第18話 街道に立ちのぼる煙
森の木々の切れ間から、黒い煙が立ち昇っていた。
ただの焚き火ではない。焦げ臭さと鉄のような匂いが鼻先を突き、胸の奥をざわつかせる。
「……街道沿いか」
小さく呟くと、母狼が低く喉を鳴らした。ルナも耳をぴんと立て、落ち着きなく周囲をきょろきょろと見回している。
放っておけば、俺たちの生活に支障はない。森に戻れば、今日も狩りをして、焚き火を囲んで眠れる。
けれど――。
「……見てしまったからには、な」
自分に言い聞かせるように言葉を落とし、銃を握り直した。
森を抜ける風は妙に湿っていて、遠くで爆ぜる音が微かに響いていた。炎の匂いが濃くなるのと同時に、胸の鼓動が早まっていく。
◇
やがて木々を抜けると、視界が一気に開けた。
そこには十数軒ほどの小さな集落が広がっていた。
しかし今、そのほとんどが炎に包まれている。
屋根は赤黒く燃え上がり、火の粉が風に舞って空を覆う。壁は焼け焦げ、柱が悲鳴をあげるように軋んでから崩れ落ちていく。
熱気が押し寄せ、顔が焼けつくように熱い。煙が目に沁み、涙で視界が滲んだ。
「ぎゃああああっ!」
「助けて! 誰かっ!」
「逃げろ、逃げてぇ!」
人々の悲鳴が入り乱れる。
母親は子供を必死に抱き締め、老人は杖を突きながら震える足で逃げ惑う。
その背を追うように、粗末な鎧を身に着けた盗賊たちが笑い声を上げて迫っていた。
「ひゃははっ! いい声で泣くじゃねぇか!」
「男は殺せ! 若ぇ女は捕まえろ! 楽しんだあとで売り払ってやる!」
獲物を狩る肉食獣のような目。だが、そこに理性も慈悲もない。
剣が振り下ろされ、無防備な背に突き立つ。血しぶきが舞い、倒れた男の呻き声が途絶える。
盗賊たちはそれを見て、腹を抱えて下卑た笑いを上げた。
「ぎゃははっ! ほら見ろ、転がったぞ!」
「泣け泣け! 泣く顔が一番高く売れる!」
胸がむかつくほどの怒りが、じわりとせり上がってきた。
その時だった。
逃げ惑う列の最後尾で、小さな影が盗賊にしがみついていた。
十歳ほどの少女。痩せた腕に必死の力を込め、棒切れを振り回しながら声を張り上げている。
「離せっ!」
か細い叫びが、炎と怒号の中でもはっきりと耳に届いた。
盗賊の男は一瞬たじろいだが、すぐに顔を歪める。
「チッ……ガキが」
剣が振り上げられる。
その一瞬、時間がゆっくりと流れたように感じた。
少女の瞳には恐怖ではなく、必死の抵抗の色があった。
だが次の瞬間、鋭い金属音が響き、細い体が地面に崩れ落ちた。
赤い色がじわりと広がり、土を濡らす。
瞳は大きく開いたまま、二度と瞬きをしない。
「……」
胸の奥が焼けつくように熱くなり、息が詰まった。
迷っている間に、一つの命が、こうして消えた。
俺はまだためらっていた。だが目の前のこいつらは平然と命を奪い、笑っている。
「……迷う必要はない」
銃を構え、狙いを盗賊に定める。
怒りで震える指が引き金にかかった。
――ドンッ。
轟音が鼓膜を打ち破り、盗賊の上半身が爆ぜた。
血と肉片が飛び散り、残された下半身だけが地に崩れ落ちる。
壁や炎に赤黒い飛沫が散り、ぎらつく光で照らされた。
「な、なんだ!? 魔法か!?」
「ひぃ……ひいいっ!」
盗賊たちが振り返り、恐怖で顔を引きつらせる。
俺の銃口からは白い煙が立ち昇り、空へと溶けていった。
最初の一撃で仲間の上半身が吹き飛んだ光景に、盗賊たちは恐怖に硬直した。
だが次の瞬間、恐怖を怒りで塗り潰すように叫び声を上げ、こちらへ雪崩れ込んできた。
「ぶっ殺せぇっ!」
「ガキが調子に乗りやがって!」
剣が炎を反射し、ぎらついた光を撒き散らす。
◇
その刹那、母狼が咆哮を放った。
大気が震え、地面が鳴動するほどの声に盗賊たちの足が止まる。
