第15話

 音のない世界だった。

 あれほど美術室を揺るがしていたもう一人のモモエの甲高い悲鳴も、鏡が砕け散るのではないかと思われた激しいエネルギーの衝突音も、今はもうどこにもない。後に残されたのは、まるで嵐が過ぎ去った後のような奇妙な静けさだけだった。窓から差し込む満月の光が、床に散らばったガラスの破片のように俺たちの姿を青白く照らし出している。


「……終わった、のか……?」


 俺の口からこぼれ落ちたのは、自分でも驚くほどかすれた声だった。全身の力が抜けきって、指一本動かすのも億劫だ。ユキナの力を借りた代償か、あるいはただの精神的な消耗か。体中が、まるで分厚い濡れ雑巾を被せられたかのように重かった。

 俺の腕の中では一ノ瀬モモエが、まだ呆然とした表情で先程まで『もう一人の自分』がいた空間を見つめている。彼女の体は、まだ小刻みに震えていた。


「……はい。終わった、みたいです……」


 やがて彼女もまた、俺と同じように力のない声で呟いた。そして恐る恐るといった様子で、自分の両手を見つめる。指を一本一本ゆっくりと動かし、その感触を確かめるようにぎゅっと握りしめた。


「……私、ちゃんとここにいます……。体、あります……」


 当たり前の事実を、一つ一つ確認するように口にする。その瞳から堰を切ったように、大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ち始めた。それは恐怖や悲しみの涙ではなかった。長い悪夢からようやく解放された、純粋な安堵の涙だった。


「よかった……! 本当に、よかった……!」


 彼女はその場にへたり込んだまま、子供のように声を上げて泣きじゃくった。俺はそんな彼女の肩を支えてやることしかできない。俺自身も、まだ自分の足でしっかりと立てている自信がなかった。

 静まり返った美術室に、モモエの嗚咽だけが響き渡る。

 その時だった。


「……ええ、本当に、よかったわね。これで、ようやくこの茶番も終わりよ」


 凛とした、それでいてどこか疲労の色をにじませた声が、俺たちの頭上から降ってきた。見上げると、そこにはユキナが立っていた。人の姿のまま、古風な黒いセーラー服の裾についた埃を気だるげに手で払っている。

 彼女の顔色は普段の白磁のような肌がさらに青白くなっており、その存在感も心なしかいつもより希薄になっているように感じられた。俺に力の一部を貸し与えたことで、彼女もまた相当なエネルギーを消耗したのだろう。


「さあ、感傷に浸っている暇はないわよヨシオくん。さっさとこの気味の悪い場所から出ましょう。こんな淀んだ気の溜まった場所に、一秒だっていたくないわ」


 ユキナはそう言うと、俺に向かって手を差し伸べてきた。その仕草はどこまでも優雅で、まるで舞踏会で王子が姫をエスコートするかのようだ。

 俺は、その手を取ろうとして、


「……あ」


 不意に、モモエが小さな声を上げた。

 彼女は泣きじゃくるのをぴたりと止め、大きく見開かれた瞳である一点を凝視していた。

 その視線の先にあるのは――俺の隣に立つ、ユキナだった。


「……え? 先輩……その、隣にいるのって……?」


 モモエは信じられないというように、何度も目をこすっている。そしてもう一度、ユキナがいるはずの空間を食い入るように見つめた。

 その言葉に、今度はユキナの方が驚いたように目を見開いた。彼女は差し出していた手を引っ込めると、心底不可解だという表情でモモエのことを見下ろしている。


「……なんですって? 今、この小娘、私のことを……」


「何か……黒い、もやもやしたものが……人のかたちしてる……? うっすらと、女の子の……」


 モモエの言葉に、俺ははっと息を呑んだ。

 見えるのか。

 彼女に、ユキナの存在が。

 怪異と深く関わった影響か、あるいはあの鏡の向こう側を垣間見てしまったせいか。理由は分からない。だがモモエは、確かに今まで誰にも認識できなかったはずのユキナの気配を、視覚情報として捉えているのだ。


