第2章 禁じられた口づけ――“由佳”と呼ばれた瞬間

初めて呼ばれた名前、その響きに抗えず堕ちていく。


「佐伯さん、今日ちょっと残ってもらえる?」

夕方のフロアに、美咲さんの声が落ちた。

帰り支度のざわめき。返事をしたのは、私だけ。


「……はい」

パソコンを閉じる指先が、わずかに震える。

“残業”という名目。けれど、片付ける書類はもう山を越えている。

蛍光灯の白さの下、広いフロアに残ったのは私と彼女。

紙をめくる音、キーボードの打鍵音。どれもやけに大きい。


「佐伯さん」

名前を呼ばれて顔を上げる。机越しの視線が、真っ直ぐに来る。

逃げたいのに、目が離せない。


「……はい」

「疲れてない?」

「大丈夫です」

「本当に?」


椅子を離れた彼女が、こちらへ歩いてくる。

ヒールが床を打つたび、鼓動が一段ずつ上がる。

隣に立たれると、香水ではない、仕事終わりの髪と肌のにおいがかすかに触れた。

それがどうしようもなく心地よい。


「無理してない?」

至近距離の声。喉が乾く。


――深呼吸。

言われる前に、肺の底まで空気を入れ、ゆっくり吐き出していた。

自分でも気づかないうちに、体が彼女の調子に“先回り”している。

指が頬に触れる。柔らかい。


「やっぱり、熱い」

その一言で、胸の奥が焼ける。


「……課長」

「美咲でいいわ。二人きりのときは」

囁きが耳の奥に残る。


次の瞬間、唇が重なった。

驚いて身を引こうとする。けれど、背に回された手がごく自然に、逃げ道を消していた。

視界が揺れる。頬が熱い。

短い――けれど底のある口づけ。

わずかな触れ合いが、からだの輪郭をすべて塗り替えていく。


「……ん」

声が漏れた。拒もうとしたはずの足から、力が抜ける。

唇が離れたとき、彼女はゆっくり笑った。


左手薬指の素肌。身のこなしに迷いがない。

長くひとりで背負ってきた人の、静かな風格。


「旦那さんに、こんな顔見せてる?」

「え……」

「熱に浮かされたみたいな顔。ねえ、由佳」


――由佳。

初めて、名前で呼ばれた。

二音が皮膚を通り抜け、背骨の奥の薄い膜に触れる。

それだけで、何かの合図になってしまう。


「……帰ります」

立ち上がろうとした腕を、すこしだけ掴まれた。


「怖がらなくていい。私は無理に傷つけたりしない」

「でも……」

「ただ一つ。嘘はやめて」


囁きに、息を呑む。


「旦那に抱かれて幸せだって、言える?」

言葉が、喉の手前で固まった。

沈黙が、すべてを語ってしまう。

彼女は満足げに目を細め、私の髪を指先で整えた。


「じゃあ、今日は帰りなさい。――水、飲んでから」

言い終わるより先に、私は紙コップを取り、水を口に含んでいた。

のどを通る冷たさに、体が“ほめ言葉”を待つ前の安心を先回りで受け取る。

命じられる前に従ってしまう、その滑らかさに自分で気づいてしまう。


エレベーターの鏡が、紅潮した頬をはっきり映す。

“由佳”が耳の奥で反射し、脈と同じ拍で鳴っていた。


――

夜風に触れても、頬の熱は引かない。

信号待ちの横断歩道。白線が波のようににじむ。

ふいに、去年の旅行の記憶がよみがえる。

海辺の安宿。湯上がりのビールを開ける直樹の笑顔――子供みたいに無防備だった。


「こういうの、幸せって言うんだろうな」

あのとき胸に満ちた静かな光。今の胸には、違う熱が広がっている。


帰宅。

テーブルの上に、直樹の丸い字のメモ。


「今日は冷蔵庫にシチュー。温めて食べて」

鍋を開け、スプーンで一口。味はやさしい。

けれど、舌に乗る温度と、会議室の唇の温度が、別々の速度で胸に残る。

シンクの前で、また深く息を吸った。


――命じられていないのに、呼吸の仕方を体が覚えている。

風呂上がり、スマホが一度震える。

同期の彩乃から。


「明日ランチ行かない?」

ただの誘い。


けれど、その短い文の向こうで、彼女が私の表情を測っている気がした。

“無理してない?”と、次の行に書かれているみたいな余白。

指が宙で止まる。返信を打ちかけては消す。

画面の黒に、うっすら自分の横顔が映る。

唇の輪郭だけが、昼間より濃い。


ベッドの端に腰を下ろし、シーツの冷たさに掌を押し当てた。


「由佳」

名前がまた、耳の内側で鳴る。

シチューの湯気。直樹の丸い字。

会議室の指先。ヒールの音。

ばらばらの光景が、同じ場所に重なって立ち上がる。

この気持ちは、もう誰にも言えない。


目を閉じる。

暗闇の底で、無意識に水が欲しくなる。

キッチンに立ちかけて、踏みとどまった。


――言われていないのに、からだは従いたがっている。

胸の奥で、細い亀裂の音がした。

戻れない一線は、たぶんもう、音もなく越えられていた。

スマホがもう一度震える。


彩乃から二通目。


「無理ならまた今度でいいよ。ちゃんと食べて、寝てね」

気遣いの言葉が、背中をほんの少し温める。


同時に、どこかで薄い警鐘が鳴った。――優しさは、油断を連れてくる。

私は短く「行ける」とだけ返した。送信音が、静かな部屋に小さく響く。

枕に額を落とすと、昼の呼び名がまた波のように寄せてきた。


“由佳”。

その二音は、確かに私の中の何かを、合鍵みたいに開けてしまった。

開いた扉の向こうに差し込む光と影――どちらへ向かうのか、まだ知らない。

────────────────────

【あとがき】

ここまで読んでいただきありがとうございます。

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【共通タグ】

禁断/背徳/百合/依存/秘密/官能ロマンス

【話別タグ】

初めての口づけ/支配の予感/名前で呼ばれる悦び


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