影に堕ちた妻 ― 女上司と女友達の罠 ―

凪野 ゆう

第1章 夫の優しさが苦しい夜、女上司の瞳に囚われて

夫の優しさに溺れながら、禁断の視線に心は揺れていく。


朝、食卓に置かれた湯気の立つ味噌汁を見つめながら、私は胸の奥で小さく息を詰めた。

隣では直樹が新聞をめくり、落ち着いた声で問いかける。

「今日も残業?」

優しい人だ。誠実で、細やかで、夫として何ひとつ欠けていない。

――それなのに、その優しさが今は苦しい。


「……うん。月末だから」

口は答えても、心は重かった。


結婚して二年。出会いはマッチングアプリ。

半年の交際を経て結婚し、今はこうして二人で暮らしている。

効率的で、堅実。私たちらしい選択だった――はずだ。


直樹は誠実で、細やかで、少し年上らしい余裕がある。

けれど最近、触れられることが苦痛になっている。

夜、腕を回されるだけで身体が強ばる。

嫌いなわけじゃない。優しい人だ。


――なのに、唇が頬に触れただけで、息が止まる。

その反射の速さが、自分でも怖かった。


「じゃあ、行ってくる」

直樹はスーツの襟を指先で整え、鞄を手に玄関へ向かった。

革靴の音、ドアの閉まる音。

音が止むと同時に、私は深く息を吐く。


安堵。

でも、その安堵は夫を裏切っている証拠のように思えた。

会社に着けば、忙しさに紛れて忘れられるはず――。

それなのに、視線はいつも、ある人に吸い寄せられてしまう。


営業部課長、水城美咲。

切れ長の瞳。凛とした立ち姿。決断の速さと強さ。

部下に向ける指示は簡潔で、迷いがない。

左手薬指の素肌、無駄のない所作。

誰かに寄りかからずに生きてきた人の、静かな強度。

ただの憧れのはずだった。

でも目が合った瞬間、胸の奥で熱が跳ねる。


「佐伯さん」

帰り際、低い声に振り向く。

美咲さんが微笑みながら手帳を差し出していた。


「落としたわよ」

「ありがとうございます」


受け取ろうとした指に、彼女の指先が触れた。

一瞬、電流のような震えが走る。


「どうかした?」

不思議そうに首を傾げる。その眼差しが喉を乾かせる。

視線が絡み、時間が薄く伸びる。


「……いえ」

慌てて手帳を胸に抱き、ひと呼吸。

女の人なのに。

どうして心臓がこんなに速く打つの。


夜。

食卓の上に、直樹の丸い字のメモがあった。


「冷蔵庫に煮物。温めて食べて」

小さな心遣いが、胸の柔らかいところを刺す。

けれど同じ夜、思い出すのは会議室で触れた指先の温度だった。


翌朝。


「最近、痩せたんじゃない?」

同じフロアの休憩スペースで、同期の彩乃が声をかけてきた。

紙コップのコーヒーを手渡しながら、私の顔をじっと見ている。


「無理してない?」

「大丈夫」

笑って返す。


その瞬間、彼女の目が何かを測るように細められた。

背筋に、薄い冷気が走る。

安堵と罪悪感。


ふたつの温度を抱えたまま、私は次の一日を始める。

形は変わらない生活のはずなのに、影だけが少し揺れて見えた。

────────────────────

【あとがき】

ここまで読んでいただきありがとうございます。

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【共通タグ】

禁断/背徳/百合/依存/秘密/官能ロマンス

【話別タグ】

夫婦の違和感/憧れの女上司/揺れる視線


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