第2話


 窓辺の横椅子に仰向けになって空を見上げていた郭嘉かくかは、

 寝そべった体勢で顔だけ振り返り、入って来た男を見た。


「私の考えを教えてあげようか」


 世界を横に見たまま、郭嘉が言う。



「私と君の物の見方は違う。

 当然、物事に対しての価値観が違う。

 だから考え及ぶことは出来るかもしれないが、

 実のところ、私に君の考えは結構読めないんだ。

 でも今は暇だから、あれだけ私に怯えた君が次にどう出て来るか、

 私なりに予測は立ててみた。

 ――君は非常に臆病だが、その反面数少ない、失えないものを持ってる。

 それに対しては愚かなほど一途で恐れ知らずだ。

 よって、私は黄巌こうがんを救うために君がどんな道を選ぶか、幾つか考えたけど、

 いずれにせよ私の所だけは避けるだろうと思ってたよ」



 郭嘉はゆっくりと傷を庇いながら身を起こし、

 気怠げに椅子の背もたれに寄りかかった。


「でもここに来たね。徐庶じょしょ君。

 君はとても甘い男だが時々どうしてか、私の裏を掻くことがある。

 不思議だよね。

 なんだか君の場合、そうされても腹が立たないんだよ。

 私が君に怒りを覚える時は、むしろ私が予想したような行動しかしない時だ。

 やはりその程度のことしかしないんだなと思うと無性に腹が立つことがある。

 他の人間は私の裏を掻くと、どうやり返してやろうかなと闘志が湧くんだけど。

 だから、君にはいつだって私の予想を裏切って欲しいな」


 しかし口で言うほど、郭嘉は機嫌は良さそうでは無かった。

 自分の訪問を望んでいたわけではないのだろう。

 そのことは徐庶にはよく伝わって来た。


「郭嘉殿、黄巌こうがんのことで貴方にお願いがあります。

 彼は確かに馬超ばちょう将軍の近親ですが、涼州騎馬隊とも馬超将軍とも五年以上連絡を取らず涼州の民として生きて来ました。

 傷が治り次第、彼のことは素性に関わらず、涼州の村に帰していただきたい」



「……。私が思うに――曹操そうそう殿は恐らく、しばらく君を自分の側で使うつもりだったんじゃないかな。君は才能があるというより、得体が知れない所がある。

 それを見極めたかったはずだ。

 君が劉備りゅうびの名を出したりしなかったら、例え劉備への思いが透けて見えたとしても、曹操殿は興味が勝って使ってみた気がする。君は本当に、喋ると損をする男だ」



 郭嘉は自分の行動を、時々高みから面白そうに見下ろすが、

 確かに徐庶が話すと苛立つような気配を見せることがあった。


「確かに涼州騎馬隊が【定軍山ていぐんざん】の防衛線を突破して成都に入った今、

 馬岱ばたいにはそんなに利用価値はない。

 だけど馬一族の名は、涼州の人間には未だに大きな影響力は持っている。

 長安ちょうあんに彼を連れて行って、そこに置いておく。

 深い意味は無くても、そこにいる価値だ。

 君が母親を洛陽らくように置かれたことと全く同じことだよ。


 なのに現にそれで劉備の許から離れて魏にやって来た君がそんなことを言っても、

 逆に説得力がない。


 私がそんなに甘い人間に見えたのかな?

 どうして私の許に来た?


