第2章 2-12 徒歩踏破訓練
階段を下るたびに、空気は一段ずつ重くなっていった。
湿り気を帯びた苔の匂い。舌の奥に残る微かな鉄味。
壁の奥を走る魔素の筋が、規則的に――ときどき不規則に――脈を打っている。
まるで迷宮そのものが、心臓のように鼓動しているかのようだった。
「実地訓練を継続。一層から五層を徒歩で踏破。先導は神谷玲奈」
総指揮・夢香の声が、湿った空気を切り裂く。
「罠は床のみ。人の魔素にだけ反応する。触れなければ沈黙する。――徹底しなさい」
「助教は全体の安全管理と判断補助。必要時のみ介入」
浩一は短く「了解」と返し、隊列の後方三分の一に位置を取った。
前方の石段はすでに光苔の輝きを失い、深海のような静寂を孕んでいる。
玲奈が一歩前へ出た。短く刈った黒髪が揺れ、指先が前方の空気を撫でる。
(“見る”より“感じる”。――足裏で、拒絶を拾え)
石畳の温度が、ほんの一瞬だけ冷えた。
玲奈は右手を上げ、静止の合図を送る。
「前方、落とし穴の気配。反応域が薄い。全員、左に寄せます。踏み替えは小さく」
隊列が壁沿いに三歩、滑るように移動する。誰も足を高く上げない。
床には細く擦れた跡が、帯のように続いていた。
(魔物が通れた線こそ、人間には危険――反応式の理屈だ)
背後で靴底が鳴り、直後に咆哮が重なった。
曲がり角の闇からゴブリンの群れが飛び出し、列の後方を狙う。
「後方接敵!」
玲奈は即座に反転し、短剣を抜きながら叫ぶ。
「右に空間作って!」
若い剣士が焦って一歩踏み出しかけ――
その足首を玲奈が掴み、反応域の内側から引き戻した。
「そこは沈む。半歩で落ちる!」
列が扇形に開き、敵の突進を境界の外へ押し流す。
遅れて後衛の火弾が咲き、焼けた風が湿った通路を裂いた。
「……後ろを見落としました」
剣士が悔しげに唇を噛む。
「いい。今気づけたなら価値がある」
浩一が短く言う。
「前も後ろも、それから足元も、同時に覚えていろ」
湿度が増し、硫黄のような気配が舌に張りつく。
光苔の瞬きが不規則に揺れ、呼吸の調子を乱した。
玲奈が膝を曲げ、空気を探る。
「床に“踏んだら噴く”毒霧罠。反応域が広い。――境界を越えないで。足裏が冷えたら止まって」
列は一歩ずつ、呼吸を合わせて進む。
右の側道から影が跳んだ。ハウンドだ。
剣と牙が噛み合い、前衛が押される。身体が傾き、足が床に吸い寄せられそうになる。
「触れるな!」
玲奈が飛び込み、襟を掴んで床から引き剝がす。
ハウンドが爪で床を擦っても、罠は沈黙した。人の魔素にしか反応しない。
「右へ一歩分、空白作って!」
空白へ敵が滑り込み、後衛の風刃が縦に走る。
刃音が壁に反響し、二体が崩れ落ちた。列は毒域を踏まずに抜けた。
「勝っていても足元で死ぬ。それが迷宮だ」
浩一の声は低く、静かだった。
誰も反論しない。呼吸が整うにつれ、緊張が少しずつほどけていく。
壁の質感が変わり、古い文様が淡く浮かび上がる。罠はない。
だが玲奈は即座に指を上げた。
「隠し部屋。反応点ひとつ。許可を」
「開けろ。ただし開けるまでは敵だと思え」
夢香の判断は迷いがない。
玲奈は素手を避け、短剣の柄で作動点を押し、二歩退いた。
石が震え、空気が揺れ――その瞬間。
「待て」
浩一の声が落ちる。
《神の義眼》が淡く光り、床下の魔素の流れが立ち上がった。
「入り口手前……魔素が淀んでいる。落とし穴式を重ねてある」
玲奈が息を呑む。
「扉と罠の……二重式」
「罠は単体じゃ動かない。魔力は“対”で組む。片方に触れれば、もう片方が動く。――覚えろ」
玲奈は顎を引き、境界をなぞる。
「反応域、幅は一メートル強。ここを跨げば安全。――前衛、足幅そのまま、私の合図で」
列は一人ずつ境界を越え、崩れることなく展開した。
「開放、続行します」
「許可」
夢香。
扉が開き、鉄と獣と湿った皮の臭気が吹き出す。
「遮断線!」
黒い影が迸り、ゴブリンハウンドが雪崩れ込んだ。
盾が重なり、詠唱が走る。玲奈は側面へ滑り、押し出されかけた仲間の足を危険域から引き戻す。
火と風と刃が交錯し、乱戦は呼吸のリズムへと変わっていった。
魔物の死骸が床に転がり、淡い粒子が霧のように揺らめく。
「魔物の死体は二十四時間で消える。それまでに素材を回収できる」
浩一が静かに言う。
「残るのは――次にどう活かすか、覚えているかどうかだ」
玲奈は浅く息を吐いた。
「……二重式、肝に銘じます」
階段を降りきると、空気がわずかに軽くなった。
――安全地帯だ。
「結界を出る。再開する」
夢香の声。
結界を抜けた瞬間、空気が震えた。
キィィィィン……。
魔力の波が全方位に走り、通路で共鳴する。
「アラーム発動。各員、近接準備!」
「一撃目は避けろ。盾で“間”を刻め」
浩一。
闇が泡立ち、群れが形になる。
「前六、右四、左三。――玲奈、右から!」
「了解!」
片翼を先に刈り、包囲を解く。
交代の一拍で誰も足を止めない。
炎が遅れて咲き、二陣を呑み込む。
やがて敵影は消え、音だけが残った。
「――これが、アラームの受け方だ」
浩一の総括は短い。
草原が地平まで広がる。曇天の風が匂いを薄め、遠くに転送陣の光。
「訓練班、五層踏破。全員無事」
夢香。
玲奈が刃を拭い、浩一を見る。
「……“触れないで抜ける”。“足を止めない”。体に入ってきました」
「入ったら、忘れるな」
「迷宮は、忘れた瞬間に殺す」
玲奈は頷き、風を深く吸い込んだ。
(感じろ。忘れるな。導け)
その足元で、迷宮の鼓動が、ほんの少しだけ穏やかになった気がした。
初老シーフの冒険者 @zeek
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