柘榴の香り

 目をつぶったまま、二歩ほど進んだ所で、手のひらに柔らかい風が当たった。深く考えずに、避けようとしたのだが、それは離れていくどころか、利玖の指の間を行ったり来たりして、だんだん凝固し始める。十歩も歩かないうちに、ゼリィのような質感になった。お中元で頂くフルーツ・ゼリィみたいな触り心地だ。ひんやりとして、少し後ろめたい。

 さらに進むと、瞼の向こうに光が射してくるのを感じた。足元にも、もう水はない。その時には、自分の手を取って導いているのが、若い女性ではないか、という事がなんとなくわかっていた。

 やがて、ぎゅっと一度利玖の指を握って、その手は離れていく。それに続けて、

「ようこそ」

と杏平の声がした。

「もう、目を開けて大丈夫です。どうぞこちらへ……」

 眩しさに慣れる為に、少し瞬きをしてから、利玖はゆっくりと目を開けた。

 広く、明るい和室の中にいた。足の裏は柔らかな青畳を踏んでいる。一体どこで靴を脱いだのだ、と考えるより先に、自分の前方、縁側に腰かけている男性の姿を見て、利玖は唖然とした。

「杏平さん?」

 思わずそう訊いてしまったのは、彼の印象が、これまでとあまりにも違っていたからだ。髪はきちんと刈り込まれ、若々しく精悍な印象の瞳がまっすぐに自分を見つめている。着ているものも、ぼろの浴衣ではなく、仕立ての良い青の着流しだった。

 杏平は、微笑んで立ち上がり、頷いた。

「藍以子と話を?」

「気づいていらっしゃったんですか?」利玖は驚く。「藍以子さん、ばれるのが嫌だからと、明かりをつけずにキャンドルの火でお話ししたのですが……」

「台所で?」

「はい」

「利玖さん。ちょっと、ここに立ってみてください」

 利玖は、招かれるままに杏平の傍らに行き、彼が指さす方を見た。

 母屋の中を、丸い光がゆっくりと動いている。台所から居間を通り、二階に続く階段を上っていく。そちらに入る事が出来るのは、今の所、藍以子一人だけである。

 建物の中で起きている事なのに、それを目で追う事が出来るのは、母屋の壁も柱も、輪郭だけを残して透きとおっているからだった。抜け殻のように無色で、今にも、ぱりんと音を立てて砕けてしまいそうに見える。

 空はもっと素っ気ない。

 雲も、星もない一面の白。だけど、よく見ると、真珠貝の内側みたいにゆるやかな隆起があり、そこかしこに虹色の光が滴のように溜まっている。

 ここは……。

 離れの中にいるのか、と利玖は気づく。

 庭に目をやると、山椒の代わりに、見た事もない幾何的な形の葉をつけたぺらぺらの植物が生えていた。高いものでも四メートルに届かないくらいだが、それらの根元にも草が生い茂り、地面を覆い尽くしている。一種類だけではない。ひょっとしたら、同じ造形のものは一つとしてないのではないか、と思うくらいの多様さだった。

 その植物達にも、光が宿っている。

 何種類もの星雲を綿のように纏わせて、天体の発光を促すレーザ・ビームを色んな角度から当てたような、多層的で、絶えず変化する煌めきだった。

「そこら中で光っているのは、それぞれ、別の生命体ですが……」杏平が母屋を指さしながら言う。「あの、一等強いものが藍以子です。光の具合で、大体の体調もわかる。離れていても……」

 そう、藍以子だ、と、彼は口の中でくり返す。

「藍を以て一から了」詠うように杏平は呟いた。「初めて会った時に、魅せられた。なんと美しく、そして、持ち主に相応しい名かと……」

「ここは……」利玖は声をひそめて訊く。「杏平さんが見ている夢の中ですか?」

「ええ」杏平は頷き、すぐに訊ねる。「恐ろしいですか?」

「美しいですね」利玖は、素直に答えた。「だけど……、怖い」彼女は、庭で揺れている草を指さす。「あの草も、そこに纏わり付いている光もすべて、わたしが知らない生きものなのでしょう?」

