第10話 アルプス越え、尊いの果てに

 世界史の授業で「第二次ポエニ戦争」と黒板に書かれた瞬間、俺は察した。

 隣のお嬢様、朝比奈琴音の体がピクッと震え、瞳が爛々と輝き始める。


「……来るぞ」

 俺は小声で呟いた。


 次の瞬間、彼女は立ち上がって叫んだ。

「尊いッ!!!」


 教室が一瞬でざわつく。

 先生ももう慣れたようで、「はいはい」と苦笑している。


「ご存じですか皆さま! ハンニバル将軍は象と共にアルプスを越えたのですわ! 険しい雪山を、巨体の象が進む姿! 尊すぎますわぁぁ!」


 机をバンと叩き、琴音は両手を広げた。

 クラスメイトが吹き出し、俺は思わず頭を抱える。


「象は可愛い! 象は強い! 象は尊い!」

「いや、ただの動物愛語になってないか!?」


 爆笑が広がる。

 しかし俺は地図帳を開き、ため息をつきつつ補足した。


「……まあでもな。地図で見たらわかるけど、アルプス越えって無茶だぞ。標高三千メートル級の山脈を、大軍で渡るんだ。補給路もない。現代でも遭難コースだろ」


「だから尊いのですわ!」

「いや、無理ゲーだろ!」


 また笑いが起きる。だが次の瞬間――。


「笑い事ではない」

 森山知紀の冷徹な声が、空気を切り裂いた。

「実際、アルプス越えでハンニバルの軍は数万を失った。象も半分以上死んだ。戦略的にはローマに衝撃を与えたが、犠牲は甚大だった」


 教室の笑いが、すっと消える。


「……え?」

 俺は思わず森山を見た。


 琴音はしばし黙り込み、やがて小さく震える声を出した。

「……そう、でしたのね。わたくし……象の勇姿ばかりを尊んでしまいました。けれどその陰には……寒さに震え、飢えに苦しみ、命を落とした兵士たちが……」


 彼女の目に涙がにじんだ。

「尊い……いえ……あまりにも、悲しすぎますわ」


 クラスが静まり返る。

 普段は尊い尊いと叫ぶお嬢様が、初めて声を詰まらせている。


 俺は思わず、地図帳に目を落とした。

「……でもさ。だからこそ、すごいことだと思う」

 自分でも驚くほど真剣な声が出た。

「地図で見れば、アルプス越えなんてほぼ不可能。普通なら諦める。でもハンニバルは、無茶してでもローマを驚かせたかったんだ。犠牲が出ても挑んだ。その執念は……やっぱり尊いんじゃないか」


 琴音が顔を上げ、潤んだ瞳で俺を見た。

「悠真さん……」


 森山は目を細め、冷ややかに言った。

「……甘いな。犠牲を称える必要はない。戦略の結果だけが歴史に残る。点数に必要なのは“カンネーの戦い”の勝利、それだけだ」


「でもさ」俺は森山を見返した。

「その“結果”を作ったのが、アルプス越えだったんじゃないのか? 背景を知れば、年号暗記も意味が出るだろ」


 一瞬、森山の視線が揺れた。

 だがすぐにそっぽを向いて「くだらん」と呟く。


 その後の授業は淡々と進んだが、教室の空気は少し変わっていた。

 笑いながらも真剣に耳を傾けるクラスメイトたち。

 そして俺自身も――。


(歴史って……ただの暗記じゃないんだな。勝者も敗者も、人間が生きて死んできた痕跡なんだ)


 胸の奥でそんな思いが芽生えていた。


 放課後、帰り際。

 琴音がぽつりと呟いた。

「悠真さん……今日わたくし、初めて“尊い”という言葉を軽々しく使ってはならぬと学びましたわ」

「いや、今まで軽々しく使いすぎだろ」

「けれど……やはり尊いのです。生きたことも、亡くなったことも、すべて歴史に刻まれて……尊い」


 その真剣な瞳に、俺は言葉を失った。


「……ふん」森山が小さく鼻で笑った。

「好きにすればいい。だが、受験ではやはり“カンネーの戦い”が出る」


 結局ブレない森山に、俺と琴音は思わず吹き出した。

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