いざない

 この四日間、藍以子が何を嫌がっていたのかわかった。

 利玖はミルクセーキみたいになった頭を抱えて歩く。白濁していて、もったりと動きが遅い。バニラのような、かすかに甘いフレーバは、本の選定が終わったと聞いた時の、藍以子の蕩けるような笑みから連想したものだ。


 思い返してみれば、

 なんだ、それでだったのか、と納得のいく事がいくつもある。

 腹は立たない。


 純粋ってなんだろう、と一瞬考えたものの、少なくとも、ミルクセーキと真逆の存在である事は確かだ。今の自分ではまともな答えが出せそうにない。

 きっと、この屋敷に呼ばれる事はもうない。

 そうか……。

 利玖は立ち止まった。

 そうなったら、杏平に礼を述べる機会もまた、失われてしまうのだ。

 自分と兄が帰る時、彼が見送りに来てくれるとは思えないし、利玖が教えてもらったメールアドレスは藍以子のものだけだ。

 今、離れに行って、直接伝えるしか方法はない。

 花筬喰の調査員は、白津透を残して全員引き揚げた。彼女は、駐車場に停めた社用車の中で夜を明かすと聞いている。

 儒艮の死骸も、もう庭にはない。どんなやり取りがされたのかは不明だが、ひとまず別の場所に移そう、という結論になったようだ。花筬喰の調査員が四人がかりでバンに運び込む所を、利玖も匠と一緒に見ていた。

 利玖はローズ・ピンクのカーペットの部屋に戻り、ペンとノートを持って、衣装部屋から庭に出た。会えなかった場合でも、せめて置き手紙だけは残しておこうと思ったのだ。

 いつの間にか風が止んでいる。

 雲は、軋むような遅さでしか動かない。

 自分を取り巻くすべてのものが、試すみたいに静まり返っていた。

 途中で、ひょっとしたら藍以子が二階から見ているのではないか、と思って振り返ったが、窓もカーテンもぴったりと閉じていた。

〈壺〉が見えてきた。

 儒艮は何度でも上がってくるだろう、という兄の言葉がふいに蘇る。本当に儒艮がいたら、どうしよう、襲い掛かられたりしないだろうか、と急に不安になった。こんなに近づいてから思い出すなんて、情けない話だが、今さら引き返す事も出来ない。

 半ば無意識に、チョーカーに付いた蛉籃石に触れながら進もうとして、利玖は眉をひそめた。似たような事を最近やったばかりだな、と思い出したのだ。

 芦月に魔除けの加工を施してもらってから、どうも、それを言い訳に爪先でボーダ・ラインを越えるような決断をする事が増えた気がする。しかし、蛉籃石は本来、ヒトがいてはならない異界において少しだけ身を守ってくれる程度の働きしかもたないもの。過信してはいけない。

 もっと他に当てに出来るものがないだろうか、と考える。

 例えば、兄は剣道の有段者だ。母も父も武道の心得がある。自分は、特に何か習った覚えはないが、三親等内に彼ら全員がいる。

 それなら……。

 いや、駄目か。

 そんな恵まれたポテンシャルにいながら何一つ習得出来ていないというのが、そもそも適性がない事の表れではないか、と思えてくる。

 結局、利玖は、今まで何度となくそうしてきたように、周囲の地面を観察して、足を取られそうな泥濘みや障害物がない事を確かめ、頭の中で数通りの逃走経路を計算した。瞬発力には自信がある。それが危険から逃れる為のものであればなおさらだ。

 仕上げに、念を入れて靴紐を結び直そうとしゃがみ込んだ時、名を呼ばれた。

 どこから呼ばれたのかわからなかった。

 辺りを見回したが、庭に人の気配はない。それなのに声だけがする。

「傘をささなくて良いのですか?」

 杏平の声だった。

 しかし、彼の姿はどこにもない。

 薄ら寒いものが肌をさすり、指先で蛉籃石を包み込んだ時、ふっと、山椒の匂いが強くなった。

 利玖は驚いて手を引っ込める。

「ああ……、貴女、良いものをお持ちですね」

「杏平さん?」利玖は、填め殺しの窓みたいに遠くて丸い月を見上げて、小声で訊く。「どこにいらっしゃるのですか? 山椒で、見通しがきかなくて……」

「ええ、むやみに入らない方が良い。山椒は存外、脆い植物です」

「わたし、カイコの話を、興味深いと思って聞く事が出来ました。杏平さんに指摘して頂いたおかげです」利玖は続ける。「あの、お仕事で忙しいのは重々承知しています。ですが、もう一度だけお話しできませんか? わたし、たぶん、朝になったらすぐにここを発って、もう二度とお邪魔しません」

「ありがとう。こちらから、お招きしようと思っていた所です。そんなに質の良い蛉籃石をお持ちなら、何も心配はない」

 ふと、後ろに誰かが立った気がして利玖は振り向いた。

 誰もいない。

 それなのに、肩を掴まれたような感触があって、利玖は震えた。

「目を閉じて」また、近くで声がする。「ひと筋、粘るような光が見えると思います」

 言われた通りに目を閉じる。

 視界が真っ暗になったのに、まだ、何かを見ているような感覚があった。ぶ厚いフィルムを被せられたような感じというのか、色も形も、定かにはわからないけれど、確かにそこに何かがある、存在しているという信号を受け取っている、そんな手応えがある。

 その中に、たった一つ、鮮烈な眩しさで尾を引く光があった。

「ええ、見えます……」利玖は呟く。

「流れているでしょう?」杏平の声が続ける。「それを、上流へ遡って歩いてください」

「でも、山椒を踏んでしまいます」彼女は、自分の周囲が山椒の木に囲まれている事を覚えていた。

「大丈夫。この家の主人である僕が言うんです。信じて進んでください」

 利玖は、おそるおそる体の向きを変える。

 光は、揺らめく緑色。それは、蛉籃石の色であり、人間にも儒艮にも煩わされずに伸び続ける山椒の葉の色でもある。

 光からも、山椒の香りがした。

 踏み出すと、足の下で、ぴちゃん、と水が撥ねるような音がした。

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