「部分的に、既に学名がついているものもいるでしょう。ですが、彼らは人間の為に存在しているのではない。半分は我々と同じ世界にいても、もう半分は別の世界に跨がって存在しているものもいる」

「ええ……」利玖は唇を噛む。「そんなの……、面白過ぎます。ずっといたら、時間を忘れてしまう」

「ここの時間が流れる早さは、外とは乖離しています。ある程度、僕の思い通りになる」杏平は再び縁側に腰かけて、隣を手で示した。「座ってください。貴女にお話したい事があるのです」

 利玖が縁側に座ると、背後で襖が開く音がした。

 ほっそりとした人影が近づいてきて、利玖の傍らに膝をつく。

 何となく、そうではないか、という気がしていたが、藍以子とまったく同じ顔をした女性だった。

 彼女は、無言で微笑むと、利玖の前に木の器を置く。中に入っているのは食べものではなかった。枝を短く切り落としたもので、先端に一つだけ、薄紅色の花がついている。筒の片側から、ぽん、と花弁が飛び出したような、変わった形だった。

「何も召し上がって頂く事が出来ないので、せめて、香りだけでも楽しんでください」そう話す杏平は、大福と湯呑みを受け取って、すでに茶を飲み始めている。「厳密に決まっている訳ではないので、まあ、そんなに気を遣わなくても良いのかもしれませんが……、何かあってからでは遅いのでね」

「異界のものを口にすると、元の世界へ帰れなくなってしまう、という伝承ですね。日本だと、もつぐいに代表されるような……」利玖は枝を手に取って、花の香りを吸い込んだ。「ものを食べて、美味しい、と感じる為には、嗅覚が必要ですからね。こんなやり方があると知っていたら、ペルセポネーも、一年の半分を冥界で過ごす必要はなかったかもしれません」

「ああ、わかりましたか……」杏平が目を丸くする。「こちらで穫れる果物で、柘榴に一番近いのが、それなんですよ。いや、味もなかなかのものでね、食べて頂けないのが残念です」

「藍以子さんは食べた事があるのですか?」

 杏平は首を振る。

 彼は、帯に挟んでいた印籠を取り出して利玖に見せた。紐の先に、蛙の根付がついている。片方の目がきらきらと輝いていて、よく見ると、透きとおった緑色の石が填まっていた。

「これ、蛉籃石ですか?」

「ええ」杏平は頷く。「貴女がお持ちのものとは違って、うちの先祖が貰い受けるのは、この程度が限界だったようですがね」

 杏平は再び印籠を帯に挟む。

「代々、当主のみが持つ事を許されるのです。快い夢を見せる能力と言いましたが、正確には、儒艮が作ったまぼろしの中に、現実の躰が眠っている間だけ招き入れてもらえるような仕組みなのかもしれない」

 利玖は、枝を置き、杏平に向き直った。

「まぼろしを通じて、儒艮が、早く助けてくれと訴えてくる事はないのですか?」

「さあ、見ていないな……」杏平の口ぶりは、嘘を言っているのかどうか、判別が難しかった。「見せようとしているかもしれないけれど、それよりも、美しい夢に浸っていたいという僕の思念が強すぎるのでしょうね」

 杏平は、利玖の方を見て微笑んだ。

「藍以子と同じ顔をした女性を見ても、驚かないのですね」

 利玖は、口を開きかけ、何と言っていいかわからずに頬を赤らめた。

「あの……、だって、咎められるような事ではないと思います」

「兄妹ですよ」

「そうなったのは、欣治さんと千紗さんのご都合です」自分の大胆な発言が信じられない、と思いながらも利玖は続ける。「無理やり、脅してやっている事でもないし……」

「勝手に姿を使っていても?」

「藍以子さんも、それが嫌ではないと思います」利玖は、それもぶつける事にした。「さっき、ようやくわかったのです。藍以子さんが負担に感じていたのは、庭に儒艮の死体がある事でも、その肉を食べる義務があるかもしれない、と思う事でもない。わたしや兄、白津さんといった部外者が、ずっと家にいるのが、耐え難かったのだと思います」

