第1話 前編 ――硝子の靴と消えた遺言

第1話 前編 ――硝子の靴と消えた遺言


ロンドンの朝は、灰色の霧が町じゅうの輪郭を曖昧にする。午前9時を少し回ったころ、私――エドワード・カーターの診療所のドアベルが短く3回鳴った。緊張した指で鳴らす人の癖だ。

入ってきたのは黒いヴェールの未亡人で、歳は50代の半ばと見えた。頬の色は霧よりも薄く、手袋の上からでも分かるほど手が震えている。


「先生、探偵氏にお取り次ぎを。夫の遺言状が、今朝、机から消えておりました」


彼女はマダム・ハートリーと名乗った。郊外の邸に暮らし、昨年夫に先立たれたという。遺言状は書斎の机に仕舞ってある。鍵は毎晩、執事が22時に施錠し、朝7時に彼女が開ける。ところが、その封筒だけが忽然と見当たらない。

私はすぐに友人の探偵――レオン・ヴァンスに伝え、2人で馬車を呼び止めた。濡れた石畳を車輪がはね、霧が車窓に白い指紋を残す。



ハートリー邸は赤煉瓦に蔦の絡む、古風な館だった。広い前庭の芝は露を帯び、玄関の真鍮のノッカーは丁寧に磨かれている。出迎えたのは3人。

長男のロバートは27歳、派手なタイピンに鮮やかなベスト。仕立ては上等だが、どこか落ち着きがない。

次女のアンは22歳、淡い色のドレスに白いハンカチを右手首へ巻いている。指先が少し赤い。

そして執事のウィルキンズ、灰色の髪に黒い燕尾。胸ポケットからのぞく鎖の先には、小さな真鍮の鍵が下がっていた。


「お越しくださり、感謝いたします」マダムは私たちを客間に通し、すぐに書斎へ案内した。

書斎は東向きの窓が1つ、重いカーテン、壁には地図と古い楽譜。中央に重厚な机。引き出しは左右に3段ずつ、問題の遺言状は右側の2段目に仕舞ってあったという。


ヴァンスは挨拶もそこそこに、机へ歩み寄った。私は部屋の隅から全体を眺め、習慣どおり、目についたものを心の紙片に書き取る。


まず、鍵穴に目立つ傷はない。真鍮の縁に粗雑なこじ開け痕は見当たらない。

窓は内側から掛け金で留められ、雨の跡が外側に乾いた筋を残している。昨夜、内外から触れられた形跡は薄い。

机の天板には、黒革のメモ帳と金属製のペーパーウェイト、ペン立て。――ここで小さな違和感。メモ帳が天板の縁に対し、きっちり直角に揃えられている。几帳面な手の癖だ。使用人の手入れなら丸い位置に置きがちだが、これは角が角に重なるように置かれている。

床に視線を落とす。ペルシャ風のカーペットは濃い赤。右側の引き出しの真下に、微かな光の粒が見えた。膝をついて拾い上げる。親指の爪ほどの無色透明の硝子片――薄い、三日月形。光にかざせば線のように消え、下ろせばまた現れる。


「カーター君」ヴァンスが低く呼んだ。

彼は右2段目の引き出しを抜き取り、空いた引き出し枠の底を指先でなぞる。粉のような埃が薄く指についたが、奥の背板に近いところだけ、幅2センチほどの筋状に埃が払われている。筋の左右には細い埃の小山が残り、誰かが腕を入れて一方向へ掃いた痕跡に見えた。


「昨夜、ここに触れましたか?」ヴァンスが問うと、マダムは首を振った。

「いいえ。私は朝7時に鍵を取り、すぐに開けて、中身が消えているのを見つけました」


執事が真面目な口調で続ける。「鍵はこの通り、真鍮の鍵1本。夜22時に私が机を施錠し、鍵は私の部屋の壁のフックに掛けます。朝はマダムが取り、開けます。昨夜はその順で間違いございません」

ヴァンスは鍵を受け取り、鍵穴に差して軽く捻った。滑りは良い。鍵穴の周囲に新しい擦り傷は見当たらない。


私は部屋をもう一巡する。壁際の飾り棚に、ベルベットの布地で作られた小さなトレイがいくつか並び、そこにペーパーウェイトや細工物が置かれている。――1枚、布地の上の小さなくぼみに目が止まった。楕円形の浅い凹みが、長く何かに押されてできたように布目を変えている。周囲のホコリは均一だが、そこだけわずかに色が明るい。何かが最近まで置かれていたのか、あるいは一度取られて戻されていないのだろう。


