空蝉奇譚|番外編
藤江りこ
【秋成 Side】封印の譜
なんだ今の……。
妙な音を鳴らしてるやつがいるな。
初めて聞いたときはそんな風に思った。
酔っぱらった文鳥がずっとまとわりついてくるみたいな……。
やたらと上機嫌でウキウキ浮ついてて、ちょっと心配になるくらいだ。
なのになんだかモヤモヤさせる。
(あんな調子で吹いててどうやって――)
次の瞬間、音の主を確かめずにいられなくなり立ち上がっていた。
「え、おい。秋――」
「ちか、ちょっと行ってくる」
「行くってどこへ?」
「笛のとこ――」
「笛――?」
親房が耳をそばだてた時には、もう音は止んでいた。
「え、女――?」
大急ぎで音が聞えてきたあたりの女房たちに聞いてみると意外な答えが返ってきた。
(そんなことあるのか……?)
男は笛、女は箏というのが普通だ。
笛を吹く女なんて聞いたことがない。
「ええ、珍しいですよね。殿の小鳥合わせに出入りされてる
「尚継の――」
尚継のことは知っていた。
やけに黒目がキラキラした少年だ。
こないだまで
内裏でも熱心に鳥に餌をやっているのを見かけて――。
翌日早速、尚継を捕まえて合わせてほしいとお願いした。
「昨夜の笛の……」
尚継はどうしてだか泣きそうな顔をした。
(“そういう”つもりじゃないんだけど……)
笛のことを聞きたいんだと丁寧に説明する。
相手にも変な風に見えないよう、気をつけて文を書いて、渡してもらうよう託した。
・・・
「今のもう一回聴かせて?」
ある日
やたらと音が小刻みで、
「え?今の?」
小霧は言われるままに軽やかに吹いてみせ、困ったようにわらって言う。
「速いやつ吹くと、息と指がこんがらがちゃうよね」
「そんな吹き方初めて聴いた」
笛の主、小霧に会ったのはそれからすぐで、あっという間に仲良くなった。
僕は女性の友人も恋人もいないから、同い年の女の子がどういう感じかはよく知らない。
けど、小霧はたぶん普通の感じではないってことは、さすがの僕もなんとなくはわかる。
(女房のふりして他所んちの宴に紛れ込むって……)
そんなの僕にはぜったい思いつかない。
「ねぇねぇ、ちょびーっとだけ、笙を見せてもらえないかな?」
僕以上に音に対する執念がすごくて、知識も恐ろしく広く深い。
「私一度も触ったことがなくって。吸っても吐いても鳴るんでしょ?」
今まで会った誰とも違う。
知らない世界の音が聞えてるんじゃないかと思うこともしょっちゅうある。
(この子ってどうなってんだろう)
笙を差し出しながら、気になってたことを聞いてみた。
「いいよ。その笛も、いつものじゃないよね。違う音してる」
「うん、これね!特注品なんだ!」
(え……)
うれしそうにそう言いながら、突然御簾を上げて出て来ようとする。
この時はさすがにちょっとだけ驚いた。
僕はあんまり動じない方だけど。
僕の知ってる「姫」ってやつは、御簾の中にいるもんだったから。
(なんで……)
初めて見る小霧は、あまりに思い描いた通りだった。
弟の尚継と同じ、真っ黒な目をしてる。
でも、弟と違ってずいぶんギラギラしててーー。
(やっぱりちょっと変わった子だな……)
あっけにとられて、突然現れた透き通った黒をじっと見つめた。
僕は女性の見た目にそれほどこだわりはないけど、小霧はたぶん「美人」と言われる部類じゃないかな。
滑らかに白い肌、つやつやとした黒髪、賢そうな額、形の良い目。
ただ、その目がどうにもギラギラと底光りして見える。
音だけじゃなくって知らない世界も見えてそう。ちょっとこわい。
(そんなに笙に興味があるのか――)
気が合う。
「姉さん――、何してるの」
その時、尚継の声がした。
振り向くと、彼の後ろに親房がいる。
「ちか――。忘れてた」
内裏でしつこく誘われて、面倒だからここに直接来るように言っておいたんだった。
「お客様がびっくりするよ!何出てこようとしてるのさ」
尚継が大慌てで小霧を御簾の中へ押し込む。別にもういいんじゃないかな。
「ちっ――」
小さく舌打ちが聞えた気がするけど、気のせいかも――、いや僕の舌打ちかもしれない。どっちでもいい。そんな感じだ。
「すみません、忘れてました」
他所の家に勝手に客人を招くのはさすがに非常識だったと謝っておいた。
「あの夜の篳篥の、
「どうしてもって、秋成お前が、……」
親房が慌てた様子で言葉を返してきた。
小霧がまた御簾の向こうで暑苦しい気配をみなぎらせている。
御簾越しなのにあの気迫、只者じゃない。ほんとどうなってんだろう。
・・・
「お願いがあるんだけど」
内裏で突然、実雅様に呼び止められた。
話すのは初めてなはずだけど、向こうは気にする様子もない。
「"楽譜”、ですか――」
どうして彼が”楽譜”を知ってるんだろう。
小霧が前に見せてくれた"楽譜”。あの時彼女は「秘密」と言っていたはずだけど。
実雅様が小霧に文を送っていることを、この時まで僕は知らなかった。
だって彼は僕らより確か10近くは年上で、良い噂も悪い噂も多い人で――。
(実雅様が小霧を――?)
「うん、音を紙にね、写せないかと思って」
なんのために――?
疑問が浮かんだけど一瞬で消える。
答えなんて一つしかない。
それにきっと聞いても本当のことは教えてもらえないだろう。
今も彼は扇で口元を隠し、薄く笑ってこちらを見下ろしている。
女房たちの噂話をふと思い出した。
(目が合うと……どうなるんだっけ――?)
考えていたら、笑みを含んだ低い声が囁いた。
「できる――?」
「できます」
挑発的な問いに、考えるより先に返事をしていた。
他の誰でもない、僕がするべきことだと直感的に思ったからだ。
すっと目が細められ、実雅様は満足そうに頷いた。
「お礼、前に君の父上が仰ってたんだけど――」
知り尽くされていることが恐ろしくなった。
目の前に差し出された褒美に、甘く苦しい束縛と圧倒的な敗北感を覚える。
同時に"楽譜”に対するどうしようもない高揚感と――。
すべてが僕を、思いもしない道へと追い立てる。
「じゃ、君の"楽譜”、楽しみにしてるから」
形になろうとしていた何かが零れ落ちていくような気がした。
・・・
『――あの"楽譜”ってやつ、秘密……?』
そう尋ねた時の彼女のことを何度も思い返した。
彼女の笛の音を胸の奥で響かせながら、一つ一つの音を捕まえては墨で紙に写し取る。
このゾクゾクするような作業が、彼女と僕を決定的に遠ざけて、決定的に近づける。
でもそんなこと、この時にはまだよくわかっていなかった。
その意味を理解するには、僕はまだ子供すぎたから。
一音ごとに自分の首を締めながら、同時に底知れない興奮が僕を飲み込む。
黒々とした墨が、彼女の瞳を思い出させて、僕の心を引き絞る。
もう戻れない。
笛の音を、黒い瞳を、墨に溶かしたあの日の音を、心もろとも閉じ込める。
僕のこの音だけは、誰より彼女の心のそばにいる。
僕と彼女を固く結びつけてる。
それだけはもう、僕は痛いほど知っていた。
<完>
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