第19話 フェルン村の暮らし

 夜の森で焚き火を囲んだ翌朝、俺とルナはフェルン村へ戻った。

 朝霧がまだ村を覆い、ひんやりとした湿気が肌にまとわりつく。

 漂ってくるのは、湿った土と焦げ跡の匂い。

 数日前の襲撃の爪痕はそのままで、焼け落ちた家屋は黒く炭化し、土壁は崩れ、瓦礫が道を塞いでいた。

 畑の作物は踏み荒らされ、荒れ果てた地面には泥と血の跡がまだ残っている。


 ――ここで暮らしていた人たちは、何を思ってこの光景を見ているんだろう。


 俺の胸に浮かんだのは、そんな問いだった。

 けれど答えを待つ間もなく、人々はもう動いていた。


 男たちは折れた柱を数人がかりで起こし、縄で縛って仮の支えを作る。

 女たちは畑に残された芋や豆を掘り返し、少しでも口にできるものを集めている。

 泣き止まない子供を背負いながら鍬を振るう女もいた。

 疲労と焦燥の入り混じった声が、村の至る所から聞こえてくる。


 「よし、そこを押さえろ!」

 「ここ打ち込んで固定しろ!」

 「縄をもっときつく締めろ!」


 飛び交う声に混じり、俺は自然と足を止め、木槌を手に取って作業に加わった。

 崩れた梁を持ち上げ、重たい木材を肩に担いで運ぶ。

 次第に掌が擦れて熱を持ち、手のひらには小さな水ぶくれができていった。

 木槌で金具を叩くたび、腕にじんとした痛みが響く。


 ――狩りや戦いと違って、ここにはすぐに命の危険はない。

 だが、この地道な労働もまた「生きるために必要なこと」なんだろう。


 大学で一人暮らしを始めてから、家具を組み立てたり、バイトで重い荷物を運んだりしたことがあった。

 その経験が、まさか異世界で役立つなんて考えもしなかった。

 だが、俺が打ち込んだ柱がまっすぐ立ち、梁が組み上がっていく様子を見ていると、不思議な達成感が胸の奥に広がった。


 それでも――村人たちの目は複雑だった。

 俺の動きを見ながら、ふと視線を逸らす者。

 感謝を滲ませつつも、どこか不安げに眉をひそめる者。

 黒髪と黒い瞳、この世界でほとんど見られない色が、不気味に映っているのだろう。

 誰も口には出さないが、その視線の意味は痛いほど分かった。


 そんな空気をやわらげているのは、ルナだ。

 最初は怖がって距離を取っていた子供たちも、勇気を出して近寄り、小さな手で白い毛並みに触れる。

 ルナは尻尾をぶんぶん振りながら、そのまま転げ回って応じる。

 「わっ、ふわふわ!」

 「ルナ、こっち!」

 甲高い笑い声が広がり、泣いていた子供の頬にも笑みが浮かぶ。

 その様子を見た大人たちも、一瞬だけ手を止め、表情を緩めていた。


 神獣の子と恐れられてもおかしくない存在が、こうして「可愛い」として受け入れられる。

 その光景は、荒んだ村の空気を確かに救っていた。


 母狼は村に入ってはこない。

 森の奥で静かに俺たちを待ち、俺が狩りで仕留めた獲物を村人に分け与える間、ひとりで獲物を狩って帰りを待っている。

 あの巨体が村に現れれば、それだけで恐怖が広がるだろう。

 母狼自身もそれを理解しているのか、決して境界を越えることはなかった。


 木槌を握る手に力を込めながら、俺は心の奥で自問した。

 ――俺は、この村に受け入れられているのか。

 それとも「必要だから仕方なく受け入れられているだけ」なのか。


 答えの出ない問いを抱えたまま、俺は今日も柱に金具を打ち込み続けた。


 昼過ぎ、共同の炊き場から湯気が立ちのぼった。干し肉と芋の薄いスープが配られ、俺も列に並ぶ。

 木の椀を受け取ると、湯気と一緒に素朴な香りが立ちのぼる。塩味は控えめだが、空腹には十分だった。

 ルナには小さくちぎった肉を少し。嬉しそうに尻尾を叩く音が、膝に心地よく響いた。


 食後は井戸の枠を組み直す作業に回された。崩れた石を積み直し、桶の滑車を交換する。

 錆びた金具は手強かったが、油を差し、縄を一度外し、滑車を逆側から通すと滑りは格段に良くなった。

 「助かった」と頷く老人と目が合い、短く会釈を交わす。言葉は少ないが、実用の結果は伝わる。


 午後、村長のバルドが再び姿を見せた。土埃にまみれた衣のまま、手短に状況を共有する。

 倒壊家屋の数、残る食糧、次に必要な材木の量。俺にできる範囲で応じると、バルドは「助かる」とだけ言って去っていった。

 実務のやり取りは、感情を挟む余地を少なくしてくれる。俺にはその距離感がちょうどよかった。


 日が傾き始めると、村の空気がゆっくりと冷えていく。影が長く伸び、子供たちの笑い声も小さくなる。

 修復中の家の端で釘を打ち終えると、手のひらの水ぶくれが破れていることに気づいた。皮を押さえ、深呼吸を一つ。

 ――今日はここまでにしよう。


 夕刻。共同の小屋では、疲れた大人たちが簡素な食事を囲んでいた。

 ざわめきはあるが、笑い声は少ない。誰もが自分の皿と家の梁のことを考えている。

 その奥、机に突き合わせた男たちの肩越しに、ちらりと視線がこちらをかすめた。

 露骨な敵意ではない。ただ、測りかねている目だ。恩義と不安、その両方が沈んでいる。


 外に出ると、暮色が村を包み始めていた。焚き火の煙が真っ直ぐ空にのび、遠くで犬が吠える。

 荷車の陰で小さな袋が渡されるのが見えた。革袋が手のひらで重さを示し、誰かが短く頷く。

 耳に届くのは断片だけだ。領……さま、報……、見た……、というちぎれた音。

 確信には至らない。だが、嫌な予感は、胸のどこかにしっかりと根を張った。


 ルナが足元で低く鳴いた。落ち着け、と撫でる。今は騒ぎを起こす場面じゃない。

 俺は村の外れへ歩き、森の境界まで来ると振り返った。灯りが点々と揺れている。そこに、今日の小さな積み重ねがあった。


 境界を越え、森に入る。夜気がひやりと頬を撫で、草の匂いが濃くなる。

 やがて、月明かりの届く開けた場所に、母狼の影があった。こちらを見て、静かに尾を一度だけ振る。

 「ただいま」

 言葉はない。それでも伝わる。母狼は鼻を鳴らし、狩っておいた獲物を前へ転がした。

 俺はうなずき、必要な分だけを切り分け、残りを収納へ落とす。


 焚き火を起こし、短い夕餉をすませる。炎の揺らぎの向こうで、ルナが欠伸をして丸くなった。

 ――しばらく、ここから通おう。村には手を貸す。けれど、背中は預けない。

 火が小さくなるのを見届けて、俺も目を閉じた。


 その夜更け。村の外れ、藪の陰で草がわずかに揺れた。

 人影が一つ、森の方を一度だけ振り返り、暗がりに消える。手には、さきほどの革袋。

 足はまっすぐ、街道へ。向かう先は――ラドレア。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る