第2話

 開かれた扉の向こうは、ただの屋上ではなかった。

 いや、そこに広がっているのは紛れもなく俺の知っている学校の屋上のはずだった。コンクリートの床、高いフェンス、隅に置かれた錆びついた給水タンク。見慣れた風景。それなのに、何かが決定的に違っていた。


 空が、赤い。


 夕焼けのそれではない。もっとどす黒く、塗りつぶしたような生命感のない赤色。まるで世界の天井に巨大な傷がつき、そこから止めどなく血が流れ出しているかのようだ。そのあり得ない色の空が、眼下の風景全てを不吉な色合いに染め上げていた。

 ひやり、というよりもぬるりと肌を撫でるような空気が満ちていく。粘り気があり、それでいてどこか色褪せた不健康な赤色。そこには鉄が錆びつく過程で放たれるような、微かな匂いがまとわりついていた。

 俺の体は依然として動かない。見えない鎖でその場に括りつけられたかのように硬直していた。


 はやく、きて。


 扉の向こうから、先程の少女の声が再び聞こえた気がした。

 それは懇願のようでもあり、命令のようでもあった。

 動けない。足が床に縫い付けられたように一歩も前に進めない。行くな、と本能が叫んでいる。その扉を越えてしまえば、もう二度と俺が知っている日常には戻れないのだ、と。


「……特別に、私たちをご招待ですって、ヨシオくん」


 ユキナの声だけが、この異常な状況下でいつもと変わらない響きを保っていた。


『ふざけるな。行くわけないだろう』


 内心で俺は叫ぶように反論した。

 だがその意思とは関係なく、俺の右足がゆっくりと持ち上がった。


 何が起きている?

 俺の体は俺の命令を聞かない。まるで自分のものではない何かになったかのように、勝手に一歩、また一歩と赤い光が漏れ出す扉へと近づいていく。


『やめろ、動くな!』


 無駄だった。

 体は見えない力に引かれるように、滑らかに前進を続ける。抵抗しようと全身に力を込めても、その流れを少しも緩めることはできない。

 そしてついに、俺の体は敷居をまたぎ、完全に扉の向こう側へと足を踏み入れてしまった。


 その瞬間、背後でバンッと重い音がした。

 振り返ると、さっきまで開いていたはずの金属製の扉が固く閉ざされていた。


 しまった、と思った。


 慌てて取っ手に手をかけ力任せに引く。しかし扉はびくともしない。まるで壁の一部になってしまったかのように、そこから動く気配はなかった。


「無駄よ、ヨシオくん」


 ユキナが静かに告げた。


「もうこちらの世界に来てしまったのだから。あちら側の扉はもう開きはしないわ」

「こちらの世界……?」


 俺はユキナの言葉を反芻した。

 こちらの世界。あちら側の扉。まるでここが、俺のいた場所とは違う別の領域だとでも言うような口ぶりだった。


『どういう意味だ。ここは学校の屋上だろう』

「ええ、見た目はそうね。でも少し違うの。ここはあの子が作った世界。あの子の悲しみが、この空の色よ」


 ユキナはこともなげに言った。

 俺は、その言葉の意味をすぐには理解できなかった。


 あの子が作った世界?悲しみが空の色?

 それはつまり、どういう意味なんだ。

 だが周囲を見渡せば、彼女の言葉がただの戯言ではないことが嫌でも分かってしまう。


 静かすぎるのだ。

 風の音以外、何も聞こえない。運動部の掛け声も、吹奏楽部の練習の音も、街の喧騒も何もかもが完全に遮断されている。まるで世界からこの場所だけが切り取られて、真空の箱にでも入れられてしまったかのようだ。

