第2話 最初の改稿と代償

 光が収まったとき、酒場の空気は一変していた。

 崩れて穴だらけだった床が整い、欠けていた壁も少しだけ元に戻っている。


「これが……俺の“執筆”の力……?」

 思わずつぶやくと、黒猫エディットが尻尾で丸を描いた。


「そう。君が一行書けば、世界は修正される。ただし——」


 猫は、にやりと牙を見せた。


「代償は必ず支払われる」



 不意に、酒場の窓が軋んだ。

 外を見ると、空に黒いノイズのような亀裂が走り、建物がひとつ、煙のように掻き消えていく。


「なっ……!」

「これが代償さ」猫が淡々と告げる。

「君が“レイナは生きる”と書いたせいで、別の誰かの存在が削られた」


「……誰が?」


「それは君が確かめればいい」



 背筋に冷たいものが走った。

 俺の一行が、誰かの命を奪ったかもしれない。


 だがレイナは、俺をまっすぐに見つめていた。

「ありがとう。あなたのおかげで、私はここにいる」


 その声は真剣で、同時に切実だった。

 彼女は“キャラクター”じゃない。生きている存在として、目の前に立っている。


「……じゃあ、俺が書き続ければ、君は——」

「この世界は生きられる。でも、代償を誰かが背負う」



 沈黙が落ちる。

 だが考える暇もなく、酒場の扉が乱暴に開いた。


 現れたのは、全身を黒い装束に包んだ男。

 顔には「校閲済」と書かれた仮面が貼られている。


「——発見。未完の修正を確認」

 男は機械のような声で告げ、手にした赤いペンを構えた。


「こいつは……!」レイナが剣を抜いた。

「“プロット省”の使者。物語を“既定通り”に収めようとする存在よ!」


「つまり……俺の“改稿”を邪魔しに来たってわけか」



 男は床に符号のような記号を描き、赤い炎を立ち上げる。

「未承認の修正は削除対象。削除、削除、削除——」


「くっ!」

 レイナが剣で炎をはじくが、勢いは止まらない。


「おい、どうすればいいんだ!」俺は猫に叫ぶ。

「書け! 一行でいい!」エディットが吠える。

「君の言葉が、この戦いの行方を変える!」



 震える手で、俺は再び白紙の原稿用紙を握った。

 何を書けばいい? どうすればレイナを守れる?


 心臓が早鐘のように鳴る。

 思考の中で、浮かんだ一文を叩きつける。


『レイナは炎を切り裂き、敵を退ける』



 瞬間、ページが光り輝き、レイナの剣に白い軌跡が宿った。

「はあああッ!」

 彼女は一閃で炎を両断し、黒装束の男を弾き飛ばす。


 男は仮面をひび割らせ、呻き声をあげた。

「未承認の改稿……承知……。次は必ず——」

 そう言い残して、黒い文字の欠片となって消えていった。



 静寂。

 レイナは剣を納め、深呼吸して俺を振り返った。

「……今の、一文のおかげね」


「俺が……助けた、のか」

「ええ。でも——」


 彼女は苦しげに視線をそらす。


「代償は、もう支払われてる」



 外に出ると、村の広場に人だかりができていた。

 人々はざわめきながら、ある一点を見つめている。


 そこにあったのは、大きな空白だった。

 家が一軒、丸ごと消えている。まるで最初から存在しなかったかのように。


 周囲の人々は、その家のことを思い出せないようで、不安げに首をかしげていた。


「誰の家だっけ?」

「……わからないな」


 だが俺の胸の奥で、確信だけが重くのしかかっていた。

 あれは、誰かの生きる場所だったはずだ。



 エディットが冷たく言い放つ。

「一行で救えるのは一人。代わりに消えるのも一人。これが“未完の世界”のルールだよ」


 俺は拳を握りしめた。

 救いたい。けれど救えば、誰かが消える。


 その矛盾が、この世界を蝕んでいる。



 レイナがまっすぐ俺を見る。

「あなたにしかできないの。この物語を続けられるのは、作者であるあなたしか」


 その瞳に射抜かれ、逃げ道はもうなかった。


「……わかった。書くよ。

 でも俺は、この世界を滅ぼさない方法を探す。必ず」


 言葉にした瞬間、原稿用紙が再び光を帯びる。

 それは誓いの証のように、胸を熱くした。

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