15. 不甲斐ない

――羽鳴村・巳の刻(午前十時頃)


「まだ戻ってきてないか……」


 夜明け前から穂鷹の姿が見当たらず、鈴芽は実羽を連れ、家のまわりを探していた。


「おなか、すいたぁ」


 ぐずる実羽をなだめ、囲炉裏のそばに座らせる。柿を小刀で薄く切り、実羽の掌にのせると実羽は素早くそれを口に運んだ。


「ゆっくり、食べるんだよ」


 果実とわずかな芋に雑穀。それが今の家のすべてだ。今日と明日、その先のことは考える余裕もない。戸口に立てかけておいた笠や草鞋の束に、重たい視線を落とした。


(今日中に、なんとかしないと……)


 そのとき、ばたばたと慌ただしい足音が近づき勢いよく戸口が開かれた。そこに立っていたのは髪から雫を滴らせ、ずぶ濡れになったかやと彼女にしがみつく真鴨だった。


「かやちゃん、真鴨! 一体何があったの?」


 鈴芽が二人に駆け寄ると、かやは震える声で事情を話し始めた。山裾の清流で赤穂成に襲われたこと、穂鷹が駆けつけてくれたこと、そして穂鷹は今は刈人隊の隊士と一緒にいること。


「穂鷹が……。ともかくみんな無事で良かった」


 鈴芽はすぐにかやの髪を拭き、自分の替えを着せて囲炉裏に火を入れる。穂鷹の無事を聞き、ひとまず胸を撫で下ろす――が、すぐに別の心配が胸をよぎる。


「穂鷹が戻ってくるのは、まだかかりそうね」


 鈴芽の視線が、戸口の背負子へと流れる。それに気づいたかやが、実羽と真鴨の肩を抱き寄せて声をかけた。


「町に笠売りに行く予定だったんですよね。二人のことは、私が見てますから」

「でも、かやちゃんにも予定があるんじゃ」

「そうですね。じゃあ、二人には畑の虫取りを手伝ってもらおうかな?」

「むし捕り!」


 虫取りの一言に、真鴨と実羽の表情がぱっと明るくなる。鈴芽は小さく微笑んだ。


「ありがとう。すごく助かる。穂鷹が戻るまで、お願いしてもいいかな?」

「もちろんです。道中、お気をつけて」


 鈴芽は荷物を背負い、三人に見送られながら町へ向かった。


***


 橋を渡り、森の道へ入る。

歩きながら、鈴芽は穂鷹を思う。


 父が逝った四年前から、弟は赤米以外をほとんど口にしなくなり、母が亡くなってからはそれがいっそう極端になった。母は最期までそのことを案じていたし、自分もできれば彼に普通の飯を食べさせてやりたい。


 赤米を食べ続けるのは、家の乏しい食卓を気遣ってのこと――しかし、始まりをたどれば、父の死への自責が強いのだと思う。それまでに繰り返された父との軌跡を消してはいけないという、赤色の呪縛。赤米を食べさせていた父の目的は結局わからないまま、その呪いだけがずっと弟を縛り続けている。


戻してやりたい、普通に。けれど、そのとき増える食い扶持はどうする?今でさえこの有り様なのに。


(結局、私は弟を苦しめる呪いに寄りかかっている……)


 森を抜け、山道をのぼる。体は鉛のように重く、熱がこもっている。鈴芽は荒い息を吐き、ただ前だけを見て足を運んだ。


(どうして、私も穂鷹みたいに赤米を食べ続けられなかったんだろう)


 一度ひどい中毒を起こして、体が二度と受け付けなくなった。それでも少しずつ続けていれば、あの子のようになれたのだろうか――。すぐに無理だ、もう二度と食べたくない、という本音が顔を出す。弟はそれを、毎日やっているのに。


 一刻ほど歩き、町の屋根が見えたころ、ふいに視界が大きく歪む。薄い寒さが肌に這い、手足がしびれて吐き気が込みあげる――支えを探すより早く、膝が抜けた。土の冷たさを感じた辺りで、鈴芽の意識は途切れた。


***


「秋月〜、機嫌直せよ。蕎麦は奢るし、あんみつもつけるからさ〜」


 紺の着流しに薄灰の長羽織をまとった護穀が、早足に歩く秋月の横へ追いつき、なだめるように声をかける。


「怒ってないです。待ち合わせ場所くらい守れボケ、男前がめかしておれの隣に立つなカス、とは思ってますけど」

「怒ってるじゃん」


 護穀は人差し指で、秋月の右頬に並ぶ二つの黒子をつん、と突いた。秋月は軽く顔をそむけ、煩わしげにその手を払う。


「護穀さんって、けっこう服装変えますよね。おれなんか基本、これ一式ですけど」


 秋月は白い洋装シャツに黒の袴を示すよう、両手を少し広げた。


「んー、場所に合わせろってのを子どもの頃から叩き込まれてるからなぁ。めんどいけど」


 護穀の家は老舗の呉服屋だ。商家としてはかなりの名門で、刈人隊の隊服作りも請け負っている。その流れで護穀は隊そのものに興味を持ったらしい。


「俺は秋月の服の合わせ方、好きだけどね。どこでも馴染むというか、やっぱり人間性って出るよな」

「それ褒めてます?」

「褒めてる褒めてる」


 護穀の屈託ない笑みに、秋月の肩の力が少し抜ける。帯の内側から時計を取り出すと蓋を弾いて時刻を確かめた。


「点呼に間に合うよう七つ下り(十六時半)頃には戻りましょうか」

「ん。——待て、秋月」


 護穀が秋月の前に手を出し、ふいに足を止めた。路地の縁に人影が崩れている。


「おい、大丈夫か」


 駆け寄った護穀は膝をつき、倒れていた娘の上体を支えて脈と呼吸を確かめる。その顔は血色を失い、額には冷えた汗が浮いている。


「脱水と低血糖っぽいな。秋月、汲み水を――いや、煮沸済みがいい。通り入って右、四軒目が薬屋だ。できたら蜂蜜をもらってきてくれ」

「わかりました!」


 護穀は羽織を脱いで娘の身体に掛け、その中で帯紐をゆるめた。荷を足元に差し入れ、脚を心臓より高く持ち上げる。


 娘の年は二十前後。右肩へ流した緩い髪、華奢な手足。品のある顔立ちの端々に、手の回らぬ暮らしの苦労が滲んでいた。目の端に涙に濡れた跡がある。


「不甲斐なくて……ごめんね……」


 その譫言うわごとに、護穀はわずかに目を見開いた。

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