 そして、空気。

 呼吸をするたびに肺がじっとりと湿るような、重く粘ついた空気が全身にまとわりつく。鉄錆の匂いが思考を鈍らせる。


『……信じろと?幽霊がこんな世界をまるごと作り出したとでも?』

「幽霊、という言葉が適切かは分からないけれど。まあ認識としてはそれでいいわ。強い想い、特に未練や怨嗟は時として世界の理を捻じ曲げるの。この場所がその結果よ」


 俺はもう一度、固く閉ざされた扉に手をかけた。今度は全体重をかけて、体当たりするようにぶつかってみる。

 ガンッ、と鈍い音が響くだけで、扉はやはり微動だにしなかった。


 完全に、閉じ込められた。


 その事実が、ずしりとした重みを持って俺の肩にのしかかってきた。


「諦めたらどう?物理的な力でどうにかなるものではないわ。ここは物理法則よりも、あの子の心の法則が優先される世界なのだから」

『じゃあどうしろって言うんだ。ずっとここにいろとでも?』

「さあ?それもあの子の気分次第、かしらね」


 くすくす、とユキナが笑う気配がする。この状況を楽しんでいるのがありありと分かって腹立たしい。だが今の俺には、彼女に当たり散らす気力さえ残っていなかった。

 俺は扉から離れ、屋上の中央へと歩を進めた。

 コンクリートの床には、第一話で見たものと同じ赤い染みがそこかしこに広がっていた。それはまるで病んだ皮膚に浮かんだ痣のように、屋上の無機質な灰色を侵食している。

 一番大きな染みは、フェンスのすぐそばにあった。

 ここだ。ここから、あの生徒は身を投げた。

 俺は、その赤い水たまりの前にしゃがみこみ、じっとそれを見つめた。

 液体はわずかに揺らめいているように見える。そしてその中心から、ぽつり、ぽつりと小さな気泡のようなものが浮かび上がっては消えていた。まるで呼吸をしているかのように。


『これが、あの子の悲しみか』

「そうよ。誰にも届かなかった叫び。分かってもらえなかった痛み。行き場をなくした感情の成れの果て。それがこうして溢れ出しているの」


 俺は好奇心に抗えず、指先をそっとその液体に浸してみた。

 生温かい。そして思ったよりも粘り気がある。絵の具やインクではない。もっと生々しい、何か。指を引き抜くと、赤い糸を引いてゆっくりと滴り落ちた。

 鉄錆の匂いが、指先から直接脳を刺激する。


 いたい。


 不意に、頭の中に直接声が響いた。

 ユキナの声ではない。あの、少女の声だ。

 あまりの唐突さに、俺は思わずその場に尻もちをついた。


『……今の、聞こえたか』

「ええ、聞こえたわよ。あの子、あなたに話しかけているのね」

『俺に?なぜ』

「さあ。でもあなたがあの子の『涙』に触れたから、あの子の気持ちが少しだけ流れ込んできたのでしょう」


 涙、だと?

