五十睡目 惰眠と睡眠と
二学期が始まって最初の理科の授業。
夏休み明けの教室は、まだ全員が完全には日常のリズムを取り戻しきれていないような、ゆるい空気を漂わせていた。
教室の隅には使い忘れたままの扇風機が置かれ、夏と秋の境界で迷っているみたいに、風の届かない場所と涼しい気配がまだらに混ざっている。
黒板の上の時計は静かに秒針を刻んでいるけれど、その音よりもしっとりとした湿気のほうが存在感を主張していた。その湿気が、夏の記憶をしつこく引き留めているようでもあった。
窓の向こうでは、夏の名残が手放せないみたいに、膨らんだ入道雲がもぞもぞと形を変えていた。
それを薄くなりかけた青空が受け止め、遠くの蝉の最後の声が、かすかな震えとして空気に紛れ込む。
少しだけ開けられた窓から吹き込む風は、七月のような熱気はもうなくて、ほどよくぬるい。
けれど肌に触れるたび、どこかで蝉が泣き残していった夏の気配がかすかに混じっていて、夏休みの終わりを実感させた。
真白は、机の上に整然と並んだビーカーや試験管を眺めながら、先生のゆったりした説明に耳を預けていた。
ガラスの底に光が反射し、小さな虹が机の端に落ちる。その淡い色だけが、注意深く目立つことなく教室の空気を彩っていた。
先生の声は相変わらず落ち着いていて、板書の合間に入る小さな咳払いまで、まるで音楽の一部のように馴染んでいる。
教室に漂うチョークの匂いは、夏休みの間に一度薄れた「学校の匂い」をゆっくり取り戻しているところだった。
――それはいいのだけれど。
隣から聞こえてくる、微弱なリズム。
ゆら、ゆら。
ゆら、……すぅ。
案の定というか、予想通りというか、その揺れには心当たりしかなかった。
鳴古は前を向いたまま、頭をゆっくりと揺らし、時折ぴたりと止まる。
まるで一瞬だけ現実に戻ったかのように背筋を正すのに、次の瞬間には重力に逆らいきれず、またゆっくりと夢の底へ沈んでいく。
“寝てませんよ”という完璧な姿勢のまま、それでも深い呼吸がすべての意図を無に帰していた。
完全に寝ている。
周りの席の子たちも、もう驚く様子はない。
むしろ「ああ、今日も始まったな」という空気さえあった。
前の席の子はこっそり笑いをこらえ、斜め前の男子は肘で友達をつついて「ほらほら今日もだぞ」と言わんばかりに肩を揺らしている。
その視線を向けられていることに鳴古本人だけが気づいていない。
(あー……夏休みが終わっても、変わらないんだなあ。)
真白は教科書で口元を隠しながら、そっと笑った。
その笑みは、周囲の反応を面白がるというより、ただ鳴古という存在の“変わらなさ”が嬉しいから生まれたものだった。
夏休みの間は、鳴古もさすがに寝ている暇はあまりなかった。
海で遊んで、水を掛け合って、アイスを食べて、夕暮れの浜辺を歩いて、花火の火薬の匂いを吸い込んで――。
鮮やかな色と音ばかりの季節の中で、鳴古は眠そうではあったけれど、ここまで無防備に眠ることはなかった。
夏休みという非日常の中では、鳴古の「日常の習性」が少しだけ影を潜めていたのだ。
だからこそ、こうして机で揺れながら寝ている姿が、真白にはなんだか“日常が返ってきた”印のように思えて、胸がじんわりと温かくなる。
鳴古の頬には、海で焼けた薄紅色が今も残っていた。
その色がまぶしくて、教室の白い蛍光灯の下でもきれいに浮かび上がっている。
まるで真白だけが知っている鳴古の秘密みたいに見えて、視線をそらしたいのに、つい何度も見てしまう。
先生が板書しながら、ふと視線をこちらに寄越す。
「……鳴古、起きてるか?」
静かに、しかし確実に響く声。
空気がさざ波のように揺れ、教室の視線が後方のこの列にゆっくり集まる。
だが、肝心の本人は――ゆら、ゆら。
(絶対気づいてない……)
真白は苦笑し、そっと肘で小さく鳴古の袖をつついた。
その布越しの体温はほんのり温かく、眠っている時の鳴古特有の“ゆるさ”を指先に伝える。
しかし鳴古はほんの少し姿勢を正しただけで、目を開ける気配はない。
眠りの国にいる人が、とりあえず返事だけしてまた眠る時のような反応だった。
先生も慣れたもので、ため息まじりに軽く笑った。
「まあ……まだ夏気分が抜けないか」
黒板に反射した光がわずかに揺れる。
何人かのクラスメイトがくすっと笑い、机の上のノートがかすかに震える。
それでも鳴古は微動だにせず、規則的な呼吸に乗せて夢の向こうを漂っている。
教室のざわめきがまるで子守歌の続きを提供しているかのようだった。
(ほんと……どこでも寝るよね)
だけど、その寝方がまた可愛かった。
眠り方に“自信”なんて無いはずなのに、どこか誇らしげですらある姿勢で、前を向いたまま眠る。
姿勢だけは真面目そのものなのに、頭だけは素直に眠りへ滑っていく。
そのバランスの悪さが、妙に鳴古らしかった。
風が吹き、鳴古の前髪がふわりと揺れる。
その影がまつ毛に触れた瞬間、まつ毛は微細に震え、やっぱり寝ていることを証明した。
その瞬きのような震えすら愛おしいと思ってしまうのを、真白は誰にも気づかれないように胸の奥にそっと隠した。
チャイムが鳴る五分前、教室の空気がゆるく動いた。
プリントを配る音、椅子がきしむ音、それらに混じって鳴古の寝息もかすかに乱れる。
周囲の騒がしさに触れた眠りの膜が少しだけ薄くなり、現実の光が鳴古のまぶたの裏側まで届いてくる。
そして――。
ゆっくり、ゆっくり顔が上がっていく。
長く眠っていた小さな動物が目覚めるみたいな、慎重で柔らかな動きだった。
まぶたが重たそうに持ち上がり、その下からとろんとした瞳が現れた。
まるで水面から顔を出したばかりのように、まだ焦点が合わず、ゆらゆら揺れている。
鳴古は真白と目が合った瞬間、ぼんやりした声を漏らす。
「……ねむ……。今……どこ……?」
「授業終わるよ。あとちょっと」
「そっか……よかった……」
その返事には、まだ夢の匂いが残っていた。
声の端っこが緩くほどけていて、眠気がまだ鳴古の輪郭を包んでいるのがわかる。
真白は思わず笑ってしまう。
「ほんと、相変わらずだね、鳴古」
鳴古は欠伸をしながら、少し照れたように目をこする。
その仕草が完全に子どもみたいで、けれど真白にはそれすら心をくすぐる。
「なんか……座ってると眠くなるんだよね……」
「言い訳になってないよ」
でも、そんなやりとりすら懐かしくて。
二学期が始まったことを、言葉ではなく“こういう瞬間”で改めて実感する。
夏の終わりの光がふたりの机に落ちて、ゆっくり揺れるその景色を見ているだけで、
真白の胸には、ふわりと、今日いちばん小さくて大きな幸せが灯った。
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