巨体が疾風のごとく駆け抜けた。
――次の瞬間。
盗賊の首から上が食いちぎられていた。
母狼の顎が開いたと思った時には、すでに頭部は消えていた。
見えたのは、残された胴体が地に崩れ落ちる光景と、飛び散る血の噴水だけ。
赤黒い飛沫は雨のように降り注ぎ、炎に照らされて宝石のように煌めいた。
「ひぃっ……!」
悲鳴をあげた別の盗賊の肩を、母狼の前足が薙ぎ払った。骨が砕け、体は宙を舞い、地に叩きつけられて動かなくなる。
◇
「わふっ!」
ルナが弾丸のように飛び出した。
小さな顎が盗賊の喉に突き刺さる。
「ぎゃあああ!」
必死に引き剥がそうとするが、ルナは首を激しく振り、喉の肉ごと引き千切った。
温かい血が雨のように降り、盗賊は目を見開いたまま崩れ落ちた。
別の男がルナを蹴り飛ばそうと足を振り上げる。
その瞬間、ルナは飛び上がり、脚に噛みついた。肉を裂かれた男は転げ回り、次の瞬間には首に牙が突き立ち、絶命した。
◇
「……っ!」
俺は銃を構え直し、迫る盗賊に魔力を込めた。
――ドンッ。
火弾が放たれ、男の全身が炎に包まれる。
「ぎゃああああ!」
黒煙と共に肉が焼け、焦げ臭さが辺りに広がった。体はのたうち回ったのち、黒い塊となって崩れた。
「次っ……!」
氷弾を撃ち込む。
盗賊の体が瞬時に氷結し、恐怖に歪んだ顔のまま凍りつく。
やがて――バキリ。
氷像は砕け散り、白い破片と共に赤黒い肉片が飛び散った。
さらに風弾を叩き込む。
「ぐっ……がはっ!」
体の中央に大穴が穿たれ、内臓が散乱する。
風圧で吹き飛ばされた体は木に叩きつけられ、糸の切れた人形のように落下した。
母狼が三人目を前足で押し潰し、爪で胸を切り裂く。
ルナは二人目の首を噛み千切り、牙を血に染める。
銃声と咆哮、悲鳴と骨の砕ける音が入り乱れ、炎の中で地獄絵図が完成した。
◇
数分も経たぬうちに、盗賊は全員絶命していた。
地面には首のない死体、炭となった死体、氷片に砕けた死体が折り重なり、血が川のように流れていた。
炎の赤と血の赤が混じり合い、焼ける臭いが辺りを満たす。
◇
「……」
生き残った住人たちは震える足で姿を現した。
怯えた目をしながらも、盗賊の屍を確認すると、やがて犠牲者を集めて墓を作り始めた。
掘り起こした土に亡骸を納め、布で包み、簡素な十字木を立てる。
母親は小さな体を抱え、嗚咽を漏らしながら土をかけた。
俺は少し離れて見守っていた。
あの時、剣で斬られた少女の墓が列の中に並ぶ。
木の十字が夕焼けの炎に照らされ、影を長く伸ばしていた。
「……守れなかった」
吐き出した声は誰にも届かない。
母狼が静かに鼻を鳴らし、俺の肩を押した。
◇
盗賊の死体はそのままにはせず、首だけを切り落とした。
血は熱を帯び、手にまとわりつくように重い。
街に持ち帰れば、襲撃の証拠となり、懸賞金がかかっているかもしれない。
だが、俺の中では最初から答えは決まっていた。
「確認だけだ。金はいらない」
命を奪った報いを報酬に換えるつもりはなかった。
母狼とルナは何も言わず、ただ俺の横に並んでいた。
◇
夜。焚き火の前に腰を下ろし、銃を膝に置いたまま、赤黒く染まった手を火で照らす。
脳裏に焼き付いたのは、肉片が飛び散り、命が断たれる光景。
剣よりも容易く、あまりにあっけなく命を奪えてしまった。
「……人を殺した」
言葉にしても、胸の奥に沈む重さは消えない。
だが、その迷いを抱え続けていれば、次は守るべきものを失うだろう。
「……もう、迷わない」
呟きは夜の森に吸い込まれ、火の粉となって舞い、闇に溶けていった。
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