弁当が捨てられる悪戯が流行ったのは知ってる?(一)

 母が三年間にわたり一日も欠かさず弁当を作ってくれたことに、僕は深い感謝の念を抱いている。

 健康状態や嗜好に細やかに配慮され、肉体的な滋養のみならず、精神的な充足までも与えてくれた。季節や行事に合わせた献立には、明確な意図と愛情が込められており、その彩りを目にするたびに、他人に誇示したい衝動に駆られることさえあった。

 決して、外食を避けて浪費を抑えるためだけに弁当を持たされたわけではない。むしろ、運動をしない僕の身体を思い、栄養の均衡や塩分・糖分の調整にまで心を砕いてくれたのだろう。

 だからこそ、涼香からあの話を聞かされたとき、僕は思わず不快の色を顔に浮かべてしまったのだと思う。


『弁当が捨てられる悪戯が流行ったのは知っている?』


 話を聞くと、僕らが三年生になったばかりの春、同学年で生徒の鞄に入っていた弁当が相次いで捨てられる事件が発生していたという。

「知らなかったの?」

「まぁね」

 涼香が疑わしげな視線を向ける。恥じることはない。ただ、偶然にもその噂が僕の耳に届かなかっただけのことだ。

「最初の被害者はC組の森崎夏樹もりしたなつきさん。成績が優秀で帝陵進学カリキュラムにも参加していた子。少し気取ったように見えるから、面白く思わなかった生徒が弁当を捨てたんじゃないかって噂されたの」

