薔薇園の暗号と三人の相続人
湊 マチ
第1話 薔薇園邸の死
第1話 薔薇園邸の死
呼び鈴を押す前から、薔薇の匂いがした。
郊外の小高い丘に建つ葛城家の本邸――通称「薔薇園邸」。石造りの塀を覆う蔓は手入れが行き届き、色とりどりの蕾が朝の風に揺れている。
「絵になるね」
三田村香織は、首から下げた小さなメモ帳にさっと線を引いた。フリーライターの癖で、目に残った輪郭はすぐ記しておく。
「仕事を忘れないのはいいけど、今日は取材じゃないだろ」
隣で柳田悠真が小声で笑う。司法書士事務所の補佐をしながら相続案件に強い。彼が言う“今日は取材じゃない”はつまり――遺言に関する相談だ。
門を開けたのは、上品なグレーのスーツを着た女性だった。
「お待ちしておりました。家政長の藤村です」
藤村は年の頃なら60代前半、背筋がすっと伸びている。うまく笑おうとして、頬がうまく動かないように見えた。その理由は、すぐに知れた。
「当主の葛城省吾様が、昨夜お亡くなりになりました」
靴音が敷石を打つ音まで、はっきり耳に残った。
香織は反射的に悠真の顔を見る。彼も目を細めた。
「……突然で、申し訳ありません。お招きしたのは、遺言の件でございます。お二人が到着なさる前に、急変しまして」
「死因は?」
悠真の声が低く落ちる。
「まだ確定ではありません。警察は事故死の線で調べていますが……詳しくは警察の方から」
邸内は静かだった。音が吸い込まれるような書斎に通される。壁一面の書棚、重い机、そして古い振り子時計。真鍮の枠が磨かれているのに、どこか“止まったもの”の匂いがした。
部屋の隅、革張りのソファに人影が3つ。
「親父のことで来たのか」
眉間に皺を寄せた男が立ち上がる。がっしりした体躯、黒いジャケット。長男の葛城亮だと藤村が紹介した。家業の不動産会社の中核で、数年前から父と経営方針を巡って対立していたという。
「妹の、葛城茜です」
鮮やかなスカーフを喉元で結んだ女性が軽く会釈する。次女の茜。明るい笑顔だが、目の奥は忙しない。聞けば若い頃からデザイン関係の仕事を転々とし、最近はSNSでアクセサリーの販売を始めたらしい。
最後に、細い指で眼鏡を直した青年が立つ。
「白石湊。叔母――省吾の姉の子です」
甥の湊は大学院で植物生態を研究中だという。白衣が似合いそうな落ち着きがあり、薔薇園の一部を手伝っていることもあるらしい。
3人、3つの視線。どれも測るようにこちらを見ている。
香織は、古い振り子時計に目を戻した。
――秒針が、ない。盤面にあるのは時針と分針だけ。その分針が、7時40分を指して止まっていた。
「西条警部補です」
重いドアが開いて、見慣れたコートの男が入ってきた。管轄署の西条。香織を見ると眉を片方だけ上げる。
「また君たちか。……まあいい。遺言のことで来たなら、聞いておくのも無駄じゃない」
簡単な事情説明。昨夜、当主の省吾は庭を見回ったあと、書斎で倒れているところを藤村が見つけた。大きな外傷はない。救急が到着した時にはすでに心肺停止。机上には封の切られていない封筒があり、表に**“遺言”**とだけある。
「法的な形式を満たしているか、柳田さんにも見ていただこうと」藤村が言う。
「封は?」
「まだです。相続人の皆様が立ち会うまで、私の手元で保管しておりました」
香織は部屋をぐるりと見渡した。
濃い革の匂い、磨かれた机の天板、紙の乾いた手触り。――そして、窓際から漂う、かすかな水の匂い。
(昨夜、庭に散水した? それとも今朝? この匂いは新しい)
「遺言を開ける前に、ひとつ伺います」悠真が静かに言った。「省吾さんの持病や服薬歴は?」
西条がメモを繰る。「高血圧と軽い不整脈。服薬あり。……毒の可能性は薄いが、医師の判断待ちだ」
亮が低く笑った。「毒だと? 誰がそんな真似を」
茜は視線を窓へ流す。「お父さん、昨日は珍しく遅くまで庭にいたの。薔薇の色を一輪ずつ確かめて……『まだ足りない』って」
湊は腕を組んだ。「この季節に“足りない”は変だ。数は十分だし、色のバランスも――」
「開けましょう」
藤村が封筒を机に置く。蝋の封が押され、葛城家の紋章が沈んでいる。
西条がうなずき、立会いのもとで封が切られた。
中から現れたのは、手書きの一枚紙――だが、香織の期待した“誰に何を相続する”という文面ではない。
そこに並んでいたのは、短い行と数。まるで詩か、暗号のように。
薔薇は方角を語る
紅は南に3
白は西に5
黄は東に2
北の棘は道に非ず
四方の総は鍵に非ず、欠けたる一が継ぐべし
室内の空気がすっと冷えたように感じた。
亮が机を叩く。「ふざけてるのか、親父は!」
茜が紙面に顔を寄せる。「“欠けたる一が継ぐべし”……欠けてる、って何が?」
湊の眼鏡がわずかに光る。「“北の棘は道に非ず”――北側の花壇は棘多めの品種だ。あそこを“道として数えるな”という意味に読める。となると……」
「薔薇園の配置図は?」
香織の問いに、藤村がすぐ答えた。「庭師の倉庫に保管しています。各花壇に番号が振られていて、本数や品種の記録も」
悠真が紙を持ち、形式を確かめる。「本文は本人の自筆。日付、署名押印あり。附言にあたる暗号文のみ、文言が曖昧だが……遺言としての効力は認められる可能性が高い」
西条が腕を組む。「つまり、この暗号を解けば“相続人”が特定できるってわけだ」
「そう、読めますね」悠真が頷く。「ただ――」
「ただ?」
「机の上のこの時計が、7時40分で止まっている理由を、私はまだ知らない」
亮が鼻で笑う。「古いからだ。しょっちゅう遅れる」
藤村は首を振った。「いえ、昨日の朝、時計師に調整をしていただきました。昨夜までは正確に動いていました」
香織は、分針が止まる位置を見つめた。12分目盛のすぐ手前。
――誰かが、わざと止めた? それとも偶然?
