『あれ』が視える俺の非日常 ~オカルト修羅場のド真ん中で~

速水静香

第1話

 退屈、という言葉を液体にしたらきっとこんな感じなのだろう。

 澱んで生温く、全身にまとわりついて思考の自由を奪う。窓の外では特に感想を抱かせない形状の雲が、これまた特に感想を抱かせない速度で流れていく。教壇の上では初老の教師が古典文法について、感想を抱かせない声量で何かを説明していた。周囲のクラスメイトたちは、そのほとんどが意識を手放しているように見える。数名はかろうじてノートに何かを書きつけているが、そのペン先が生み出しているのが意味のある文字列なのか、あるいは無意識の産物としての幾何学模様なのかは判然としない。俺もまた、そんな生ける屍の一員だった。


 首にかけているワイヤレスヘッドホンに指先でそっと触れる。電源は入っていない。音楽が流れているわけでもない。これは俺にとって、世界との間に一枚の壁を置くための、ささやかな処世術のようなものだ。これを身に着けている間、俺は『音楽に集中していて周りの声が聞こえない人間』を演じることができる。話しかけるな、関わるな。そんな無言の意思表示。もっとも、そんなことをしなくても、この教室で俺に積極的に関わってくる人間などほとんどいやしないのだが。


「――ねえ、ヨシオくん」


 不意に、鼓膜を直接撫でるようなひそやかな声がした。

 俺だけの秘密。

 俺は視線を黒板に向けたまま、内心だけで応じる。


『なんだ』

「あの子、また窓の外を見てる。可哀想に。ずっと、あそこにいるのね」


 声の主――定保氏ユキナが言う『あの子』とやらが誰なのか、俺は確認しようとも思わなかった。どうせ、俺以外の人間には見えない何かだろう。物心ついた頃から、俺の世界は常にそういうもので構成されていた。他の誰にも聞こえない声。他の誰にも見えない気配。それが俺の日常であり、俺の現実だった。

 だから、今更驚くこともない。


『お前には見えても、俺には見えないんだからいちいち報告しなくていい』

「あら、つれないのね。私のヨシオくんは」


 くすくす、と吐息のような笑い声が耳元で弾ける。そのたびに、首筋のあたりがすっと冷たくなるような感覚が走った。物理的な温度変化ではない。ユキナの気配が濃くなるといつもこうだ。まるで、真夏日に古い神社の本殿に足を踏み入れた時のような、厳かで肌寒いあの感じ。

 彼女は、俺に取り憑いているらしい。

 らしい、というのは彼女自身がそう言っているだけで、俺にその真偽を確かめる術がないからだ。少なくとも俺が知る限り、彼女は俺以外の人間とコミュニケーションをとったことがない。俺にしか見えず、聞こえず、感じられない。それが定保氏ユキナという存在だった。


『その呼び方はやめろと、いつも言っているだろう』

「どうして?ヨシオくんは、私のものよ。昔から、ずっと」


 当たり前の事実を告げるような、平坦でいて有無を言わさぬ響き。こういう時のユキナに何を言っても無駄なことは、長い付き合いでよく分かっていた。彼女の論理は常に彼女の中で完結していて、他者の介在を許さない。特に、俺の所有権に関する話題ではその傾向が顕著だった。

 諦めて、俺は再び意識を教室へと戻す。戻す、と言ってもただ視線を教壇に向けるだけで、教師の話が頭に入ってくるわけではない。ただ、この退屈な空間に溶け込むための一種の擬態だ。目立たず、騒がず、誰の記憶にも残らず一日を終える。それが俺の高校生活における、至上命題だった。


 やがて、気の抜けたチャイムの音が授業の終わりを告げた。その瞬間、今まで死んだように静かだった教室に、堰を切ったように生命感が戻ってくる。椅子を引く音、教科書を乱暴に鞄にしまい込む音、そして解放感に満ちた生徒たちの話し声。さっきまでの静寂が嘘のように、教室は喧騒で満たされていく。


