第1章…工場にて

2000年 春1

 夜の工場地帯には、ひときわ乾いた金属音が響いていた。

 火花を散らしながら切断されていく鉄骨は、長い年月を経て錆びつき、もはや建物の一部としての役割を果たすことはない。無造作に積み上げられた鉄の山は、かつての街の残骸であり、今はただ切り刻まれるのを待つばかりだった。


 その山に向き合っているのは一人の青年――蓮である。

 26歳。暗闇をも吸収してしまうような黒髪。やや伸びた前髪の隙間から覗く眼差しは鋭く、しかしどこか遠くを見ているような虚さを帯びていた。姿勢は良いわけではないが、芯の透き通った立ち姿にどこか周りから距離を置いているようにも見えた。瞼の上に刻まれた小さな傷跡や、無造作に擦れた作業服の袖口が、彼がただの「工場の労働者」ではないことを物語る。


 蓮は無口な男だった。機械の唸り声と金属の焼ける匂いの中で、一言も発さずに鉄を切り続ける。黙々と作業をする姿は職人気質にも見えたが、彼にとってそれは「心を黙らせる手段」に過ぎなかった。余計なことを考えなければ、あの場所での記憶も、失った仲間の声も蘇らずに済む。


 たが、静寂は長くは続かない。背後から響く声が、彼の思考を現実へと引き戻した。


「兄貴―!」


 がらりとした工場の扉を開けて入ってきたのは、隼人だった。

 19歳。日焼けした髪色がきらりと光る。まだ少年の面影を残す顔には、場違いなほどまっすぐな笑みが浮かんでいる。乱れた髪と安物のジャージ、そしてところどころ擦り切れたスニーカーが、彼の境遇を物語っていた。

 隼人はつい最近まで少年院に入っていた。無鉄砲で喧嘩っ早い性格が災いし、周囲の大人たちを散々困らせてきたが、それでも彼の目には濁りがなかった。純粋すぎるが故にトラブルを呼び込み、純粋すぎるが故に蓮を「兄貴」と呼んで慕っている。

 蓮は切断機のスイッチを切り、火花の消えた鉄骨から視線を離した。眉間に皺を寄せたまま、わずかに口を動かす。


「――また何かやらかしたか」

「えっ? いやいや、今日は何もしてないよ!」


 隼人は両手を振り、必死に否定する。しかしその様子がかえって怪しく見えるのは、彼の日常がいつも何かしらのトラブルと隣り合わせだからだ。

 蓮は深くため息をつき、油に汚れた手袋を外す。静かな工場の夜に、隼人の声が混ざり込み、わずかな温度を持ち込んでいた。その温度を鬱陶しいと思いながらも、蓮の胸の奥には微かな安堵が広がる。


「学校は、どうだった」


 蓮は手袋を取った手で隼人の頭をくしゃくしゃと撫でる。隼人は嬉しそうにその手に自分の手を重ね、明るく言った。


「友達ができた!」

「……そうか」

 


 作業を終えると、二人は工場近くの古びたアパートに戻った。六畳一間。天井のシミと壁の剥がれかけたクロスが、長い年月を語っている。家具と呼べるものは小さなちゃぶ台と布団だけ。だが、隼人は「兄貴と住めるなら天国だから」と本気で言うのだから救われない。

 蓮は冷蔵庫から白い発泡スチロールの容器を取り出す。スーパーの半額シールが貼られていた惣菜だ。今日は唐揚げとポテトサラダ。炊飯器には朝のうちに炊いておいた米が残っている。


「ほら、箸出せ」

「おっ、今日は唐揚げだっ! 兄貴、わかってる〜!」


 隼人はちゃぶ台の前にどかりと座り、子供みたいに嬉しそうに箸を構えた。蓮も向かいに腰を下ろす。テレビはない。二人の食卓には、咀嚼の音と、ときどき隼人が発する間延びした声だけが響いた。


「なあ兄貴、俺……」


 隼人が唐揚げを頬張ったまま、言いかけて口を閉じる。数秒の沈黙。

だが蓮は催促しなかった。彼は人の言葉を急かさない。急かすほどの価値がある人生を、自分も送っていないと思っているからだ。


「……俺さ、またやり直せるのかな」


 唐突な問いだった。

 隼人は俯き、皿の上のポテトサラダを箸で崩す。純粋さ故に直球で人の心をついてくる。

 蓮は答えを返さなかった。代わりに茶碗を持ち、米を口に運んだ。白米は冷えていて、硬い。だがそれでいい、と心のどこかで思う。暖かすぎる食事は、この部屋には似合わない。

隼人はしばらく考え込み、やがて笑った。


「ま、兄貴が隣にいりゃ大丈夫だもんね。俺、昔から運だけはあるから」


 その笑顔を見ながら、蓮はふと気づく。

 こいつは本当に、信じすぎる。自分を、そして人を。


 ちゃぶ台の上には、半分残った惣菜の皿。狭い部屋に二人の影が揺れ、その影が重なったり離れたりしていた。


 食事を終えると、二人は洗い物を簡単に片付け、布団を並べて敷いた。狭い六畳間には、畳の匂いと油染みた作業服の匂いが混じり合っている。


「電気、消すぞ」


 蓮が言うと、隼人は「はーい」と答え、天井の蛍光灯がパチンと音を立てて消えた。

 闇に包まれた部屋。窓の隙間から、遠くの街灯が微かに差し込む。二人は布団に潜り込み、それぞれの呼吸音が静かに重なった。


「なあ兄貴」


 また隼人の声が、暗闇に浮かぶ。


「もし俺ら、ずっとこうやって生きてけたら……いいと思う?」


 蓮はしばし沈黙した。


「……続かねえよ」

「だよなあ……」


 隼人は苦笑して、布団を頭までかぶる。そのまま静かになると思いきや、突然――彼の呼吸が乱れ始めた。蓮は即座に起き上がり、隣の布団に手を伸ばした。隼人の体が小刻みに震え、胸を押さえている。


「またか……」


 低くつぶやく蓮。

 隼人は少年院に入る前から、不整脈と軽い心臓疾患を抱えていた。興奮したり、強いストレスを受けると発作が出る。それは「不良」としての強がりの裏に隠された、誰よりも脆い部分だった。

 蓮は慣れた手つきで隼人の背を支え、深く息を吐かせる。


「落ち着け。大丈夫だ。吸って、吐け……」


 やがて発作は治り、隼人は洗い呼吸を整えながら、「……ごめん」と弱々しく笑った。


「俺、ほんとガキだな」

「……寝ろ」


 蓮は短く答え、布団に戻る。だが、隣から聞こえる隼人の微かな寝息が安定するまで、目を閉じることはなかった。

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