第2話 違和感だらけの幼児生活
転生して赤ん坊になった――という衝撃の事実から、すでに数週間が経った。
僕は「アル・フォン・グラシア」という名前を与えられ、公爵家の長男として、乳母や侍女に囲まれて暮らしている。
……そう書くとやたら優雅に聞こえるが、実際はなかなかに過酷だ。
まず一番ありがたいのは、この世界の言葉が前世と同じ日本語だったことだ。
これがもし「ルルブ語」みたいな意味不明の音声だったら、僕は泣けないまま完全に詰んでいたに違いない。
だが、聞こえてくる会話はなぜか古臭い。
「坊ちゃま、本日はお目覚めもはやうございます」
「お背をさすらせていただきますね」
なにその大河ドラマ風の言い回し。現代で「はやうございます」とか言う人いないから。
しかも全員がそれを自然に口にしている。どうやらこの世界の標準語は「上品な時代劇日本語」らしい。
耳が慣れるまで時間がかかりそうだ。
僕はいま生後半年ほど。首もすわり、寝返りもできるようになってきた。
それでも赤ん坊の身体はとにかく不自由で、いちいち歯がゆい。
前世では指先でキーボードを叩くのが仕事だったのに、今の指は「にぎにぎ」するのがやっとだ。
スマホどころか、リモコンのボタンですら押せない。
テクノロジーと文明を失った僕は、最弱の存在に成り下がっていた。
「はい、坊ちゃま、今日の離乳食でございます」
侍女が差し出してくるのは、やわらかく煮た粥みたいなもの。
健康的だし、実際食べればそれなりに美味しい。
けれど問題は食べ方だ。
「ぱく」
スプーンで口に突っ込まれるこの感じ。
うまく飲み込むと、侍女が目を細めて褒めてくる。
「まあ、上手に召し上がりますこと!」
……いや、別に難しくないし。
中身は三十路近いおっさんだぞ? 褒められて嬉しいわけがない。
だが、ここで顔をしかめたら「赤ん坊らしさがない」と疑われるかもしれないので、仕方なく笑顔っぽく口角を上げてみせる。
多分引きつってるけど、周囲は「まぁ! お笑いになった!」と大はしゃぎ。
演技が赤ん坊に通じるってどういうことだ。
身体が不自由な分、僕は観察に力を入れた。
泣かずに大人しくしていると、周りが油断して雑談を始める。
そこから、少しずつこの屋敷のことが分かってきた。
「公爵様は明日、王都へご出立されるそうよ」
「奥方様もお忙しいから、坊ちゃまのお世話は我らが責を持って」
……なるほど。やはりここはかなりの大貴族の家らしい。
屋敷はとにかく広い。乳母に抱かれて廊下を移動するたび、数え切れない扉や飾り棚が目に入る。
中庭には噴水と花壇、奥には兵士が剣を振るう訓練場、さらに離れには馬小屋まである。
使用人の数も尋常じゃない。ざっと見ただけで数十人規模。
そして父――あのラスボスオーラの男――は、公爵という肩書を持っている。
貴族の位なんて詳しく知らないが、「公爵」って響きはどう考えても上位だろう。
侯爵や伯爵や子爵が下にいるに違いない。
つまり僕はいきなりエリート貴族スタートを切ったわけだ。
……いや、前世の僕は庶民だったから、どう接していいのか分からんのだけど。
それにしても、生活のあちこちに「違和感」がある。
例えば蝋燭の火が一瞬ふわりと青く光ったかと思えば、部屋が一斉に明るくなる。
どうやら照明は魔法式らしい。
けれど、毎回ちゃんと点くわけじゃなく、時々パチパチと音を立てて消えかける。
おい、それって完全に電気の接触不良じゃん。
魔法ってもっとこう、安定したものじゃないの?
他にも、水瓶の上で侍女が呪文を唱えると水が満たされる。
でも五回に一回くらいは失敗して、途中で止まる。
仕方なく井戸から汲んできたりしているのを目撃した。
この世界の魔法、なんかバグだらけだぞ……?
僕は赤ん坊の体でごろんと寝返りを打ちながら考える。
魔法陣がチラッと見えると、僕にはなぜか「コード」のように見えるんだ。
数式と記号が組み合わさって処理を走らせる仕組み――
まるでプログラム言語をビジュアル化したみたいなものが、薄ぼんやりと目に映る。
たぶん、これが僕の転生特典。
前世でプログラミングばかりやっていたせいで、魔法式を「コード」として理解できる体質になってしまったのだろう。
もっと大きくなって魔法を学べば、きっと分かることが増える。
けれど今は、はいはいすら危うい赤ん坊だ。
僕にできることといえば、違和感を見逃さず観察することくらい。
そんな中でも、乳母や侍女たちは僕を「落ち着きのあるお子様」と評価しているらしい。
泣かず、騒がず、じっと周囲を見つめるからだ。
実際はただ「観察してるだけ」なんだけどな。
ある日、乳母がぽつりと呟いた。
「この子は……将来、きっと大物になりますわ」
その言葉に、侍女たちが一斉に頷く。
いやいやいや。
僕はただの凡人プログラマーだから!
死ぬ直前にコンビニ弁当落として「あっ」って叫んだだけの男だから!
そんな人間が、公爵家の後継ぎとして期待されてるとか……
この世界、本当にバグってる。
でも、どうやら僕はもう戻れない。
アル・フォン・グラシアとして生きていくしかないのだ。
転生二か月目。
違和感だらけの幼児生活の中で、僕の「第二の人生」は静かに進んでいった。
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