威厳いげんととの貫禄かんろくそなわるを見、鄧禹から将帥しょうすいの器なりと言われれば、即ち、賈復を破虜将軍の督盗賊とくとうぞくに為す。

 また朱祐らは、冠軍の人、杜茂とぼ、字は諸公しょこうを同道すれば、劉秀、これを結局掾史えんしと為す。

 柏人を出立する際、劉秀、賈復の馬がやつれたるを見れば、車駕しゃがの四頭のうち外のそえ馬を外して賈復にたまわる。衆人、あの体躯では馬がやつれるも無理は無いと言い合う。

 北のこう県に至るまでに賈復は、一行内部で不満の種となった。賈復、同輩と見れば、好んでくじ悪癖あくへきがあった。

 例えば、大司馬の督、段孝だんこうの隣に座し、段孝がとがめて曰く「卿は大将軍の督盗賊、我は大司馬の督、席次異なれば共に座すを得ず」

 されど賈復、顔色も変えずに返して曰く「共に劉公の吏であれば、何の尊卑か有ろう」と座し続ける。

 官属は共々、こうした賈復の不遜な振る舞いに耐えかね、賈復を追い払おうと、常山じょうざん郡の県令・都尉といを任命するに当って、賈復を鄗県の都尉に為してうつそうする。劉秀、大舅おおおじ張況ちょうきょう元氏げんしの県令に為す等、人事を見直すが、賈復の件を許さず、曰く「賈督は敵を千里の向こうに掃う威あれば、督盗賊に任ず。欲しいままに除こうとする勿れ」

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