二学期

四十九睡目 開始と睡眠と

 始業式の朝、学校の門をくぐると、むわっとした熱気とざわめきが混じった空気が押し寄せてきた。

 夏の名残を引きずった陽射しがアスファルトの匂いを立ち上らせ、制服の白が目にまぶしい。

 夏休み明け特有のテンションで生徒たちが談笑し、久しぶりの再会に声を弾ませている。


 真白は軽く息を整えて教室へ向かった。

 緊張ではない――けれど、“いつもの”場所に戻る前の、ほんの少しの揺らぎ。

 手に持つカバンの重さが、昨日までとは違う生活の始まりを告げていた。


 扉を開けると、教室はすでに騒がしく、あちこちから笑い声が飛び交っている。

 机や椅子の配置は変わっていないのに、夏休みを経た生徒たちの空気がどこか新鮮で、昨日までとは少し違って見える。


 「真白ー! 久しぶり!」

 いつものギャル三人衆が手を振ってくる。

 「ねえ、海行ったってマジ?」「写真見せてよ!」

 質問攻めに遭いながら、真白は曖昧に笑った。


 ――鳴古とのことは話していない。

 みんなで行ったと思ってる。

 それでいい。むしろそのほうがいい。


 胸の奥がそっと熱を帯びる。

 “二人だけの時間”がそこにあるのを意識しただけで、わずかに心がふわりと持ち上がる。


 真白が自分の席に腰を下ろした瞬間、廊下のざわめきの中に、聞き慣れた静かな足音が混じった。

 急ぐでもなく、遅れるでもなく、ゆっくりとしたペース。

 誰よりも静かなのに、なぜか真っ先に分かる足音。


 数秒あと、教室の扉が静かに開く。


 鳴古だった。


 金の髪を耳にかけながら、人だかりを避けるように教室へ入ってくる。

 夏より少しだけ伸びた前髪が、彼女の表情を柔らかく見せていた。

 光の角度が変わっただけで、こんなにも優しく見えるものなのかと、真白は一瞬目を奪われた。


 周囲の友達が「鳴古ー!」と声をかけても、彼女は短く頷くだけで席へ向かって歩いていく。

 控えめで、でも芯のあるその歩き方は、夏の終わりの午後のように静かであたたかい。


 鳴古が席に着く瞬間、真白と目が合った。


 ――ほんの、一秒。


 けれど、その一秒のあいだに胸の奥がすっと熱くなり、夏の海の光が一瞬よみがえる。

 砂浜の白、風の匂い、あの距離感。

 全部が、あの一秒の視線に凝縮されていた。


 鳴古は小さく、目の端だけで笑った。

 控えめで、けれど確かに「知ってるよ」と伝えるような微笑み。

 真白の内側にだけ響く、ひそやかな合図のようだった。


 真白も、同じように微笑み返す。

 声を出したわけでも、手を振ったわけでもない。

 ただ目が合って、ただ笑い合う――それだけなのに、誰にも気づかれない線が二人の間にすっと結ばれたように感じられた。


 教室は騒がしい。

 友達同士の再会で盛り上がって、夏休みの話を大声でしている。

 でも、その喧騒の真ん中で、二人だけの静かな気配が確かにあった。


 鳴古は席に座ったあと、おもむろに筆箱のチャックを開ける。

 中から取り出されたのは、青いシャープペン。

 ――昨日、一緒に整えていたとき、真白が「これ似合うよ」と言って手渡したもの。


 机に置かれたその小さな“印”を見るだけで、真白の胸の奥がじんわりと温かくなる。

 鳴古がそれを選んだという事実が、静かに心を満たしていく。


 気づいたのか、鳴古はほんの一瞬だけ真白へ視線を滑らせた。

 長い睫毛の影が、淡い光に揺れる。

 何も言わなくても、その瞬間に十分すぎるほど伝わる。


 “覚えてるよ”

 “ちゃんと持ってきたよ”

 そんな言葉と同じくらいの意味が、あの小さな視線に宿っていた。


 ――夏の非日常は終わった。

 でも、あの日の海も、帰り道も、勉強会も。

 全部、二人だけの秘密として胸の奥にしまわれている。


 日常に戻ったはずの教室で、それが確かに続いていることを、真白ははっきりと感じていた。


 「真白ー、聞いてる?」

 ギャル友の声で現実に引き戻され、真白は「ごめんごめん」と慌てて笑った。

 けれど、心のどこかは鳴古に向いたままだった。

 今日もきっと、視線を交わしたり、何気ない会話をしたり――そんな些細な積み重ねが、またひとつ増えるのだと、そう思うだけで胸がふわりとする。


 始業式のチャイムが鳴り、ざわざわしていた教室が徐々に静まりはじめる。

 窓から差し込む光が、鳴古の横顔に淡く触れた。

 頬のラインを沿うように光が走り、夏より少し大人びた影をつくる。


 その横顔を見つめながら、真白は昨日のことを思い出した。


 ――「……真白と一緒だから、全部楽しかった」


 あの声、あの距離。

 あのとき触れた指先のあたたかさ。

 指が触れた瞬間に驚いた鳴古の、小さな息づかいまで思い出せる。


 ぜんぶ胸の奥でまだ続いている。


 真白はゆっくりと息を吸った。

 教室の空気に混じって、昨日の部屋の匂いが一瞬だけよみがえる気がした。


 ――きっと、この秋も、冬も。

 二人だけの“何か”は、変わらないまま、そっと続いていくんだろう。


 チャイムが鳴り終わっても、二人の間にだけ、夏の余韻の匂いがほんのり残っていた。

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