第4章 夫の温もりを拒む身体、命令に従う心
夫の温もりを拒む身体、命令に従う心が芽生えていく。
退勤後、画面の隅で通知が小さく瞬いた。
「きょうはよくできました」
送り主の名前はない。けれど、胸の奥がすぐに理解する。
小さな承認の一文。それだけで一日の重さが変わってしまう。
指が勝手に、デスク横の紙コップへ伸びた。
――水を飲んでから帰る。
言われてもいないのに、のどを鳴らして二口。
体の奥で、見えない歯車が“正しい位置”に噛みあう。安心が、静かに落ちてくる。
家に帰ると、ダイニングに一枚のメモ。
「遅くなる。先に食べて」
直樹の丸い字。
冷蔵庫には昨日のカレーが残っていた。
皿に移し、レンジの回転音を聞く。
電子のうねりが孤独を撫でて、部屋の空気に同心円を描く。
温めた皿の香りはやさしいのに、舌の上で味の輪郭が薄い。
箸置きの隣に置いたスマホを伏せる。通知の光が布の裏から微かに滲む。
ひとりで食器を洗っていると、ドアが開いた。
「ただいま」
「……おかえり」
直樹はネクタイを緩め、スーツを椅子の背にかける。
「今日はどうだった?」
「普通」
短い返事。
会話はそれ以上続かない。
沈黙を埋めるのはテレビのニュースだけ。
画面の中の事件が一つ終わるたび、私たちの間に小さな隙間が増える。
「週末、どこか出かけない?」
突然の提案に、手が止まる。
「ごめん……月末で忙しくて」
反射で出た言葉。
直樹は少し笑って、「そうだよな」と呟いた。
その笑顔が、逆に痛い。
彼のやさしさは、刃物ではない。
でも、切れない代わりに、ずっとそこに残る。
食器を拭き終え、テーブルに置かれたメモを何度も読み返す。
丸い字。
一年前の旅行の帰り道、土砂降りの駅前で買ったビニール傘の柄にも、同じ癖の線があったことを思い出す。
あのとき彼は笑って、「こういうのが幸せってやつだよな」と言った。
あの言葉が、今夜は少し遠い。
夜。
ベッドに入ると、直樹の手がそっと肩に伸びてきた。
「……最近、避けてない?」
静かな問い。
答えられない。背中が強張る。
私は、息の深さを整えた。
――肩ではなく背中で呼吸。音を立てない。
誰に言われなくても、体が“正しい振る舞い”を先回りして選んでしまう。
「違うなら、そう言って」
「……疲れてるだけ」
目を閉じたまま答える。
直樹は小さくため息をつき、手を引っ込めた。
そのとき、耳の奥で別の声が薄く蘇る。
――旦那に抱かれるのは、許さない。
命令は、鎖ではなく合鍵。
心の内側の錠前に、ぴたりとはまって回る。
カチリ、と音がして、戻り道が静かに閉じられる。
暗闇の中、私は天井の見えない場所に問いを投げる。
“私は、何を守って、何を捨てている?”
答えは落ちてこない。
代わりに、直樹の寝息が少しずつ遠ざかる。
同じベッドなのに、別の部屋みたいに。
翌朝。
マグの横に、またメモがあった。
「結婚二年目、何かしよう」
胸が詰まる。
ペンを取り、小さく「ごめん、仕事で」と書き足した。
音が出ないように、筆圧を弱く。
インクが紙に沈んでいくのを見ていると、罪悪感も一緒に沈む気がして、目を逸らした。
出勤。
エレベーター前で彩乃と鉢合わせる。
「おはよ」
「おはよ」
彼女は私の顔を一瞥し、眉を寄せた。
「眠れてないでしょ」
「……少しね」
「無理しないで。逃げ道がないと思うと、人って壊れるから」
軽く言ったその一言に、背中が冷える。
逃げ道、という言葉が、錠前の手前で静かに響く。
私は笑いで包んでみせる。
「気をつける」
彩乃はすぐに口調を切り替えた。
「午後、ランチ行こうよ。新しくできたお店、席とれた」
明るい声。切り替えの速さが、逆に引っかかる。
ただの気遣いなのか。
それとも――測っているのか。
午後、デスクへ戻ると、画面の端で未読の通知が静かに点った。
開かない。
けれど、内容はわかっている。
“水を飲んで”。
喉が先に動く。紙コップに水を入れて、二口。
言われていないのに、従ってしまう。
従うと、安心する。
安心すると、また従いたくなる。
小さな輪が、胸の内側で音もなく回り続ける。
終業後、廊下の窓に自分の横顔が映った。
頬の色は隠しても、唇の輪郭だけが昨日より濃い気がする。
指先で軽く触れ、手を引っ込める。
帰宅した後、リビングに行くと、テーブルのメモが風で少しずれていた。
角を揃え、冷蔵庫へ歩く。何も入っていない棚の冷気だけが、指にまとわりつく。
私は蛇口をひねり、コップに水を注いだ。
――言われていない。
それでも、からだは水を求めている。
ごくりと飲むたび、心臓の拍が“正しい拍”に合っていく。
どこかで、別の拍が遠ざかっていく音がした。
それが、夫婦のリズムでないことだけは、はっきりわかっていた。
寝室へ向かう途中、窓の外で風が鳴った。
カーテンの裾がわずかに揺れる。
その揺れを見ていると、今の自分が“止まっている”のか“流されている”のか、わからなくなる。
ベッドに沈み、目を閉じる。
暗闇の奥で、今日の言葉たちが順番に明滅した。
「結婚二年目、何かしよう」
「逃げ道」
「きょうはよくできました」
最後の一文で、胸の中心に小さな灯りがともる。
その灯りは、暖かいのに、どこか冷たい。
私はその矛盾の光を抱いたまま、浅い眠りへ落ちていった。
明日、何を話せばいいのだろう。
直樹に、彩乃に、そして――彼女に。
言葉の前で、喉の奥の鍵がまたひとつ、静かに回る音がした。
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【あとがき】
ここまで読んでいただきありがとうございます。
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【共通タグ】
禁断/背徳/百合/依存/秘密/官能ロマンス
【話別タグ】
従属/拒絶/夫婦の空白
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