第22話『わらっていれば、しなない』

市立あさくら小学校 保健室記録

1990年1月18日(木)

養護教諭:山田(仮名)記録


10:35 来室記録

児童名:高橋まさる(3年2組・8歳)

症状:左腕の痛み

経緯:体育の授業中、鉄棒から落下


担任の田中先生が連れてきた。

「泣いていたのに、急に笑い出して」と。


確かに、笑っている。

でも左腕が明らかに腫れている。

不自然な角度。


「痛くない?」

「いたくないよ」

笑顔のまま。


10:42 処置記録

触診しようとすると、体は反射的に逃げる。

痛みはあるはず。

でも顔は笑っている。


「本当に痛くないの?」

「だって わらってるから」

意味がわからない。


「笑ってても痛いものは痛いでしょう?」

「ちがうよ。ゴッドちゃんが おしえてくれた」

ゴッドちゃん?


10:48 聞き取り

「ゴッドちゃんって誰?」

「しらないの? みんなの ゴッドちゃんだよ」

「何を教えてくれたの?」

「わらっていれば いたくない」

「わらっていれば しなない」

「わらっていれば だいじょうぶ」


機械的に繰り返す。


11:00 校内メール(教頭宛)


緊急連絡


高橋君の件、おそらく骨折です。

すぐに病院へ搬送すべきですが、

本人が頑なに拒否しています。


「びょういんいかない」

「やくそくした」

「わらってれば なおる」


保護者への連絡を試みましたが、

不在です。


指示をお願いします。


11:15 教頭からの返信

すぐに救急車を。

説得は後回しで結構です。


11:30 搬送時の記録

救急隊員が来ても、笑い続けている。

ストレッチャーに乗せられても、笑っている。


「いたい?」と隊員が聞く。

「いたくないよ」と答える。

でも、額に脂汗。


隊員の一人が小声で。

「ショック状態かもしれません」


最後まで笑っていた。

痛みを必死に隠して。

「約束」を守るために。


14:00 病院からの連絡

診断:左前腕骨折(尺骨・橈骨)

かなりの激痛があったはず。

なぜ泣かなかったのか不明。


医師のコメント:

「異常な痛覚抑制。心理的要因と思われる」


16:30 保護者面談

母親が来校。

事情を説明。


「また神ちゃんですか……」

疲れた顔。

「以前にも?」

「去年、熱が40度あったのに『へいき』って」

「結局、肺炎で入院しました」


「なぜ止めないんですか?」

「止めると、もっとひどいことになるんです」

「ひどいこと?」

「……言えません」


後日追記(1月25日)

高橋君、退院。

ギプスをしているが、登校。


「もう痛くない?」

「うん、ゴッドちゃんが ほめてくれた」


「何て?」

「よくがんばったねって」

「えらいねって」

「つぎも がんばろうねって」

次?


2025年の追跡

高橋まさる氏(43歳)の現在を調査。


2010年:交通事故で重傷

目撃者「笑いながら道路に飛び出した」


2015年:労災事故

同僚「機械に手を挟まれても笑っていた」


2020年:行方不明

最後の目撃証言:

「ずっと笑いながら、海に向かって歩いていった」


養護教諭の手記(2025年提供)

あの日のことは忘れられません。


8歳の子供が、

骨折の激痛を笑顔で耐えている姿。


それは勇気ではなかった。

狂気だった。


「わらっていれば しなない」


その言葉が本当なら、

彼は今も、どこかで笑っているのでしょうか。


それとも——

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