 私はね、徐庶。


 君の立場だったら賈詡かくを狙ったよ。

 彼は【烏桓六道うがんりくどう】のことで私に煮え湯を飲まされたばかりだから、

 嘘がつけない君が忠誠でも精一杯訴えれば、

 君がいくら心ここにあらずでも賈詡は恐らく要求を飲んだ。


 馬岱に利用価値が無いことを武器にして、

 そういう些細なことも利用したがる私の性格を読んで、

 君と結託してあっさり馬岱を涼州に帰したよ。


 私は君のような人間に釘を刺して脅しを掛けるのは割と好きだけど、

 賈詡はああ見えて、弱い人間をいたぶるのはあんまり楽しくないんだ。


 それよりも優雅にふんぞり返ってる私に、自分を裏切るとどうなるか、

 思い知らせる方をずっと好む。

 賈詡を説得して手を組めば、今回は私を黙らせられたのに」



 ――自分の言葉を嫌う人間。



 そういう相手には何をどう訴えても、きっと伝わらない。


 しかし自分の字を誉めてくれた陸議りくぎを思い出した。

 自分の言葉を受け止めて、涙を零してくれた姿を。


 徐庶は自分自身を訴え、説明するために来たのではない。

 郭嘉という男は徐庶の手には負えなかった。

 彼はすでに魏の遥か未来を見据えて『今』を行動しているので、現状に拘る徐庶には捉え切れない。


 しかし徐庶の考えた限り、郭嘉には唯一の弱味があった。


 陸議だ。


 それは、彼の姉に郭嘉が興味を示しているなどという領域ではなく、

 この涼州遠征において起きた物事の中で、郭嘉が陸議に向ける視線や表情の中で感じ取ったものだ。

 全ての涼州遠征における、自分が瀕死になるという事象までも、涼しく通り抜けてみせた郭嘉が、一瞬足を止めるのを見た。


 自分が重傷を負わせた陸議が目を覚ました時、自分を詰らなかった。

 側にいてやってくれと郭嘉が徐庶に頼んだ時は、初めて郭嘉の感情が見えた。


 つまり、徐庶の感じ取った陸伯言りくはくげんの誠実さは、郭嘉にも理解出来るものなのだ。



「賈詡殿の説得は、私には無理です」


「へえ。どうして?」

「賈詡殿は確かに、話の出来る方ですが、嘘だけは決して許さない」

 冷めた表情で椅子の背もたれに頭を寄りかからせていた郭嘉が、一瞬笑った。


「確かにね。賈詡を下手に欺いて怒らせたら君の命取りだ。

 でも別にこの場合、欺く必要は無いよ。ただ郭奉孝かくほうこう馬岱ばたいを利用する気かもしれないが、貴方はそうしないで欲しいと誠実に訴えればいいだけさ。簡単だろう」


 徐庶は深く、郭嘉に拱手きょうしゅした。


「私が魏軍に留まり、尽くす意志があるならそうしました。

 自分は死ぬまで貴方に尽くすので、黄巌こうがんは帰してくれと。

 そうすれば恐らく賈詡殿は許してくださったはず」


「魏軍を去るの?」

「涼州遠征が落ち着き、お許しが出るならば。

 長安ちょうあんでの職も辞して【水鏡荘すいきょうそう】に戻り、学びの人生に戻りたいと思っています」

「郷愁を覚えたのかな」

「……水鏡先生はお元気ですが、ご高齢です。

 私は役人に追われていた頃にあの地に置いていただきました。

 これからは御恩に報いながら、学問をして生きて行きたいと思っています」


「つまり――、魏軍にこれ以上貢献出来ないならば、賈詡に尽くすと約束することは偽りになるということだね。確かに賈詡はそれなりに自分の得にならないと頷かないと思うけど。私が君なら例えそうでも、あと二、三回は貴方の役に立つとかなんとか曖昧にして場を収めるけどな。

 賈詡はそこまで忠誠心に対して潔癖じゃない。

 君は元々魏の忠臣じゃないから、そういう人間が何回か自分の役に立つと覚悟を決めるだけで、利と見るはずだけど」


「数日前、私は砦を抜け出し、西の山中で馬超ばちょう将軍に会いました」


 郭嘉が徐庶を見た。


「……彼は成都せいとに涼州騎馬隊と去ったんじゃ?」


「涼州騎馬隊は去りました。ですが単騎で戻って来ています。従弟のためです。

 黄巌こうがんが偽名を使って涼州に留まっていることを、馬超殿は知らされていませんでした。臨羌りんきょうの故郷で家庭を持ちたいと、七年前に別れたと言っていました。

 それ以来彼らは連絡を取っていなかった。

 黄巌が留まっていることを知って、自分にそのことを一切話していないことを聞いて、馬超将軍は驚いていた。それで彼が何故そのようなことをしたのか、彼の本当の望みを知りたくて、会いたがっている」

「……。」


「馬超殿の話を聞く限り、黄巌が馬超殿との関わりを避けています。

 だからそれが黄巌の本心ならば、魏に彼を利用してほしくないのです」


 気怠げだった郭嘉の気配が変わった。

 何かを考えているようだ。


「馬超殿が今も山中に留まっているかは分かりません。

 長居は出来ないことは理解しておられる。

 私はとにかく彼と話したかったので、貴方から馬岱ばたいの名を聞いたその日に砦を抜け出し、彼に会いに行きました。山中の狩猟小屋で前に会ったので、そこに行ったら会えたのです。