「な、な、な、なんですってえええええええっ!?」


 ユキナの、今まで聞いたこともないような裏返った絶叫が美術室に響き渡った。もちろんその声は俺にしか聞こえない。


「この小娘に、この神聖なる私の姿が見えるですって!? しかも何よ、その『黒いもやもや』っていう失礼な表現は! 万死に値するわ!」


 彼女はわなわなと体をこわばらせながらモモエの目の前まで詰め寄ると、その顔を至近距離からのぞき込んだ。もちろんモモエにはその美しい顔は見えていない。彼女の目には、目の前の黒いもやが急に大きくなったようにしか感じていないだろう。


「ひゃっ!? な、なんですか急に近づいてきて……! 先輩、これ、もしかして先輩に取り憑いてるっていう……!」


「そうよ! 私がヨシオくんに取り憑いている神よ! あなたみたいな下級の人間が、軽々しくその目に映していい存在ではないのよ! その目を抉り出してやろうかしら!」


「わー! なんか、すごく怒ってる感じがします! 先輩、どうしましょう!?」


 パニック状態のモモエと、憤怒の形相のユキナ。

 俺はその間で、どうしようもなく頭を抱えた。

 ようやく一つの厄介事が片付いたと思ったら、今度はもっと面倒な問題が目の前に転がり込んできた。

 俺の平穏な日常は、どうやらもう二度と戻ってこないらしい。



 その後、俺たちは半ば放心状態のモモエをなだめすかし、激昂するユキナをなんとか宥めながら美術室の後片付けを済ませた。割れた鏡の破片は新聞紙に包んで、部屋の隅にまとめておく。明日、美術部の誰かが見つけて適当に処分してくれるだろう。

 深夜の校舎を、三人(?)で息を殺しながら歩く。

 モモエはまだ信じられないといった様子で、時折俺の隣を歩く黒いもや――ユキナをちらちらと盗み見ては、小さな悲鳴を上げていた。

 ユキナはそんな彼女の様子が心底気に入らないらしく、終始腕を組んでぷいとそっぽを向いている。その全身から放たれる「不機嫌です」というオーラは、俺にしか感じられないのがせめてもの救いだった。


 無事に学校の敷地から脱出した俺たちは、月明かりだけが照らす静かな住宅街を歩いていた。

 しばらく、三人の間には気まずい沈黙が流れていた。

 その沈黙を最初に破ったのは、モモエだった。


「……あの、先輩」


 彼女は意を決したように俺の前に回り込むと、その場で深々と頭を下げた。


「本当に、本当にありがとうございました。先輩がいてくれなかったら、私、どうなっていたか……。一生あの鏡の中で、あいつの代わりに……」


 そこまで言うと彼女は言葉に詰まり、再び瞳に涙を浮かべた。


「礼はいい。約束しただろ」


「でも……! 先輩をあんな危険な目に遭わせてしまって……。それに、先輩のその……連れの方? にも、すごく失礼なことを……」


 モモエは恐る恐るといった様子で、俺の隣のユキナに視線を送った。

 ユキナはふん、と鼻を鳴らしただけだったが、その敵意は先程よりはいくらか和らいでいるように見えた。


「……分かっているなら、いいのよ。これ以上私のヨシオくんに、馴れ馴れしくしなければ許してあげなくもないわ」


 もちろんその声はモモエには聞こえない。俺はユキナの言葉を適当に意訳して、彼女に伝えた。


「……こいつも、気にしてない、とさ。それよりお前、これからどうするんだ。もう、オカルトはこりごりか?」


 俺がそう尋ねると、モモエは数秒間うつむいて何かを考えていたが、やがてぱっと顔を上げた。

 その表情には、もう涙はなかった。

 そこにあったのは、吹っ切れたような晴れやかな笑顔だった。


「いいえ! こりごりじゃないです! むしろ、もっと知りたくなりました!」


「は?」


 予想外の答えに、俺は思わず間の抜けた声を上げた。


「だって、本当にいたんですよ!? 本でしか読んだことのないような不思議なことが、この世界には本当にあったんです! それに先輩みたいに、そういうものが見える人もちゃんといた! 私、なんだかすごくワクワクしてます!」