「ああ、それは、申し訳ない事をした」杏平は厳しい表情で言った。「どうも、僕がきちんとしつけなかったせいか、あの歳になっても子どもっぽい所がありましてね。お客人にそんな風に気を遣わせたのでは、失礼です」彼は深々と頭を下げる。「彼女に代わってお詫びします。ご不快な思いをさせて、申し訳ありませんでした」

「いえ、そんな……」利玖は、そこでふと気がつく。「あの、藍以子さんって、今、おいくつなのですか? 外でお仕事をされていると聞いたので、二十歳は超えていらっしゃると思ったのですが……」

「三十一ですよ」

 利玖は、ぽかんと口を開けたまま何も言えなくなった。

 そんな彼女をよそに、杏平は湯呑みの茶を飲み干すと、おもむろに立ち上がる。そして、やや前方の地面の一点を指さした。

「あれが見えますか? 繊維のように絡まり合っている、たくさんの光の筋ですが」

 利玖は、慌てて立ち上がる。杏平が指さしている所に目を凝らして、頷いた。

「何か、細いものが流れていますね。こちらから……」利玖は、最初に見ていた地点から、母屋に向かってすっと指を動かす。「あちらに向かって……」

「いわゆる、霊気というものの流れです。山の方から湧き出て、ここいら一帯にめぐっている。しかし、一方通行ではありません。植物の根が地中の養分を吸い上げるように、下流にあるものも、上流に影響を及ぼしうる。ただ……」

 杏平の指が、今度は母屋に近い場所を示した。

 光の網目が、そこだけ途切れている。風景自体も、他と馴染んでおらず、まぼろしの世界を織り上げたヴェールに虫食い穴でもあいたように、色の薄い地面が剥き出しになっていた。

「あそこだけは、霊気の流れと繋がっていない。たぶん、地質が違うのでしょう」

 杏平は静かに手を下ろした。

「藍以子の母親にも、これが見えていた。生まれつき、そういう目をしていたのでしょう。見えていたから、耐えられなかったのです。うちに来るには、植物を大事に思う気持ちが強過ぎた……」

 杏平は縁側に座り直して、一瞬、目を閉じる。

「彼女が儒艮を食べました」杏平は、明朗な口調で言った。「今から十五年前です。父が亡くなり、僕が井領家の当主となった。藍以子の母親が、〈壺〉の儒艮を殺し、肉を調理して、藍以子と一緒に食べる所を、僕はここで見ていました。藍以子は何も知らされていなかったと思います。僕も、そういう夢を見ているのだと思い込んでしまった。あまりにも現実離れした光景だったから……」

「どうして?」利玖はすぐにそう訊いた。「そんなの、絶対……、儒艮が見せてくれるような夢じゃないでしょう?」

「貴女に今、お見せしているこれは、とびきり美しい庭園ですが……」彼は、視線より少し上の空中を指さして言う。「そんなものばかり見ていても、納得のいく小説は書けませんよ。誰しもが悪夢と呼ぶような理解不能の幻覚にこそ、僕は、抗いがたい魅力を感じる。その辺りの事は、現実の縁側でもお話ししましたね」

 杏平はため息をつき、膝に手を置いた。

「どうも、眠っているのではない、とわかって……、台所で二人が倒れているのを見た時、初めて、何が起きたのかわかりました。食あたりかもしれないと言って、救急車を呼んだのは僕です。さすがに、それを静観する訳にはいきませんでしたから」

「千紗さんは、塚を造っていました」利玖はそれを教えた。「ずっと、先祖が犯した罪を償う為にそうしたのだと思っていたのですけれど、違ったのですね。自分の手で儒艮を殺し、解体して……、食べられなかった部位や骨は、まとめて塚に葬った。どの山椒にも影響を及ぼさない位置を見きわめて……」

「どこに塚が造られたか、藍以子も、じきに思い出すでしょう。彼女にとっては血の繋がった母親です。思考も読みやすい。時間がかかるようなら、僕が助け船を出せば良いのだから」

 杏平は利玖を見て、微笑んだ。

「藍以子は、精神的に未熟な所がありますから……。嫌な思いをさせてしまうかもしれませんが、それでもよければ、また遊びに来てください。貴女と話すのは、実に楽しい」

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