第5話 「海の王国、揺らめく心」

 砂漠を越えた先に広がっていたのは、碧い海だった。潮風が頬を撫で、塩の匂いが懐かしく胸を打つ。

「……本当に、海だ」

 現実よりも澄んだ水面が、陽光を反射してきらめいている。


 海沿いに築かれた大都市マリナは、白い石造りの城壁と、青い尖塔を備えていた。波打ち際には漁師たちが網を干し、子どもたちが裸足で走り回っている。

「これが、海の王国……」

 ミナの声が弾んだ。

「すごいな。こんな街、ゲームの画面越しでも見たことない」

 俺は言葉を失っていた。



 王宮に招かれると、王女セレナが出迎えてくれた。

 長い青髪が水のように揺れ、瞳は深い湖を思わせる。

「勇者候補の皆様。よくぞここまで」

 澄んだ声が広間に響いた。

「この海には“水の紋章”が眠っています。しかし最近、海底から魔物が現れ、人々を脅かしているのです」

 セレナは悲しげに目を伏せた。

「どうか、共に戦ってください」


 NPC――のはずなのに。彼女の声は、血の通った人間のそれだった。

「……もちろん助けます」

 気づけば自然にそう答えていた。



 その夜、港町で宿を取った。

 リオンが窓辺でつぶやく。

「……あの王女、本当にNPCか?」

「え?」

「彼女の瞳を見た。あれは、ただのプログラムの光じゃない。心を持っていた」

 昨日の“救えなかった少年”のことが脳裏をよぎる。

 ここにいる人々も、俺たちと同じように笑い、泣いている。


 ミナがベッドに腰を下ろし、ぽつりと呟いた。

「もしNPCにも心があるなら……彼らを犠牲にしてまで、私たちは帰るべきなの?」

 答えられなかった。剣の重みが、妙に現実的に感じられた。



 翌朝。俺たちは海底神殿への道を進んだ。

 潜水用の魔法具を装着し、透明な泡に包まれて海中へ降りていく。

「わぁ……!」

 ミナが感嘆の声を上げた。サンゴ礁が色鮮やかに広がり、魚の群れが虹のように舞っている。

 ピポは水の中でぷかぷか浮かび、嬉しそうに泡をはじけさせていた。


 神殿の門を守っていたのは巨大なクラーケン。八本の触腕がうねり、海底を揺らす。

「行くぞ!」

 ガロンが盾を構え、触腕を受け止める。リオンが詠唱を響かせる。

「《ライトニング・ボルト!》」

 稲妻が水を伝い、クラーケンの体を走る。

「今だ!」

 俺は「ホーム」を振り下ろし、ミナの矢が目を射抜く。

 ピポは泡を吸い込み、「すいこむ!」と叫ぶと、触腕の一部を逆に弾き返した。


 最後は仲間全員の力が重なり、クラーケンは轟音と共に崩れ落ちた。



 広間の中央に、水の紋章が輝いていた。

《“水の紋章”を手に入れた!》

 胸の奥に涼やかな力が満ちる。だがその瞬間、視界が揺らぎ、セレナ王女の声が響いた。

『勇者候補よ……もしこの世界が消えるなら、私たちの心も消えるのでしょうか?』


 幻覚のような問いかけに、俺は息を呑んだ。

「……消えない。絶対に」

 そう答えると、幻は波のように消えていった。



 王宮に戻ると、セレナは微笑んだ。

「皆様のおかげで、海は再び静けさを取り戻しました」

「王女、あなたは……心を持っているんですね」

 問いかけると、彼女は驚いたように目を見開いた。

「心……? わかりません。ただ、皆様と共に笑いたいと思うのです。それが“心”なら、私はそうなのかもしれません」

 その答えに、胸が熱くなった。


 帰るべき現実。守るべきこの世界。二つの想いが交錯し、答えはまだ出せない。

 だが一つだけ確かなことがある――この冒険は、もう単なるゲームじゃない。


 夜の港で、波音に耳を澄ませながら俺は誓った。

「どちらの世界も、絶対に見捨てない」

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