「庭を見に行きましょう」
香織が立ち上がると、3人も続いた。書斎の扉近く、テーブルに置かれたコップに水滴の輪が残っている。輪は薄く、縁が少しだけ歪んでいる。
(置いた人の手が震えていた? あるいは、急いで戻した?)
外に出ると、風が植物の名を囁いた。南側には深紅のハイブリッド・ティー、白は西側に群れ、東には淡い黄が点々と連なる。北側は確かに棘が強く、整備道から外れている。
「本数を数えたい」湊が即座に言い、花壇の縁に沿って歩き出した。彼の足取りは迷いがない。
藤村が手帳を開く。「昨日の夕方、私が庭師に指示して散水をしました。今朝はまだしておりません」
「夕方は何時に?」
「18時頃です」
香織は土の表面に残る水の筋を指でなぞる。まだ涼しい湿りが指先に吸い付いた。
(“今朝はしていない”のに、この湿り気……夜にも水を撒いた? 誰が?)
その時、背後で足音が止まった。
茜がスマホを握ったまま、花壇の前で固まっている。
「……これ、抜かれてる」
彼女の指先の先、枝と葉の隙間に、小さな切り株の跡。最近、根元から折られた痕だ。
湊が駆け寄る。「本数が、記録と合わない。紅が“3”じゃなく“2”だ。昨日までは確かに“3”あった」
西条の視線が鋭くなる。「誰が夜のうちに庭に入れた?」
亮が苛立たしげに肩をすくめる。「知らないな」
茜は目を伏せて唇を噛んだ。
藤村が小さく首を振る。「鍵は私が管理しています。合鍵は当主と――」
「――と、誰?」
「長男様と……次女様が」
空気がわずかに重くなった。
香織は、花壇の縁に落ちていた透明なビーズを拾い上げた。雨粒のように光る、小さな飾り。
「これ、あなたの?」
茜の耳元のピアス片がわずかに欠けている。彼女は目を泳がせて、「庭で引っかけたのかも」と笑ってみせた。
書斎に戻ると、時計はまだ7時40分を示したまま、無言で壁に掛かっていた。
香織は、遺言の紙に視線を落とす。
四方の総は鍵に非ず、欠けたる一が継ぐべし
“総”は合計。“鍵に非ず”。鍵じゃないのだとしたら――。
机の上の水滴の輪、時計の停止、庭の湿り気、抜かれた薔薇、落ちたビーズ。
散らばった点が、まだ線にならない。
西条が言う。「ひとまず今日はここまでだ。遺体の検視結果が出しだい連絡する。それから――君らは勝手をしないこと」
「勝手はしませんよ」香織は笑って、心の中で付け加える。(ただ、“気になること”は確かめる)
香織は、窓辺に歩み寄り、止まった分針を見上げた。
7時40分。
彼女は、ごく小さく呟く。「“今朝”じゃない。これは――昨夜だ」
風がカーテンを揺らし、紙の端がふわりと持ち上がる。その下から、机の木目に刻まれた細い擦り傷が覗いた。まるで、慌てて何かを引きずった跡のように。
香織は、視線を3人に巡らせる。
亮は腕を組み、茜は視線を落とし、湊は暗号を見つめている。
――誰かが、嘘をついている。
⸻
【読者選択肢】
この先、香織はまず何をするべきでしょう?
1.長男・亮に、昨夜の行動と時計の件を詳しく問い直す。
2.次女・茜の“庭での動き”とビーズの欠けを追及する。
※コメント欄に「1」または「2」で投票してください。投票の多い選択肢を次回の正史ルートとして採用します。推理コメントも大歓迎です!
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作者より(コメントのお願い)
初回からお読みいただきありがとうございます。
時計の停止時刻、机の水滴、庭の湿り、抜かれた薔薇、そして“欠けたる一”。気づいた点・仮説をぜひコメントで教えてください。あなたの1票が、物語の行方を決めます。
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