 彼女は興奮したように、早口でまくしたてた。その瞳はオカルトマニアとしての純粋な好奇心で、きらきらと輝いている。一週間前の孤独に打ちひしがれていた姿が、嘘のようだ。

 全く、懲りないやつだ。

 俺は呆れると同時に、少しだけ感心してしまった。そのどこまでも前向きな強さは、ある意味才能なのかもしれない。


「だから、先輩!」


 モモエは一歩俺に近づくと、その輝く瞳で俺のことだけをまっすぐに見つめた。


「これからも、民俗学研究会手伝ってくれますか? 私、先輩と一緒にこの世界に隠された、もっとたくさんの不思議を見つけたいです!」


 それは、ただの部活動への勧誘ではなかった。

 もっと個人的で、切実な願い。

 これから先もあなたと一緒にいたい、という彼女なりの精一杯の告白。

 そのあまりにも真っ直ぐな視線に、俺はどうしようもなくたじろいでしまった。


「そ、それは……」


 俺が言葉に詰まった、その時だった。

 俺の左腕に、ぬるりと何か冷たいものが絡みついてきた。

 見るといつの間にかユキナが、俺の腕に自分の体をこれみよがしに密着させていた。そして勝ち誇ったような笑みを浮かべて、モモエのことを見下ろしている。


「残念だったわね、小娘さん。ヨシオくんの隣は、昔から私の場所だって決まっているのよ」


「ひゃっ!? な、なんですか、このまとわりついてくる感じは……!?」


 モモエはユキナの敵意のこもった気配を肌で感じ取ったのだろう。びくりと肩を揺らし、一歩後ずさった。


「ヨシオくんは渡さないわ。絶対にあなたなんかに、渡したりしない。彼は私のもの。私の、唯一の、大切な……」


 ユキナはうっとりとした表情で、俺の腕に自分の頬をすり寄せた。その仕草は飼い主に甘える猫のようでもあり、獲物を独り占めしようとする獰猛な獣のようでもあった。

 モモエはそんな俺たちの様子――彼女の目には、俺が急に黒いもやにまとわりつかれ始めたようにしか見えていないだろう――を、呆然と見つめている。

 そしてやがて、何かを理解したようにきゅっと唇を結んだ。

 その瞳に、闘志の炎がめらりと燃え上がる。


「……負けませんから」


「え?」


「私、絶対に負けませんから! 先輩の隣は、私がいただきます!」


 彼女はそう高らかに宣言すると、ユキナに対抗するように俺の空いていた右腕に、がしっと自分の腕を絡ませてきた。

 柔らかく、そして温かい感触が俺の腕に伝わってくる。


「な、な、な、なんですってえええええっ!?」


 ユキナの本日二度目の絶叫が、俺の頭の中でこだました。

 だが今回はそれだけではなかった。


「……えっ?」


 俺の右腕に絡みついていたモモエが、驚いたように声を上げた。彼女は信じられないという顔で、俺の左隣――ユキナがいるはずの空間を見つめている。


「……き、聞こえた……。今、女の人の叫び声が……」


 その言葉に、今度は俺とユキナが同時に固まった。

 聞こえた? ユキナの声が、この小娘に?


「この小娘、神である私に宣戦布告ですって!? いい度胸じゃない! 後悔させてやるわ!」


 ユキナは俺の動揺などお構いなしに、怒りに満ちた声で叫んだ。

 そしてその声は、確かにモモエの耳にも届いていた。


「聞こえます! あなたの声、はっきりと聞こえますよ、もやもやさん!」

「もやもや言うなーっ! 私には定保氏ユキナという、ちゃんとした名前があるのよ!」

「ユキナさん……!あなたが、先輩にとり憑いて……!」

「うるさい!うるさいうるさい!不敬よ!私は低級な霊じゃないの!神様なのよ!」


 こうして俺を介さずして、二人の少女(と神)の直接的な対話(という名の口論)が、深夜の住宅街の真ん中で始まってしまった。

 俺は右手には温かい人間の後輩、左手には冷たい神様に腕を絡まれ、両側からぎゃあぎゃあとまくしたてられるというあまりにもカオスな状況の中心で、ただ遠い目をして夜空に浮かぶ満月を見上げていた。


