絹の国

喜多里夫

序章 川戸絹という経験

川戸絹の生涯――その人となり

 川戸絹という経験


 1960(昭和35)年、日本の憲政史において画期的な「事件」が生じた。すなわち、憲政史上初の女性内閣総理大臣の登場である。その人物こそ、川戸絹(かわと・きぬ、1901―1980)である。


 川戸は三重県中部に二十町歩の田畑を有する中農の家に生まれ、新聞記者として世相の断面を活写し、やがて本邦初期の女性代議士の一人として政界に進出し、最終的には内閣の首班に就任した。女性の社会的進出が制度的・慣行的に幾多の制約を受けた日本近代史の中にあって、この軌跡はきわめて例外的である。しかし例外であるがゆえに、その歩みはむしろ時代精神を映す鏡像として注目されるべきである。


 川戸絹の政治的人格形成は、彼女の出自に強く規定されていた。すなわち、父忠吉ただよしは自由民権運動の余光を知る在村地主であり、子女に教育の機会を惜しまなかった。母登美とみは四日市の商家出身で、いわゆる「良妻賢母」的な性格を持ちながらも女子教育に理解を示す女性であった。この家庭環境こそが、川戸に進取の気風と同時に共同体への責任意識を深く植え付けたのである。


 また、彼女が新聞記者時代に培った社会認識――関東大震災における惨禍の目撃、外国人労働者や留学生との交わり、労働争議の取材等――は、その後の「市民的自由と責任の政治」へとつながってゆく。これらの経験が、川戸を単なる「女性代議士」の域にとどめず、「時代と拮抗する政治家」として立ち現れさせたといえよう。


 本書は、かかる稀有の政治家川戸絹についての初めての本格的評伝である。既存の憲政史研究において、女性政治家の系譜はしばしば周縁的に扱われてきたが、川戸の場合、彼女の政治活動それ自体が「女性の進出」という枠を超えて、日本政治史の核心に接続している点を看過してはならない。


 すなわち重要なことは、彼女の軌跡が日本という国家そのものの「選択の系譜」を映し出しているという点である。20世紀の戦争と混乱を経ながらも、立憲主義と民本主義デモクラシーを放棄せずに歩み続けたこの国の道程に、川戸絹という個人は常に寄り添ってきた。本書を読み進めることは、そのまま「絹の国」とも形容し得る近代日本の姿を、我々自身が再確認する作業に他ならない。




 先行研究と史料状況


 ところが、川戸絹に関する先行研究は、必ずしも十分に蓄積されているとはいえない。戦後女性史研究の中で散発的に論じられてきたにすぎず(例:田辺 1974)、政治史叙述では「女性初の首相」という記号的言及にとどまる場合が多かった(佐々木 1982)。近年になって地方史の観点から出自や家族経営に関する検討が行われているものの(中井 2001)、川戸の思想形成や政治実践を体系的に論じた成果は未だ少ない。

 史料面では、『東京タイムス』紙上の寄稿記事、衆議院会議録、関係者の回想録・書簡が中核をなす。さらに近年、川戸家に伝来した私信・草稿群が整理されつつあり(川戸家文書編纂会 2015)、従来不明瞭であった初期活動の様相を補う重要な素材となっている。本書はこれら新出資料を適宜参照し、先行研究の限界を乗り越えることを課題とする。




 従来研究の課題


 従来の川戸研究には大きく三つの問題が指摘できる。第一に、彼女を「女性初の首相」という象徴的存在に押し込め、その具体的な政策形成や議会活動の検討が不十分であったこと。第二に、関東大震災や戦時体験といった社会的危機との関わりが十分に解明されていないこと。第三に、同時代の他の女性政治家や市民運動との比較の視点が欠落していたことである。本書はこれらの課題を踏まえ、川戸の活動を時代史の中に位置づけ直すことを目指す。




 本書の構成


 本書は以下の構成をとる。序章において川戸の位置づけと研究状況を整理し、第一章ではその出自と家風を取り上げる。第二章では新聞記者時代と社会認識の形成を、第三章では関東大震災における体験を分析する。第四章から第六章にかけては代議士時代から戦時下の活動を跡づけ、終章では宰相期の意義と現代的射程を考察する。




 主な参考文献


1.田辺恵子『女性と議会政治―戦前期女性代議士の群像』巌波書店、1974年

2.佐々木武『近代日本の政党政治と女性』明正大学出版会、1982年

3.中井信行「川戸家の地主経営と地域社会」『三重県近現代史研究』第45号、2001年

4.川戸家文書編纂会編『川戸絹関係文書集成』私家版、2015年




 なお、以下に展開される叙述は、学術的資料に基づきつつも、小説的手法を援用している。これは、川戸絹の生涯が「事実」と「記憶」と「想像」の交錯する地点に位置することを示すための試みである。したがって本書は厳密な意味での歴史書ではなく、むしろ「物語としての評伝」であることを、ここにあらかじめ断っておきたい。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る