三十二睡目 自習と睡眠と
放課後の自習室は、ひときわ静かだった。
広い空間に並んだ机はぽつぽつとしか埋まっていなくて、まるで海に小舟が浮かんでいるように孤立している。聞こえてくるのは、鉛筆の先が紙を擦る音や、控えめにページをめくる気配。時おり椅子が軋む音が響くだけで、そのたびに沈黙がより深まるようだった。
窓から射し込む夕陽が床を柔らかく染め、机の上にはオレンジ色の光が斜めに伸びていた。その色合いさえもどこか眠気を誘うようで、あたりは穏やかで、時間が少しだけ緩やかに流れているように思えた。
そんな中で、鳴古は机に突っ伏していた。
分厚いカーディガンに肩をすっぽりと包み込み、眼鏡を外してノートの端に置いたまま。頬を片腕に押しつけるようにして眠っていて、さらさらの髪がふわりと広がり、夕陽を受けて淡く光っている。
――また、寝ちゃったんだ。
私は少しだけ苦笑して、静かに隣の席に腰を下ろした。起こすのはなんだかもったいなくて。だから自分のノートを取り出し、今日の授業の板書を写し直しながら、ちらちらと横目で鳴古の方を見てしまう。
彼女のノートが開いたままになっていて、自然と目に入った。
最初の数行は整った文字が並んでいたのに、途中から線が揺れ出し、文字なのか模様なのかわからない跡が残っている。右へ左へ、へろへろと蛇行した黒い線。やがて文字の形すら保たなくなり、最後は殴り書きのようなぐちゃぐちゃの線で途切れていた。
「……ぷっ」
思わず声が漏れ、慌てて手で口を押さえた。笑っちゃいけないのに、どうしてもこらえきれない。授業中からいつも眠そうにしているけれど、まさかここまで力尽きて文字もぐにゃぐにゃにしてしまうなんて。予想通りといえばそうなんだけど、そんな姿すら可愛くて、胸の奥がじんわりと温かくなる。
――天才気質なのに、不器用で。だからこそ、こんなに可愛い。
そう思った瞬間、胸の鼓動が強く打った。
よく見ると、彼女の唇がわずかに動いていた。
「……ん、んむ……」
「……まだ……あったかい……」
か細い声が、寝息と混じってこぼれる。意味をなさない寝言なのに、どうしてだろう、宝物みたいに大切にしたくなってしまう。
「……おにぎり……うま……」
「……それ、わたしの……」
ふいに食べ物の名前が出てきて、思わず吹き出しそうになる。机に突っ伏したまま眉をひくつかせる鳴古は、夢の中で誰かと取り合いでもしているのだろうか。
「……だから、わたしの……だもん……」
「はいはい。あげるよ」
小さな声で返してみると、ほんの一瞬、鳴古の口元が緩んだように見えた。偶然かもしれないけれど、それだけで胸が甘く満たされる。
「……ましろ……やさしい……」
その名前が漏れた瞬間、呼吸が止まった。顔が熱くなるのを隠すように、慌てて視線をノートに落とす。くしゃくしゃに歪んだ落書きと、かすれた文字列。ページの上には彼女の眠気との戦いの痕跡が残っていた。
「ほんとに……しょうがないな」
あきれと愛おしさがないまぜになって、笑みがこぼれる。けれど、その頬はどこまでもやわらかかった。
私は知らず知らず、鉛筆を持つ手を止め、じっとその寝顔を見つめ続けていた。
長い睫毛が夕陽に縁取られて、頬に淡く影を落とす。眠っているせいで、いつもより少し幼く見える顔。普段は無表情に近くて、何を考えているのかわからないことも多いのに――こうして目を閉じている彼女は、驚くほど無防備だった。
「ふふっ……」
小さく笑みがこぼれる。自分でも驚くくらい、幸せそうな顔をしているのがわかった。
きっと、この時間が特別だから。教室でも、廊下でもなく。部活動の仲間たちがいる賑やかな場所でもなく。ただ、静かな放課後の自習室で、彼女と二人きりでいること。
窓の外では、夕焼けがゆっくりと深まっていく。茜色から橙色へ、やがて紫に滲んでいく。そんな空の変化を視界の端に収めながら、私は机に広げたノートに文字を走らせた。けれど、気がつけば視線はまた鳴古の方へ戻ってしまう。
机に投げ出された手の甲。そこに自分の指を重ねてしまいそうになり、慌てて鉛筆を握り直す。
心臓がばくばくして、ノートの上に書いた文字が震えていた。
――ずっと、こんなふうに隣にいられたらいいのに。
心の中でそう呟く。もちろん、声に出すことも、彼女に伝えることもできない。
ただ胸の奥にそっと沈めるだけ。
でも、眠っている鳴古の穏やかな呼吸は、まるでその願いを肯定してくれているようで。耳を澄ませば聞こえる規則的な寝息が、心臓の鼓動をやさしく包み込んでくれる気がした。
私はまた、微笑んでしまった。
やがて自習室の時計の針が静かに進み、放課後の残り時間を少しずつ削っていく。
けれど私にとっては、その一瞬一瞬が宝物だった。
――キーンコーンカーンコーン。
最終下校を告げるチャイムが鳴り響く。はっとして隣を見れば、鳴古はいまだに机に頬をくっつけたまま、ゆるゆると寝息を立てていた。
「……鳴古、起きて。もう帰らないと。」
肩をそっと揺さぶると、彼女はゆっくりまぶたを持ち上げて、ぼんやりとした目でこちらを見た。
「……んー……あと、五分……」
「だめ。もうチャイム鳴ったんだから。」
「んー……じゃあ三分……」
半分夢の中にいるような声。まるで子どもみたいな甘え方に、思わず頬が緩む。
「はいはい。三分もなし。帰るの。」
わざと強めにそう言って、鳴古の手を取る。温もりのこもったその手はまだ力なく、されるがまま私に引かれて立ち上がった。
「……ましろ先生、スパルタ……」
「はいはい、先生じゃありませんよ。」
「じゃあ……ましろ先生(仮)。」
「なにそれ?」
ぐだぐだとおふざけ混じりに言う鳴古。困ったような寝ぼけ顔と、どうでもいい冗談のひとつひとつが可笑しくて、胸がふわりと満たされる。
その幸福を抱きしめるように、私は彼女の手を引きながら、自習室を後にした。
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