第5章 「無理してない?」――友の問いが胸を刺す
「無理してない?」――友の問いが胸を深く刺す。
始業前のフロアは、コピー機の低い唸りと紙コップのコーヒーの匂いで満ちていた。
コーヒーマシンの前で彩乃が手を振る。
「おはよ。砂糖、いる?」
「今日はブラックで」
紙コップを受け取る私の手を、彼女の視線が一瞬だけ追った。
「そのハンドクリーム、香り変えた?」
「うん、もらい物」
何気ない会話のはずなのに、心臓が一拍、強く打つ。
彩乃は笑って、私の肩に軽く触れた。
「無理してない?」
午前中は資料のチェックに没頭した。
スクロールする指先に、あの夜の感触がうっすら蘇る。
耳の奥で微かな囁きが反響する。――私だけを求めなさい。
私は深呼吸をひとつして、画面に視線を戻した。
昼休み。彩乃に誘われ、会社近くの小さなカフェへ。
窓際の席。ガラス越しに冬の光が硬く反射している。
「最近、痩せた?」
「そう見えるだけ」
サンドイッチをちぎって口に入れる。味が薄い。
彩乃はストローでアイスコーヒーをかき混ぜながら、言葉を選ぶように口を開いた。
「さ……直樹さん、元気?」
夫の名前が出た瞬間、紙ナプキンが指に張り付いた。
「元気。忙しそうだけど」
「ふーん。二年目って、ちょっと難しい時期っていうじゃない?」
彼女は笑いながらも、目だけが私の表情を探っていた。
「喧嘩してない?」
「してない」
嘘ではない。喧嘩になる手前で、いつも沈黙が先に来るだけ。
「ねえ、由佳」
彼女は声を落とした。
「もし悩んでるなら、私に言って。変に我慢して壊れるのがいちばんよくない」
テーブルの縁を一定のリズムで叩く指先。
その微かな音が、私の呼吸の拍を測っているように聞こえた。
私は笑って誤魔化す。
「大丈夫。本当に」
午後、社内がざわつく時間に課内チャットが届く。
「報告ありがとう。顔色、戻ってきたね」
送り主は美咲さん。
画面を閉じる。
背筋を伸ばして立ち上がる彩乃の背中が視界を掠めた。
誰とすれ違っても丁寧に会釈をしていく。
その姿は安心を連れてくる。
――でも、安心こそがいちばんの油断。
夕方。外回りから戻った彩乃が書類を抱えてデスクに戻る。
「由佳、ちょっといい?」
廊下の端、非常階段の踊り場。人の通らない時間帯。
「さっき、総務から回ってきた資料、助かったって」
「よかった」
「……で、本題」
彼女はまっすぐに私の顔を見た。
「今日、少し、目が腫れてない?」
「寝不足」
「そう。無理しないで。倒れたら何にもならない」
それだけ言って、彼女は笑い、手を振って踊り場を降りていった。
残された踊り場には鉄の匂いだけが冷たく残った。
定時を過ぎ、私は少し遅れてオフィスを出た。
駅までの道。ショーウィンドウに映る自分の横顔は、知らない誰かのように見える。
スマホが震えた。
「今日はいい顔。よくできました」
短い文。
返信を書いては消し、結局スタンプ一つで済ませた。
電車に揺られながら窓に額を寄せる。
家に帰ったら、何を話せばいいのだろう。
マンションの廊下は静かで、どの玄関マットも同じ色をしていた。
鍵を回すと、リビングに灯りが点いている。
「ただいま」
「おかえり」
直樹はソファに座っていた。
テーブルの上には昨日のまま、白いガーベラの入った花瓶。
「今日、早かったんだ」
「たまたまね」
彼はテレビを消し、姿勢を正した。
「さっき、彩乃さんから電話があった」
心臓が床に落ちたように感じた。
「……仕事の?」
「半分、ね」
直樹は言葉を探し、それから真っ直ぐに私を見た。
「由佳、最近、辛そうだって。俺に話しにくいことがあるなら、って」
昼のカフェの光景が蘇る。
彩乃が指でテーブルを叩いていたリズム。
私はキッチンに行き、水をコップに注いだ。
蛇口から落ちる水が透明な筒になり、小さく弾ける。
「心配してくれてるだけよ」
できるだけ平坦に答える。
直樹は頷き、少し言い淀んだ。
「……相手は、男じゃないのか、って」
コップの水面がわずかに揺れた。
「どういう意味?」
「いや、彩乃さんがさ、最近は職場の人間関係も色々って。上司とか……」
――上司。
二文字が皮膚の内側に熱を走らせる。
私は笑ってごまかした。
「そんな話、誰がするの」
「ごめん。俺、何も知らないから。心配で」
直樹の声音は、いつもより柔らかかった。
その柔らかさが、胸の奥をちくりと刺す。
隠し続けたものが、内側で腐っていく感覚。
食事のあと、彼は皿を運び、私が洗う。
二人分の生活音が並んでいるのに、交わらない。
テレビからは熱を帯びたニュースが流れている。
どの言葉も耳に残らなかった。
夜。
洗面所で顔を洗う。
鏡の中の自分に問いかける。
――私は今、何の嘘をついている?
鏡は答えない。
代わりにポケットのスマホが震えた。
「眠れてる? 水は飲んだ?」
“私”ではなく、“身体”を気づかう言葉。
「はい」とだけ返す。
送信音が小さく響き、それきり通知はなかった。
けれど、何も来ないことが、逆に安堵を連れてくる。
寝室のドアを開けると、直樹は天井を見ていた。
「起きてたの」
「うん」
彼はためらいがちに言った。
「週末、話そう」
昨日のカードと同じ言葉。
私は頷いた。
「うん」
灯りを落とす。
暗闇に目が慣れるまで、心臓の音だけが大きかった。
背を向けたまま、耳を澄ませる。
直樹の呼吸。窓の外の車の音。
そしてもう一つ、小さく鳴った通知音。――私のか、誰のか、確かめなかった。
翌朝、エレベーターホールで彩乃に会った。
「おはよ」
「おはよ」
彼女は私の顔を見て微笑む。
「よかった。少し寝られた顔」
「……うん」
エレベーターの鏡に映る二人。
扉が閉まる直前、彩乃が囁いた。
「困ったら、すぐ呼んで。私、味方だから」
扉が閉じ、鏡の中の二人が切り離される。
私は息を吐いた。
――味方、という言葉は、いつだって甘い。
甘さは、刃物より静かに人を切る。
出社して席に着くと、机の上に付箋が一枚。
「資料助かりました。17時、少しだけ」
私は付箋をノートに貼り替え、深く息を吸った。
二つの呼吸が、胸の中で重ならない。
それでも生活は、何事もなかったようにスケジュールを進めていく。
“友の気づき”という名前の救命ボートに、私の嘘はそっと乗せられた。
行き先は、まだ知らないふりをする。
私は今日も、正しい顔で「お疲れさまです」と言う。
そのたびに、もう一つの顔が、私の内側で目を開けたまま眠っているのを感じながら。
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【あとがき】
ここまで読んでいただきありがとうございます。
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【共通タグ】
禁断/背徳/百合/依存/秘密/官能ロマンス
【話別タグ】
友の優しさ/問いかけ/三角関係の萌芽
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