「なあ、聞いたか?あの噂」

「どれだよ。うちの学校、噂多すぎだろ」

「屋上のだよ。また出たらしいぜ、昨日の夜」


 前の席の男子たちが、ひそひそと、それでいてどこか楽しげに声を交わしていた。俺は聞こえないふりをして、机の中の荷物をゆっくりと片付け始める。どうせ、俺には関係のない話だ。


「屋上って、あの?一年前に、先輩が飛び降りたっていう……」

「そう、それ。夜中に見回りしてた警備員が見たんだと。屋上のフェンスの向こう側に、女子生徒が立ってたって」

「うわ、まじかよ。それ、絶対ヤバいやつじゃん」

「だろ?で、警備員が慌てて駆けつけたら、もう誰もいなかったって話」


 またその話か、と俺は内心でため息をついた。

 一年前に、この学校の生徒が屋上から身を投げた。それは事実だ。いじめが原因だったとか、恋愛のもつれだったとか、様々な憶測が飛び交ったが、本当のところは誰にも分からない。ただ、それ以来、校内ではその生徒の霊を見たという噂が周期的に流行っては消えていく。まるで、季節性の風邪のように。

 俺はオカルトの類を信じているわけではない。いや、正確に言えばユキナという超常現象そのものを日常として受け入れている時点で信じるも信じないもないのだが、少なくともそういったありふれた怪談話に興味はなかった。俺にとっての怪異は、もっと個人的でプライベートなものだからだ。


「その霊、まだ学校をさまよってるのかね」

「さあな。でも、未練があったんだろうな、やっぱり」

「やめろよ、なんか怖くなってきた……」


 くだらない。

 人が死ねば、そこには何かしらの物語が生まれる。生前の人間関係、死に至った経緯、そして残された者たちの想像力。それらが化学反応を起こして、怪談という名の娯楽になる。彼らが消費しているのは死んだ生徒の霊ではなく、その死にまつわる物語そのものだ。


「――本当に、可哀想な子」


 ユキナが静かに言った。

 その声には、先程とは違うどこか憐憫のような響きがまとわりついていた。


『何がだ』

「自分のことを、あんなふうに他人に面白おかしく消費されるなんて。あまりにも、救いがないじゃない」


 珍しく、感傷的なことを言う。

 俺は何も答えず、鞄を肩にかけた。早くこの騒がしい場所から立ち去りたかった。一人になれる場所へ。つまりは、俺とユキナの二人きりになれる、あの一軒家へ。



 家に帰る途中、特に会話はなかった。

 ユキナは時折、道端の草花から最近のゲーム機についてまで様々なことを囁いていたが、俺はそれにいちいち相槌を打つことはしない。俺たちの関係は、そういうものだ。彼女は話し、俺は聞く。あるいは、聞き流す。それで均衡は保たれる。

 両親はいない。父親は俺が幼い頃に死に、母親は仕事で海外を飛び回っている。この家には俺一人と、そして俺にしか認識できないユキナが住んでいる。一軒家。二人で住むには、あまりにも広すぎる。


 玄関の扉を開けると、ひやりとした空気が頬を撫でた。俺は靴を脱ぎ始める。


「おかえりなさい、ヨシオくん」


 背後から、ユキナの声がした。

 誰もいないはずの玄関から、当たり前のように聞こえてくる声。

 俺は振り返らずに答える。


「……ただいま」


 それが、俺たちの日常だった。

 自室に入り、鞄をベッドの上に放り投げる。制服から部屋着に着替えていると、ユキナがすぐそばにいる気配がした。温度のない視線が、背中に突き刺さるような感覚。


「ねえ、ヨシオくん。さっきの話、少し気にならない?」

「さっきの話?」

「学校の、屋上の子の話よ」


 着替えを終えた俺は、ベッドに腰掛けながら答えた。


「別に。ただの噂話だろ」

「そうかしら。私は、そうは思わないけれど」


 ユキナの気配が、部屋の中をゆっくりと動く。窓辺に立ち、それから本棚の前を通り過ぎて、俺のベッドの足元あたりで止まった。彼女の姿は、普段ははっきりと見えない。黒い、不定形の何か。人のかたちをしているようでもあり、ただの濃い空気の揺らぎのようでもあった。ただ、そこに『何か』がいる、ということだけは嫌というほど明確に分かる。