 学習によって得た知識を誇示し、無意識に高慢さを漂わせてしまえば、周囲の反感を買うこともあるだろう。

「けれど、どんな理由があろうと、愛情を込めて作られた弁当を捨てるなんて、あまりに非情だよ」

「うん。そうだよね。でもそれだけじゃないんだよ。一か月後にも同じことがあった。今度はA組の八嶋勇人やじまはやと君の弁当が捨てられていたの」

「C組に、A組……クラスも違うのか」

 僕はかすれた声で短くつぶやいた。

「そう。これだけじゃないよ。更に数週間後、今度はE組で起きた。被害にあったのは向井陽菜(《むかいひなた》さん」

「その子なら知っている!」

 向井陽菜といえば、学年随一の秀才として知られる存在だ。クラスの異なる三人の名が並んだとき、彼らに共通する一点が、急に頭の中に浮かび上がってきた。

「八嶋勇人さんも成績が良いの?」と確かめてみた。

「さすがだね。そう。八嶋君も成績優秀者」

「そっか。彼らには共通点があった。とても勉強ができた人たちなんじゃないかな」

「その通り。全員、帝陵進学科カリキュラムを受講していた。成績を落としてしまった誰かがやっかみで悪事を働いたと、今度は校内で噂が広がったの」

 涼香は肩を落とし「でも、四人目が……」と、告げる。彼女がひと呼吸置くから、僕が先に答える。

「例外だった?」

 彼女から「そう」と、予想通りの反応が返ってきた。

「四人目の橋爪唯奈はしづめゆいなさんは帝陵進学カリキュラムには参加していなかった」

「共通点は進学カリキュラムを受講していた生徒ではなかったんだね。とすれば、単に学業が優れる人に嫌がらせをしたかった可能性もあるね?」

 彼女は大きく首を振る。

「それはないかな」

「どうして?」

「橋爪唯奈は頭は良くない」

 涼香が真顔で言う。

 なにも、そんな真剣に言わなくてもいいのに。

「それに、五人目の被害者も特に成績が良いって話は聞いたことがないな」

「なるほど、三人目以降の被害者の共通点がなくなってしまったわけだね」

「そう」

「で、その一連の事件の被害者、つまり弁当がゴミ箱に捨てらた被害者は何人いるの?」

「その五人だけ」

「そっか。で、弁当が捨てられていることが古賀先生が休んだことに、どう関係しているの?」

 涼香は言葉を選ぶように視線を彷徨わせ、やがて、小さな決意を帯びた声で続けた。

「古賀先生は、弁当を捨てた犯人が誰なのかを知っていたんだと思う。同じクラスの友達に聞いたんだけど……古賀先生がその犯人と口論していたの。声を聞いたみたい」

 聞いたらしいとは、風変わりな表現である。

「その涼香の友人は、古賀先生との口論の相手が誰だったのか見ることができなかったの?」

 彼女は残念そうに頷く。

「売店に隣接する会議室があるのはわかる? 話し合いは、そこで行なわれていた。声は聞けても、中の姿は見れなかったみたい。売店の自販機でジュースを買おうとしていたら、どこからか古賀先生の声が聞こえてきたって言ってた。古賀先生には珍しく威圧的な声だったみたい。ドアの方向に耳を澄ますと古賀先生とは違う声で『悪いことをしたとは思っていない』と、『捨てた物に興味はない』と、聴こえてきたようなの。友達は興味本位でその会議室のドアに耳を当てた」

 それなら、だいたいの犯人の目星はつくのではないか。少なくとも『声』という大きなヒントを涼香の友人は持っているはずである。僕は先を急いで「それで?」と促す。

「でもね。教頭先生が売店の前を通って怒られたらしい。盗み聞きなんてするなって。慌てて、教室に戻ったから会話の中身までは聞き取れなかったみたい」

「そっか。会話の内容で判断することは難しいってことだね。で、声の特徴から探すってことはできるよね?」

「それも聞いた。でも、見当がつかなかったみたい。女の子の声だったみたいだけど、わからなかったって。どこかで聞いたことのある声だったから、同じ学年の生徒じゃないかもしれないって言ってた。後輩だとすれば、範囲は大きくなるでしょ?」

「そうだね」

「ずっと探してるの」

 要するに、古賀と口論していた人物を見つけ出したいという要望か。涼香の友人の耳からの記憶を信じるのであれば、候補は女子生徒であること。そして、その対象は広範囲に及ぶ。一人一人の声を涼香の友人が聞けば、閃くものがあるかもしれない。だが、現実的にそれは不可能だ。我が帝陵高校の生徒数は六百を数える。単純に男子の数を省いたとしても三百を超える人物の声を集めなければならない。

 不可能だ。

「他に何かヒントがあればね」

「一緒に手がかりを考えてくれるよね?」

 僕は嫌さそうな顔を見せる。でも、本当はちっとも嫌ではない。

「そもそも、口論していた相手が原因で古賀先生が休んだとは限らないよね」

「そうだけどさ」と、涼香は脆弱にして俯く。途端に、僕の反乱への情熱は衰えていく。

「その口論の相手がきっかけで休んだのではないかと思う心当たりでもあるの?」

「ないよ。全部ない。だから、考えられることを片っ端から調べるしかないの。例えば、自分の教え子が他人の弁当を捨てているところを発見してしまったらどう思う? きっと、古賀先生はいつもよりも情熱的にその悪行を正したんだと思う。もし、それでも、『悪いことをしたとは思っていない』と、軽口を叩かれ、悪びれた様子を見せなかったらどうだろう。何度も説得しても全く響いてくれなかったら、どう思うかな。全く更生してくれない生徒に、自分の力量不足を感じてしまって、耐えられなくなってしまう可能性だってあるよね。それが休職の理由だとしたら悲しいと思わない?」

 潤んだ瞳が僕を射抜く。何と答えるべきなのだろうか。

 正直に言えば――悲しいとは思わなかった。

 人の情緒とは、先天的な気質と、運命を変える後天的な性格、この二つの要素によって形づくられる。そしてその組み合わせは無数にあり、人それぞれである。ゆえに、涼香ほどの感受性に及ばないとしても、それは僕にとって欠落ではなく、問題意識すら抱かないものだ。

 悲しくはない!

 ここはハッキリ言おう。それが古賀の求職の理由であっても、涼香が悲しむことでもなくて、古賀の特性なんだ。君が悲しむ必要もないし、涼香の想像通りのことが起きていたって僕はまったく悲しくはないんだ。

 嘘は駄目だ。ありのままの言葉を涼香に伝えよう。君は考えすぎだと、正直に――。

「悲しいことだね」

 言葉が自然と流れていく。

「古賀先生のために調べなきゃいけないことだよね。うん。原因を探してあげよう」

 涼香は嬉しそうに微笑んだ。

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