赤い犬

粥川 鶏市

プロローグ 1

カタン・・カタタンという重い金属音で、平田咲子ひらたさきこが目を覚ますと列車の中だった。


新宿にある本社での研修からの帰り、朝が早かったのと仕事終わりの解放感で、ついうとうとと眠ってしまったのだった。


二人掛けの座席の一番後ろ、通路側に置いたケイトスペードのシンプルなバッグ。


異常がないかをなんとなく確認すると、中から携帯電話とハンカチを取り出した。


・・・八時か・・


携帯電話・・特にスマートフォンが当たり前になってからは、腕時計というものをすることがなくなった。


咲子は指輪やネックレス、それにブレスレット・腕時計、そうゆう自分を拘束するように付けるアクセサリーのたぐいが苦手だった。息苦しかった。


腕時計も持ってはいたが着けることなく、いつもカバンに入れて持ち歩いていた。


それも携帯電話を持つようになってからは、必要が無くなった。


・・・あれはもはや趣味のものだな・・・と咲子は思っていた。


カチン・・とまた、列車の連結部辺りれんけつぶあたりから音がした。


咲子は振り返り、座った座席の背もたれのさらに奥にあるその辺りを、透かして見るように視線を細める。


車内の光が全体にもやがかかったように白い。


咲子は手にしたハンカチで両目を覆う様にして強く圧迫した。


いつの間にか窓の外の明かりもぽつぽつと、高い建物はなく田んぼや畑が広がっている。


遠くまで水が張られた田んぼに、ボヤっとした星空が映っている。


なぜかトロンと揺蕩ってたゆたって見えるのは、水面を何かが覆っているのか、粘度のある何かが溶け込んでいるのか・・そんな感じだ。


前席の背もたれに手をかけ、腰を浮かせて車両内を見渡す。


北千住でこの列車、東武伊勢崎線とうぶいせさきせんの特急『りょうもう号』に乗り込んだときには、座席は3割程度埋まっていたのが、今は咲子が座っている座席とは反対側。


左側の列の中ほど、通路側に白髪頭しらがあたまのサラリーマン風が、一人座っているだけのようだった。


窓に映り込んだ車内の様子にも、動く人影は見られない。


プーンと耳鳴りのような電子音がかすかに鳴った後、車内アナウンスが次の駅を野州山辺やしゅうやまべと告げた。


咲子が降りる太田駅おおたえきの二つ手前だ。


窓に顔を近づけて外を見ると、よく利用するドラッグストアの看板が目の高さにある。


この辺りは土地が低いせいか、線路がずーっと高架になっている。


明るい車内から暗い外の風景を上から眺めるというのは、何か特別な場所から世界を見渡しているようで、心拍の下がる不思議な安堵感あんどかんがあった。


咲子は自分が勤務する営業所に電話をかけた。(いつもはこんなマナー違反はしないのだが、今この車両には、自分のほか一人しか乗っていないので・・)


数回呼び出し音が鳴るのを待ったが、電話には誰も出なかった。


入って間もない新卒が、一人残って仕事をしているのを気にして掛けてみたが、どうやら今日は帰ったらしい。


咲子は携帯電話の画面を閉じて、もう一度座席に深く座りなおすと、肩を挙げて大きく息をした。


・・ふと誰かに見られている気がした。


悪意のある視線ではないが、たとえば信号待ちで道の向こうにいる人が、こっちを見ているようなそんな感じ。


咲子は自分の視界の中にあるはずの、その視線の在処ありかを探した。


窓ガラスに自分の顔が映っているところは、陰になり外の様子が見える。


その周りは車内が映り込んでいて、鏡のようになっている。


その奥は反対側の窓が映っていて、コンビニの看板が通り過ぎていく。


車内に目を戻すと、この車両にもう一人乗っていたサラリーマン風の男が、立ち上がって降りる準備をしていた。


後ろから見たときは50代後半かと思ったが、今見た横顔の印象ではもっとずっと若いようだ。


40代半ば・・ただ姿勢が悪く、全体にだらしがない感じがする。


スーツも着慣れないのか、しわだらけだ。


・・・あれ?見覚えがある・・最近どこかで見た気がする・・・そうだ研修会場の向かって右の壁際に、ずっと立ったままでいた男だ・・・


小さな会社ではないから、顔を知らない人間がいてもおかしくはないが、この辺りの駅で降りるということは、同じ地区の勤務という可能性がある。


・・・中途採用の人かな・・・


特急は野州山辺の駅に向けて、スピードを落としていった。


列車が止まるとサラリーマン風の男は、咲子が座る座席とは反対側のドアから、分厚いビジネスバックを下げて降りて行った。


・・・営業職なのかな、だったら知らなくても仕方ないか・・・


他には誰も降りなかったであろう駅のホームに立って、男は改札に向かうでもなく、自分が乗っていた車両の方を見ている。


心なしかゆらゆらと、酒に酔ったように揺れている。


やがてドアが閉まり列車は出発したが、やはり男は黙って立ったまま、走り去る列車を見送っていた。


寒気がした。


・・・なんか気持ち悪い人だな・・・あの人が私を見ていたのかな・・・


咲子が見覚えがあると思ったように、向こうも咲子を見てそう思ったのかもしれない。


車内に目を走らせても、もう誰かの視線は感じられない。


再び窓の外を見ると、狭く蛇行した古い街道の両側に、真円しんえんを下から支える、一時代前のデザインの街灯が並んで立っていて、それが人の両の目のように見えなくもなかった。


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