三十三睡目 文具と睡眠と
その日の授業は珍しく午前で終わった。
夏休み前の特別時間割――というやつらしい。午後は職員会議があるからと、先生たちが生徒を早めに帰してくれるのだ。
普段なら教室でだらだらしたり、図書室に寄ったり、あるいは鳴古と一緒に保健室でのんびりしたり……そんな放課後になるのだけれど。今日はちょっと違う。
半日だけ早く終わったというだけなのに、胸がふわりと弾む。普段と違うリズムが、特別なことを起こしてくれるんじゃないか、なんて子どもじみた期待を抱いてしまう。
「……眠い。」
昇降口を出たところで、鳴古がぼそっとつぶやいた。
カーディガンのポケットに手を突っ込んで、半分閉じかけた目。まるで夢の続きを歩いているみたいな顔をしている。
「午前で終わったのに眠いの?」
「……午前で終わったから、眠い。」
「え、どういう理屈?」
「……授業、途中で切られると、逆に……眠い。」
ぽつぽつ落ちるような鳴古の言い分に、思わず笑いがこぼれる。
ほんとうに、どんな理屈なのかは分からない。けれど、彼女がそう言うならそうなんだろう、という気になってしまう。
相変わらず眠たげで、肩を落としたまま歩く姿。けれど、そんな彼女のぐだぐだな表情すら、私にはどこか愛おしく見えてしまうのだから困りものだ。
「ね、ちょうどいいからさ。前から行ってみたかった文房具屋さんがあるんだ。」
「……文房具?」
「うん。ほら、商店街のはずれにある小さいお店。文具堂って看板が出てる。」
「……聞いたこと、ある。古いやつ。」
「そうそう! おばあちゃんが一人でやってるお店なんだって。なんか、すごく素敵らしいんだよ」
実は、少し前からずっと気になっていた。
学校帰りにバス通りの奥に見える、小さな木の引き戸の店。何度も「今度寄ろう」と思いつつ、部活やら課題やらで後回しにしてしまっていたのだ。
「……真白が行きたいなら。」
「えっ、いいの? やった!」
それだけで一気に機嫌が良くなって、私は思わず歩調を早めてしまった。鳴古はあいかわらずのんびりと眠そうに、すこし後ろから私の背中を追いかけてくる。
商店街を抜けると、急に人通りが少なくなった。
夕方の光に照らされた石畳の道を進むと、目当てのお店が見えてくる。
「……ここ?」
「そう。文具堂。」
木の引き戸、色あせた暖簾。小さなガラス窓からは、棚に積まれたノートや便箋がちらりと見える。
大型のチェーン店とはまるで違う、時間がゆったり流れているような雰囲気だった。
「入ってみよ。」
戸をがらりと開けると、カラン、と小さな鈴の音が鳴った。
「いらっしゃい。」
奥から出てきたのは、小柄なおばあちゃんだった。
腰は少し曲がっているけれど、目元はにこにこと柔らかい。
「まあまあ、学生さんかい。珍しいねえ。」
「こんにちは。学校の帰りに寄ってみました。」
「そうかいそうかい。ゆっくり見ていきなさいな。」
店内はこぢんまりしていたが、壁いっぱいの棚にぎっしりとノートやペン、昔ながらの便箋や封筒が並んでいる。
新しいものばかりではなく、レトロな文具が混ざっているのが、なんとも魅力的だった。
「……いい匂い。」
鳴古がぽつりとつぶやいた。
確かに、紙とインクの香りが混じり合って、どこか懐かしい空気を作り出している。
「そうでしょう。古い紙はねえ、ほんのり甘い匂いがするのよ。」
おばあちゃんが笑って言った。
「若い子には珍しいかもしれないね。」
「へえ……ほんとに甘い匂いだ。」
私は胸いっぱいに空気を吸い込んだ。
なんだか、時間が少しだけ昔に巻き戻ったような気分になる。
「……真白、これ。」
鳴古が指差したのは、昔ながらの木軸ペンだった。
「使ったことないでしょ?」と、少し悪戯っぽく笑う。
「確かにないけど……鳴古、こういうの興味あるの?」
「……なんとなく。」
彼女はペンを手に取り、試し書き用の紙にさらさらと線を走らせた。
――一瞬でわかった。
彼女の字は、やっぱり綺麗だ。
普段、授業中に眠そうにしながら書くノートは、正直ぐちゃぐちゃだ。横線を無視した落書きみたいに見えることさえある。
けれど、こうして集中して書いた字は、驚くほど整っていて、流れるように美しかった。
「わ、すごい……鳴古って、ほんとは字がきれいなんだ。」
「……ほんとは?。」
「だって、ノートぐちゃぐちゃじゃん。」
「……眠いと、手が勝手に暴れる。」
「ふふっ、なにそれ。」
私は笑いながら、彼女の横顔を盗み見た。
試し書きに並んだ端正な文字。それを眺める鳴古のまぶたは、また少し下がりかけている。
「お嬢ちゃんたち、仲がいいねえ。」
おばあちゃんがにこにこと笑いかけてきた。
「カップルみたいだねぇ。」
「えっ、ち、違います!」
「……ちがいません。」と、鳴古が小さく追い打ちをかける。
「鳴古!?」
「……だって、からかわれた方が楽しい。」
「もうっ!」
顔が熱くなるのを必死でごまかしながら、私は別の棚へと逃げるように移動した。
背後でおばあちゃんが「仲睦まじいねえ。」と笑っている声が聞こえる。
そこで目に入ったのが、小さな花柄のメモ帳だった。
淡い色合いで、種類はピンク、水色、ラベンダー……。どれも可愛らしくて、思わず手を伸ばしてしまう。
「……真白、それ。」
「うん。かわいいよね。どの色がいいかな。」
「……真白は?」
またもや彼女に選択を委ねられて、胸がどきりと跳ねる。
迷った末に、私はラベンダー色を取った。
「じゃあ、私はこれにする。」
「……じゃあ、私は、同じの。」
同じ色を手に取った鳴古に、思わず目を丸くする。
「えっ、同じでいいの?」
「……うん。お揃い。」
その一言が、やけに胸に響いた。
おばあちゃんがにこにこと笑いながらレジに立つ。
「仲がいいねえ。ほんとにお似合いだよ。」
「ち、違いますから!」
「……ちがいません。」
「鳴古!」
私の抗議をよそに、鳴古は淡々とした顔のまま袋を受け取った。
店を出ると、夕方の光がちょうど差し込み、二冊のラベンダー色のメモ帳が紙袋の中で並んで揺れた。
「……一緒に使お。」
その小さな囁きに、心臓がまた大きく跳ねる。
ただの文房具のはずなのに。
どうしてこんなにも、大切な宝物に思えてしまうんだろう。
私は袋を胸に抱きしめるようにしながら、鳴古と並んで商店街を歩いた。
彼女の眠そうな横顔をちらりと見て――思わず、笑みがこぼれる。
半日だけの非日常。
ほんの小さな買い物。
それでも、私にとっては忘れられない時間になっていく予感がしていた。
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