「いいこと、小娘! あなたみたいなぽっと出の人間が、ヨシオくんの隣に立てると思ったら大間違いよ! 私と彼が共に過ごした時間は、あなたが生まれるよりずーっと長いのよ!」


「時間なんて関係ありません! 先輩は生きてるんです! 私みたいに温かいご飯を一緒に食べたり、映画を観て笑ったりできる生身の女の子の方が、絶対に幸せになれるんです! あなたみたいに冷たいだけのもやもやじゃ、先輩を本当の意味で温めてあげることなんてできないでしょう!」

「なっ……! も、もやもや言うなと、言っているでしょうが! それに誰が冷たいだけですって!? 私はヨシオくんの魂に直接触れることができるのよ! あなたみたいな表面的な繋がりしか持てない俗物とは、絆の深さが違うの!」

「俗物で結構です!先輩にべたべた憑いているだけのあなたに、先輩の何が分かるって言うんですか!」

「きいいいいっ! 言ってくれるじゃない! ヨシオくんが好きな本のジャンルも、寝る時の癖も、全部知っているのはこの私なのよ!」

「これから全部知っていきますから、問題ありません!」


 二人の口論はヒートアップする一方だった。俺の右腕と左腕は、それぞれの主張を補強するためのジェスチャーのせいで前後に激しく揺さぶられている。もう、どっちがどっちの腕だか分からなくなってきた。



 やがてそれぞれの家の分かれ道に、たどり着いた。

 モモエは半ば強引に連絡先を交換させてきた。そして、名残惜しそうに何度もこちらを振り返りながら、坂道の向こうへと消えていった。その手は最後まで、ぶんぶんと大きく振られていた。去り際に「ユキナさん! 明日も先輩の隣をかけて、勝負ですよ!」と叫んでいたが、ユキナは「誰が受けて立つものですか! もうあなたの顔も見たくありません!」と、売り言葉に買い言葉で返していた。

 後に残されたのは俺と、そしてまだ俺の腕に絡みついたまま、ぜえぜえと肩で息をしているユキナだけだった。


「……疲れちゃった」


 ユキナがぽつりと、呟いた。

 その声には、もう怒りの色はなかった。ただ深い、深い疲労の色だけが滲んでいた。


「……ああ、全くだ」


 俺も心の底から、同意した。

 この数日間、俺の周りで起きた出来事はあまりにも濃密すぎた。

 赤い空の世界。透明な後輩。そして鏡の向こうの、もう一人の自分。

 その全てが、まるで遠い昔の出来事のようにも、ついさっき起きたばかりの出来事のようにも感じられる。


「……でも」


 俺はふと、口を開いた。

 ユキナが不思議そうに、俺の顔を見上げる。


「まあ、賑やかな方が退屈しないだろ」


 それはほとんど無意識のうちに、口からこぼれ落ちた言葉だった。

 だが、嘘ではなかった。

 退屈で色褪せて、停滞しているだけだと思っていた俺の日常は、この数日間でとんでもなく騒がしくて面倒で、そして鮮やかなものに塗り替えられてしまった。

 孤独だったはずの俺の隣には今、嫉妬深い神様とやたらと懐いてくるうえに、その神様と直接対話までできるようになった後輩がいる。

 それは決して、悪い気分ではなかった。

 俺の言葉に、ユキナは一瞬きょとんとした顔をした。

 そして次の瞬間。

 ふわりと、花の綻ぶような柔らかな笑みを浮かべた。


「……本当に、仕方ないわね。私の、ヨシオくんは」


 彼女はそう言うと甘えるように、俺の肩にこてん、と自分の頭を預けてきた。

 その仕草は、ひどく愛おしかった。

 俺たちは、それ以上何も言わなかった。

 ただ二人、寄り添うようにして月明かりが照らす道を、ゆっくりと我が家へと向かって歩き始めた。

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