第3話 旅立ちの理由

 広場の空白を前に、俺は立ち尽くしていた。

 さっきまでそこにあったはずの家は、煙のように消えてしまった。

 人々は誰も覚えていない。だが、俺だけは知っている。


 ——これは、俺のせいだ。


「顔色が悪いよ、作者さん」

 黒猫エディットが肩に飛び乗り、尻尾で俺の頬をつつく。

「慣れな。ここじゃ“修正”のたびに誰かが消える。いちいち気にしてたら筆が止まる」


「気にするなって……!」俺は思わず声を荒げた。

「俺の一文で誰かが犠牲になったんだぞ!」


「代償は物語の摂理。君の罪じゃない」

「そんな理屈で納得できるか!」


 喉が焼けるようだった。

 だが、隣のレイナがそっと俺の腕に触れる。


「……ありがとう」


「え?」


「あなたが書いてくれたおかげで、私は生きられた。確かに代償はあったけれど……。

 それでも、私はあなたに救われたと思ってる」


 真っ直ぐな声に、胸が揺れた。



 その夜。

 酒場の二階の部屋に泊まった俺は、窓辺に腰を下ろして外を眺めていた。


 暗闇の空には、無数の文字が瞬いている。

 星座の代わりに、断片的な文章が散らばっているのだ。


「……『勇者が剣を掲げ』……『王国は滅び』……」


 未完の物語の残骸。

 そのどれもが、俺が放り出したプロットの断片だった。


 胸が痛む。

 俺が逃げたせいで、この世界は壊れ続けている。



「眠れないの?」

 振り返ると、レイナが扉のところに立っていた。

 月明かりに照らされて、銀髪が静かに揺れる。


「……正直、混乱してる」

「無理もないわ。突然、書いた物語に放り込まれたんだもの」


 彼女はベッドの端に腰を下ろし、真剣な顔を向けてきた。


「でも、私たちはあなたにしか頼れない。このままじゃ世界は崩れ続ける。

 “プロット省”は既定の筋書きを守ろうとしてるけど、それじゃ全員が不幸になる」


「つまり……俺が続きを書くしかない」

「ええ。だけど——」


 レイナは一瞬、ためらってから言った。


「このまま村に留まれば、また襲撃が来る。彼らは必ずあなたを狙ってくるはず。

 だから……一緒に旅に出ない?」



「旅……?」

「世界の果て、“大図書館”へ。そこなら、この世界のすべての物語が記録されている。

 きっと、“代償のない改稿”の方法も見つかるはずよ」


 俺は息を呑んだ。

 代償のない改稿——そんな方法があるなら、絶対に探したい。


「でも、危険じゃないのか?」

「危険よ。けど、ここに留まる方が危険」


 レイナは迷いなく言い切った。


「私は剣を振るう。あなたは物語を書く。

 二人でなら、きっと道は切り拓ける」


 その瞳に、俺は心を射抜かれる。



 翌朝。

 村を出る準備をしていると、広場に人だかりができていた。


「なんだ……?」

 近づくと、地面に奇妙なマークが刻まれていた。


 赤いインクのような痕跡。

 昨日の黒装束の男が使っていた、プロット省の記号だ。


「奴ら、もう来てる……」レイナが険しい顔になる。


 その中心には、一枚の紙切れが突き刺さっていた。

 血のように赤い字で、こう記されている。


『——次の章は、君の“退場”から始まる』



 背筋に氷が走った。

 これは宣告だ。俺が狙われている。


「……やっぱり、出発するしかないな」


 レイナは力強くうなずく。

 そして俺に手を差し伸べてきた。


「共に進みましょう。未完を、完結へ」


 俺はその手を握り返した。

 逃げるのはもう終わりだ。


 物語を投げ出した罪を償うために、俺は——書き続ける。

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