「アン嬢」私は振り返る。「その白いハンカチを、少し拝見しても?」

彼女は驚いた顔をし、しかし素直に頷いた。布をほどくと、右の人差し指の側面に細い切創が走り、乾いた血が線状に固まっている。刃物というより、薄い板の縁で擦り切ったような傷だ。

「痛みますか?」

「もう大丈夫です。たいしたことはありません」アンは視線を落とし、声を小さくした。「朝、埃を払っていて……少し」

「埃を?」

「父の書斎は、思い出の品が多くて。壊れやすいものも……その、硝子でできた小さな飾りなどが」

言い淀んで、彼女は口をつぐんだ。


ロバートが苛立ったように笑う。「妹を疑うのは筋違いだ、先生。ここにいる誰だって、遺言状が無いほうが都合のいいことぐらいある」

彼はポケットから煙草を取り出そうとして、タイピンに引っ掛かった紙片を指でつまんだ。白地に小さな数字、角の欠け。質屋の質札の切れ端によく似ている。革靴の踵には泥跳ね。乾いた泥は淡い褐色、粒の粗さからしてテムズ河畔の散歩道のものに近い。


ヴァンスは視線だけでそれらを拾い、何も言わずに窓辺へ向かった。窓ガラスの下端、木枠の角に薄い円弧状の拭き跡がある。きれいというより、そこだけきれいすぎる。

彼は机の左奥に立ち、天板の隅に指先を当てた。「カーター君、ここを見たまえ」

私は身をかがめる。天板の左奥、掌1枚分の楕円が、周囲より僅かに埃が薄い。まるでそこに腕が置かれ、袖口で磨かれたようだ。

「左利き?」と私は問う。

「あるいは右手に包帯。いずれにせよ、ここに腕を入れて作業した人間がいる」ヴァンスは答え、引き出し枠の奥の筋跡をもう一度確かめた。



客間に戻ると、アンは静かに紅茶を淹れ、ロバートは窓辺で指先を落ち着きなく叩いた。執事は背筋を伸ばし、マダムは手を固く組んでいる。

「順にお伺いします」ヴァンスは椅子に浅く腰掛け、時刻を確かめる。置き時計は10時40分。

「まず、昨夜22時以降、書斎に近づいた人は?」

「私が施錠しました。以後は誰も」執事。

「私は外出していました」ロバート。

アンは一瞬、言葉を探してから、「埃を払いました。夜ではありません、朝――母に呼ばれて駆けつけた後、机の上だけ」と答えた。


「鍵の扱いを確認しましょう」ヴァンスは続ける。「鍵は1本?」

「はい。合鍵はございません」

「鍵穴は無傷、窓は内側から施錠。外部者が侵入し、鍵を使って遺言状だけ持ち去るのは効率の悪いやり方です。内部の者が、鍵を合法的に用いて開け閉めをした可能性が高い」

ロバートが鼻で笑った。「つまり誰でも疑えるということだ」

「状況だけを見ればね」ヴァンスは肩をすくめる。「だが、状況は痕跡で裏切られる」


私はアンの傷をもう一度見た。切創はほぼ水平で、幅は紙の縁ほど、深さは浅い。刃なら切り口が均一だが、これは微小な欠けが連なったギザつきがある。薄い硝子の縁が一番近い。

部屋の飾り棚の小さなくぼみ、机上の直角のメモ帳、埃の薄い楕円、引き出し枠の掃き跡、床の硝子片。――それらは別々に見えて、手触りの似た糸で結べそうに思えた。


「アン嬢」ヴァンスが穏やかに言う。「あなたはお父上の書斎をよく手入れされていた?」

「はい。父は散らかすのも好きでしたけど……大切なものは、いつも同じ場所に置いていました。小さな硝子細工とか」

「その小さな硝子細工は、今、どこに?」

アンはほんのわずか逡巡し、飾り棚に視線を送った。「……いくつかは、見当たりません」

「いつから?」

「分かりません。今朝は……その」

彼女はそこで口をつぐみ、ハンカチを握った。


ロバートが苛立ちを隠さず言う。「ねえ探偵さん、こんな問いかけに時間を使っている間に、本物の盗人は逃げる。父上は僕に家を――いや、皆がそう思っているだけだ。遺言がなくなれば、法定相続で僕の取り分は増える。つまり僕が一番得をする? そうさ、だから最初から僕が怪しいんだろう」