「あの子の気配、日に日に強くなっているわ。学校全体に、あの子の悲しみが満ちてきている」

「悲しみ?」

「ええ。とても深くて、冷たい感情よ。誰にも分かってもらえなかった、という絶望。世界から拒絶された、という孤独。そういうものが、澱のように溜まっているの」


 まるで見てきたかのように言う。

 まあ、彼女にとっては本当に『見えて』いるのかもしれないが。


「だとしても、俺には関係ないことだ」

「……本当に、そうかしら」


 ユキナの声が、少しだけ低くなった。

 それは、彼女が不機嫌になった時の兆候だった。


「私には、あの子の気持ちが分かるのよ。誰にも理解されないという孤独が、どれほどつらいものか」

「お前には、俺がいる」

「そうね!まるでどこかのドラマのセリフみたいでいいわね。さすが、私のヨシオくんだわ」


 一転して上機嫌な様子でユキナが語り始めた。

 そして、『私のヨシオくん』。

 ああ、始まった。

 ユキナらしい、会話のための会話が始まっている気がした。この手の話をユキナは大好きだ。その内容は特に意味がなく、時間だけが無意味に過ぎていく。結局、彼女は俺とじゃれあいたいだけなのかもしれない。


「……少し、黙っててくれ」


 俺はそれだけ言うと、読みかけだった文庫本を開いた。活字の海に意識を沈めれば、この状況から逃れられると思ったからだ。

 その間にも、ユキナはそれ以降もあれこれと囁いてきていた。

 俺はその内容を聞き流しながらも、本を読み進めていった。



 翌日の放課後も、特に変わったことはなかった。

 相変わらず退屈な授業を受け、誰と話すでもなく教室の隅で息を潜め、終わりのチャイムと共に学校を後にする。完璧なまでにいつも通りの一日。そう、思っていた。


 昇降口へ向かう途中。


 ドンッ!


 ふと、普段は使わない階段の方から、何かが落ちるような破裂音が聞こえた。

 固くて、乾いた音だった。


 足を止め、音のした方へ目を向ける。そこにあるのは北校舎へと続く渡り廊下と、その先にある階段だ。北校舎は美術室や音楽室など、特別教室がいくつかあるだけのため、生徒の往来も少ない場所だった。

 そして、その階段の上には屋上への扉がある。


『行ってみるのか?』


 俺は、内心で自問する。

 やめておけ、と理性が警告を発していた。面倒ごとに首を突っ込むのは、俺の信条に反する。どうせ、風で何かが倒れたか、あるいはどこかの部活が使っている備品が立てた音だろう。そうだ、きっとそうに違いない。

 そう自分に言い聞かせ、再び歩き出そうとした、その時だった。


「――行ってみましょうよ、ヨシオくん」


 ユキナが楽しそうに囁いた。

 その声には純粋な好奇の色が浮かんでいる。まるで面白そうな玩具を見つけた子供のようだ。


『嫌だ。面倒なのはごめんだ』

「あら、どうして?もしかしたら、噂のあの子に会えるかもしれないわよ」

『だから嫌なんだ。会ってどうする』

「お話、聞いてあげるのよ。きっと、誰かに聞いてほしいことがたくさんあるはずだから」


 お節介なことだ。

 俺はユキナの言葉を無視して、昇降口へと足を向けた。しかし、数歩も進まないうちに再び足を止めざるを得なかった。


 また、音がしたのだ。

 今度は、さっきよりもずっと近くで。


 ぴちゃり、と。

 何か湿ったものが床に落ちるような、不快な音。

 まさか、と思いながらゆっくりと自分の足元に視線を落とす。


 そこには、何もなかった。


 だが、数メートル先の廊下の床に、小さな赤い染みができていた。

 まるで、誰かが赤い絵の具を、一滴だけそこに落としたかのようだ。


 なんだ、あれは。

 誰かの悪戯か?