 だけど探し回って一日帰らなかった。

 砦に戻った時、きっと抜け出したことは貴方や賈詡殿の耳に入り、尋問を受けると」


「……。」


「砦に戻ると陸議殿と司馬孚しばふ殿が迎えてくれた。

 私が少し外に出て、雪で動けなくなっていたと思っていたようです。

 謹慎中だったのでこれ以上大事にならないよう報告を避けた。

 ……あの二人は私が魏を裏切って涼州の人間と手を結ぶなどと、少しも思っていない。

 もう一日戻りが遅かったら、遭難を恐れて人に探して貰う為に報告するつもりだったそうですが」


 それを聞いてから郭嘉はゆっくりと、体勢を崩して横椅子に寝そべり直した。


「陸議君か……彼は不思議な子だね。

 司馬懿しばい殿が気に入ったのなら単に誠実や、有能なだけじゃないと思うんだけれど。

 だけど――若い才能、それだけじゃない何かを私も感じることがある」


 郭嘉かくかの声が、少し和らいだ。

 徐庶に対して喋っていないからだ。

 これは陸議に対して話しているから、空気が変わったのだ。


「徐庶。君は彼をどう見る?」


「……彼は二十歳でしたね」

「うん。そう聞いてる」


「彼を育ててくれた、養父の話を少し聞きました。

 彼曰く、自分自身より、生きて欲しいと思っていた人だそうです。

 戦で亡くなったのだとか。

 ですが私の印象では彼はあの若さで、その養父の死以上に――もっと多くの大切な人を失ってる」



「私もそう思う」



 雪が静かに舞う空を見上げながら、郭嘉が言った。


「乱世では、若くともそういう人間は珍しくない。

 私が想像してるのは自分の一族が離散したとか、村が焼かれたとか。

 そんな次元じゃない。

 もっと莫大な数の人間を失ってる。

 そういう感じがするんだ。何の根拠もないけどね」


 徐庶は少し、息を飲む。

 窓辺の方でふっ、と息が零れた音がした。


黄巌こうがんが例え無事に涼州に戻っても、君がそのことで処罰を受けて命を落とすようなことになったら……きっと彼は悲しむんだろうね。

 勿論、幾つもの悲しい死を乗り越えてきた彼なら、それでも耐えてくれると思うけど。悲しませることに変わりはない……」


「陸議殿は私を信じてくれました。

 信じる縁など何も無かったのにです。

 だから黄巌の素性と、彼を無事に涼州に戻したいという話を、彼にしました」


「彼の優しさにつけ込んだ?」


 心境の分からない、ひどく優しい声で郭嘉が尋ねて来る。



「――私が思うに、司馬懿殿があの人を見込んだのは優しさではなく芯の強さです」



突然、徐庶が明確に言った。


「分別の無い優しさなら、不必要なものを引きずり込み、

 不必要なものを切り捨てられない。

 あの人はちゃんと相手を見て、言葉を発したり、押し黙ったりしています。

 私の黄巌への情けが過ちだと思うなら、司馬懿殿とも話せる」



 郭嘉は目を閉じた。



「……曹操殿はね。

 腐敗した宦官政治を憎んでいたから、

 子供の頃は自分のことも嫌いだったんだ。

 曹一族もそこに関わってはいたから。

 みんなそうやって豪族達は生きていたんだから、私はそこまで気にすることないと思うんだけど、曹操殿は自分の一族のことも、昔はとても嫌ってた。

 あの人の目指す世界を考える時に、一番最初に自分が立ってる場所が、

 理想とほど遠いから。

 子供の頃、曹操殿には庇護してくれる大人達はいても、

 正しさというものを教えてくれる大人が、誰もいなかった」



 徐庶は押し黙った。


「でもいつか、そういうものに出会いたいと望んでたんだよ。

 街で悪さを働きながら、ある日出会った。

 正しさや、分別の有る優しさを教えてくれる人に。

 だから心の底から、曹操殿はその人を大切にしてる」


 聞きながら、何故郭嘉がそういう話をしてくるのか、

 それは分からなかった。

 今、曹操の話は全くしていなかった。

 しかし郭嘉にとって曹操が、いかに大切な存在かは分かる。

 自分自身の命よりも、大切に想うほどだ。


 だからその存在のことを語ることが、無意味なはずがなかった。


「例え離れることになっても、それは永遠に変わらない」

「郭嘉殿、黄巌のこと、重ねてお願い致します」


 深く徐庶は一礼した。


「……。君の話は聞いたよ。聞き届けたとは言わないけど。

 悪いけど眠らせてくれるかな。

 昨日の夜は傷が妙に痛んで、あんまり寝れなかった」


 徐庶は顔を上げる。

 郭嘉は目を閉じたままだった。

 

 だが一番最初にあった、撥ね付けるような気配はいつの間にか全くなくなっていた。


 もう一度拱手してから徐庶は退出して行った。



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