 俺は自分の指先についた赤い液体を見た。これが、涙。

 なんて色の涙だ。


 さむい。くるしい。だれか。


 声は途切れ途切れに、頭の中に響き続ける。

 それは明確な言葉というよりも、感情の奔流に近かった。孤独、絶望、そしてほんの少しの怒り。それらが濁流のように俺の意識を洗い流そうとする。


『……やめろ』


 俺は歯を食いしばって、その声に抵抗した。

 こんなものに、飲み込まれてたまるか。

 俺は自分の感情と、この声の主の感情とを必死に切り離そうと試みた。


「あまり深入りしない方がいいわ、ヨシオくん」


 ユキナが珍しく忠告めいた口調で言った。


「あの子の悲しみは底なし沼のようなもの。下手に同調すれば、あなたも一緒に引きずり込まれてしまうわ」

『……分かっている』


 俺は制服のズボンで乱暴に指を拭うと、ゆっくりと立ち上がった。

 頭の中に響いていた声は少しずつ遠のいていく。だがその余韻は、まるで不快な耳鳴りのように意識の片隅にこびりついていた。

 俺はフェンスに近づき、その向こう側に広がる景色を眺めた。

 赤い空の下、色褪せた街並みがどこまでも広がっている。まるで巨大な墓標が立ち並んでいるかのような、死んだ風景。

 俺たちの学校も、その風景の一部と化していた。南校舎も北校舎も体育館も、全てがセピア色の写真のように現実感を失っている。


『ここから出る方法はないのか』

「あるとすれば二つね」

『二つ?』

「一つは、あの子の気が済むのを待つこと。この世界はあの子の心象風景そのもの。あの子の心が晴れれば、この赤い空も元の色を取り戻すでしょう」

『……そんな、いつになるか分からないものを待てと?』

「だから言ったでしょう。気が済むのを『待つ』のよ。それが一日後か、百年後かは私にも分からないわ」


 百年後。

 冗談じゃない。その頃には俺は骨になっている。


『……もう一つは?』

「もう一つは、この世界の主であるあの子自身をどうにかすることよ」

『どうにかする、とは?』

「さあ?未練を晴らしてあげるか、あるいは――」


 ユキナはそこで言葉を切った。

 その先を、俺は聞きたくないような気がした。


「――力ずくでこの世界から追い出すか。まあ今の私たちに、そんな力があるとは思えないけれど」


 やはり、ろくな方法ではなかった。

 俺は大きくため息をついた。どちらの方法も現実的とは思えない。

 その時だった。

 屋上のコンクリートに広がっていた赤い染みが、にわかに動き始めた。

 今までただの液体だったものが、まるで意思を持ったアメーバのように蠢き、その面積を広げていく。

 染みと染みが繋がり、より大きな水たまりを形成する。

 それはまるで地図が描かれていくかのように、屋上の床を不気味な赤色で侵食していった。


『……おい、あれは』

「おしゃべりはもうおしまい、ということかしらね。どうやらあの子、本格的に私たちを歓迎するつもりのようよ」


 ユキナの声にはわずかな緊張の色が浮かんでいた。

 赤い液体はゆっくりと、だが確実に俺たちの足元へと迫ってくる。

 逃げ場はない。

 この屋上は完全に孤立した空間だ。


 俺は後ずさった。背中が冷たいフェンスにぶつかる。

 赤い液体は生き物のように、俺を追い詰めてきた。

 鉄錆の匂いが先程よりもずっと濃くなっている。息が詰まりそうだ。


『みぃつけた。』


 また、あの声が聞こえた。

 今度はすぐ耳元で囁かれたかのように、はっきりと。

 ぞわり、と全身の皮膚が粟立った。

 声のした方へ反射的に振り返る。


 そこには、誰もいなかった。

 だが俺のすぐ隣の空間が、陽炎のようにわずかに揺らいで見えた。

 何かが、いる。

 俺の目には見えないだけで、すぐそこにあの声の主が立っている。


「……ようやくお出ましのようね」


 ユキナが静かに言った。

 彼女には、その姿が見えているのかもしれない。


 足元では、赤い液体がついに俺の上履きに触れた。

 じゅ、と音がして上履きからわずかに焦げたような匂いがした。液体には強い腐食性があるらしい。

 俺は慌てて足を引いた。

 このままでは、まずい。

 この赤い海に飲み込まれてしまう。


 俺は必死に周囲を見渡した。

 どこか、逃げる場所はないか。

 屋上には給水タンクと、そして校舎の中へと続くもう一つの扉がある。

 俺は迷わずその扉へと駆け出した。

 赤い液体の上を飛び越えるようにして走る。

 扉の取っ手に手をかけ、力任せに回した。


 頼む、開いてくれ。


 ガチャリ、と音がして扉はあっさりと開いた。

 俺は転がり込むようにして、校舎の中へと避難する。

 すぐに扉を閉め、背中を押し付けて内側から必死に押さえた。

 扉の向こうから、赤い液体がじわじわと隙間を押し広げようとしてくるのが背中を通して伝わってきた。


『……助かった、のか?』

「ええ、ひとまずはね。でも根本的な解決にはなっていないわ」


 ユキナの言う通りだった。

 俺は扉を押さえながら、自分が今いる場所を確認した。

 薄暗い階段の踊り場。見慣れた北校舎の階段だ。

 だがここもまた、あの赤い空の光に照らされて不気味な雰囲気に満ちていた。窓の外には色褪せた街並みが広がっている。

 屋上から逃げ出したところで、結局俺たちはまだこの作られた世界の中にいるのだ。

 扉を押し返してくる力が、ふっと消えた。

 どうやら諦めたらしい。

 俺はしばらくそのまま様子をうかがっていたが、それ以上扉の向こうに動きはなかった。

 ようやく、全身の力が抜けていくのを感じる。

 俺はその場にへたり込んだ。


「大丈夫、ヨシオくん?」

『……ああ、なんとか』


 荒い息を整えながら俺は答えた。

 ユキナの気配が、俺のすぐそばに寄り添うように感じられた。

 少しだけ、安心した。

 この異常な世界で独りではない。それだけが今の俺にとって唯一の救いだった。


 俺はゆっくりと立ち上がると、階段の下へと目を向けた。

 薄暗い廊下がどこまでも続いている。それは俺の知っている学校の廊下のはずなのに、まるで見たこともない迷宮の入り口のように見えた。

 ここを進んでいくしかないのか。

 この、怪異の巣と化した学び舎を。


『……行くぞ、ユキナ』

「ええ、そうね。ここにいても事態は好転しないでしょうし」


 俺は覚悟を決めて一歩、足を踏み出した。

 ぎしり、と床が軋む音が、静まり返った校舎にやけに大きく響き渡った。

 これから先に何が待ち受けているのか全く想像もつかない。


 だが、進むしかなかった。

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