「あなたが自分で言うほど単純なら、探偵はいりませんよ、ロバート氏」ヴァンスは冷ややかに返した。「得をする可能性と実際の挙動は別の話だ。あなたの靴底の泥は昨夜の外出を裏づけるし、タイピンの質札の紙片は金の都合を示す。だが、どちらも遺言状の消失そのものを説明しない」


執事が口を開いた。「失礼ながら、私の部屋の鍵のフックは、朝7時まで誰も触れておりません。私が一番に起き、台所で湯を――」

ヴァンスは頷く。「あなたの規則正しさは、家中が存じているでしょう。だからこそ、鍵穴の無傷は意味を持つ。正規の鍵を使った者がいる」

執事は唇を結び、深く頭を下げた。



書斎へ戻る。ヴァンスは椅子を引き、机の右側に腰をおろした。私は左側に立ち、改めて天板を眺める。左奥の楕円は、角度を変えるほどにはっきり見える。袖口で擦れたのか、あるいは布で拭ったのか。

引き出し枠の奥の掃き跡は、指先で軽くなぞると筋の端に細かい粉が寄る。粉は灰色でも白でもなく、どこか無色だ。木粉に硝子の粉が混ざれば、こういう鈍いきらめきを見せるのかもしれない。

床の硝子片は、さきほど拾ったもののほかに、机の脚の影にさらに小さな粒が1つ、光の角度でだけ姿を現した。私はハンカチでそっと包み、失われないようジャケットの内ポケットへ移す。


「カーター君」ヴァンスが言う。「私は3つの束を見ている。硝子、埃、手。それらが同じ動作の中に収まるなら、答えは簡単になる」

「だが、今は前編だ」私は笑ってみせた。「結論を急ぐには、まだ霧が濃い」

「霧は濃いほど、灯りの形が鮮明になるものさ」

ヴァンスは立ち上がり、机の引き出しを上から順にすべて引き抜いた。枠の内側、背板の上端、底板の継ぎ目――目で追える限りの隙間を確認し、指で軽く叩く。空洞の音はしない。

「机を乱暴に扱うわけにはいかない。だが、少し傾けるだけなら」

「待ってください」マダムが身を乗り出す。「壊してしまっては」

「壊しません」とヴァンス。「ただ、重力に少しだけ助けてもらう」


彼は手袋をはめ、机の右側をほんの数センチ持ち上げかけて――やめた。

「まだその時ではない」

彼は手を引っ込め、椅子に腰かけ直した。

「中編で、皆さまのお話をもう少し伺いましょう」


私は時計を見る。針は11時10分。窓の外、霧の層がわずかに薄らいでいる。

「前編の締めくくりに、覚え書きを残しておこう」私は手帳を開いた。

――右2段目の引き出しから遺言状が消える。

――鍵穴は無傷、窓は内側から施錠、外部侵入は薄い。

――天板左奥に掌大の埃の薄い楕円、引き出し枠奥に掃き跡。

――床には無色透明の硝子片が少なくとも2つ。

――飾り棚のベルベットの小さなくぼみ、最近まで何かが置かれていた。

――メモ帳は直角に整えられている。

――アンの右手の細い切創と白いハンカチの血痕。

――ロバートの金の困窮を示す札の切れ端と、靴底の河畔の泥。

――執事は22時施錠→7時開錠の規則を守ったという証言。


「カーター君」ヴァンスが静かに言う。「この家の中に答えの形がもう見えている。見えないのは、誰の手がその形を描いたのか、ただそれだけだ」

マダムは胸元で十字を切り、アンはハンカチを握り直した。ロバートは窓に背を向け、黙って煙草に火を点ける。執事は絨毯の縁に視線を落とし、爪先を揃えた。


霧が、ゆっくりとほどけていく。

中編で、霧が晴れるだけの声を――それぞれから、聞かねばならない。

いまはまだ、机も、家族も、そして真実も、静かに息を潜めている。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る