 いや、それにしては色が鮮やかすぎる。まるで、たった今流れたばかりの新しい血のような。

 ぞわり、と背中に悪寒が走った。

 それはユキナの気配によるものではない。何かの生々しい、何か別のものに対する本能的な拒絶反応だった。


「……あらあら」


 ユキナが感心したような声を上げた。


「あの子、私たちを呼んでいるみたいね」


 見ると、赤い染みは一つだけではなかった。

 少し先の廊下にも、また一つ。そして、さらにその先にも。

 点々と、まるで道しるべのようにそれは続いていた。


 北校舎の階段へと向かって。


 逃げ出すべきだ。

 頭の中の警報がけたたましく鳴り響いている。こんなものに関わってはいけない。これは、俺の日常に属するものではない。もっと、危険で厄介な、何かだ。

 分かっている。分かっているのに、なぜか足が動かなかった。

 赤い染みが、妙に目を引いて離さない。

 それは、この退屈で色褪せた世界の中で、唯一鮮烈な色彩を放っているように見えた。


「行きましょう、ヨシオくん」


 ユキナがもう一度、囁いた。

 その声は、抗いがたい響きを持っていた。

 俺は無意識のうちに一歩、足を踏み出していた。

 赤い染みが示す、その先へ。

 自分の意思とは裏腹に、体が勝手に動いてしまう。まるで、見えない何かに引かれているかのように。


 一歩、また一歩と、北校舎の階段に近づいていく。

 夕暮れの光が差し込む廊下は、不自然なほどに静まり返っていた。他の生徒たちの声も、部活動の音も、何も聞こえない。世界から俺と、ユキナと、そしてこの赤い染みだけが取り残されてしまったかのような、そんな雰囲気だった。


 階段の下までたどり着くと、染みはそこから上へと続いていた。

 一段、また一段と、屋上へと続く扉に向かって。


 俺はゆっくりと階段を上り始めた。

 自分の足音だけが、やけに大きく聞こえる。


「……近づいてくるわ」


 ユキナの声が、緊張を帯びた。


「あの子の気配が、すぐそこに」


 踊り場を曲がり、最後の直線階段に差しかかる。

 その先には、どこにでもあるアルミ製の扉。屋上へと続く唯一の出入り口だ。そこにある窓の部分は白く濁って、屋上の状況はまったく分からない。

 さらに扉には、南京錠までかかっていた。


 生徒が勝手に入れないように、厳重に管理されているようだ。

 赤い染みは、その扉の前で途切れていた。

 まるで、ここが終点だとでも言うように。


 一体、何なんだ。

 ここまで来てみたものの、結局何も分からない。ただ、不気味な染みがあっただけ。

 そう思い、踵を返そうとした、その瞬間。


 どうして、きてくれないの。


 か細い、少女の声が聞こえた。

 それは、ユキナの声ではなかった。

 絶望の色を濃く滲ませた、知らない誰かの声。

 声は、目の前の扉の向こう側から聞こえてくるようだった。


 全身の産毛が、一斉に逆立った。

 体が、動かない。金縛りにあったように、指一本動かすことができない。


 ずっと、まっていたのに。


 声と共に、扉がゆっくりと軋み始めた。

 南京錠がひとりでに外れ、乾いた音を立てて床に落ちた。

 そして固く閉ざされていたはずの扉が、まるで手招きをするかのように、内側へと静かに開いていく。

 扉の隙間から、夕暮れとは違うどこか人工的な、不気味な赤い光が漏れ出していた。


「……あらあら。どうやら、お招きされてしまったようね」


 ユキナが、どこか他人事のように、それでいてほんの少しだけ楽しげに言った。

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