第19話
狩りの猛特訓の後、疲れて気絶するように寝るねねの隣で、彩も心地良い疲労感に、うつらうつらとしていた。
ねねは、黒猫の姿に戻っていて、腹を晒して、ぐでっと畳に潰れている。
ふと、懐かしい匂いが鼻をかすめて、彩はハッと顔をあげた。
ねねの傍に、影がある。自分が幼い頃、山の中で何度も見た、見覚えのある背中。
玄爺ちゃん、という言葉は、喉につっかえて出てこなかった。
「よくやったな、彩。」
玄の幽霊は、背を向けたまま、ねねの頬を撫でる。憎たらしい程に懐かしい声だった。
玄爺ちゃんと会った頃の記憶が浮かび上がってくる。
人を見る目も、第六感にも等しい嗅覚もまだ持っていなかったあの頃の彩は、玄の誘いに、ころっと引っかかった。
今思えば、本当に酷い人だった。彩の前で、山に侵入してきた人を殺して、これが狩りだと、さも当たり前のことのように言うし、楽しい遊びと称して、彩の性器に指を這わせてきた。
大人として、人として、やっていけないことを、平然とやってしまう人、それが玄爺ちゃんだった。
それでも、九尾への愛だけは、本物だった。
本当に愛していたから、死後の魂だって九尾に差し出しても構わないと本気で言っていたし、眷属になるのも抵抗が無かった。
九尾は、人間だった玄を愛していたが故に、玄を人として死なせたが、例え化物となっても、玄は九尾を変わらず愛していただろう。それほどの狂気が、玄にはあった。
だから、彩を九尾の為の道具として加工することにも躊躇いがなかった。
そんな玄爺ちゃんのいいなりになっていたのは、玄爺ちゃんが好きだったからでも、脅されていたからでもない。
それが、大好きなコンちゃんの為になると分かっていたからだった。
彩は、玄爺ちゃんを心の底からクズ野郎だと思っているが、一つだけ、尊敬できる所がある。
それが、九尾への愛の深さだった。
彩も九尾の事が大好きだけれど、玄爺ちゃんには負ける。
玄爺ちゃんが九尾に惚れたのは、まだ少年だった頃、町にいた余所者で怪しい奴を殺した時、沢山褒められたから、らしい。
その後、流れるように体の関係になって、九尾が自分以外にも手を出そうとしているのを知って、「こいつを俺だけの女にしたい」と思ったのだそうだ。神様相手にそんな事を思うなんてイカれてるが、それで実際に惚れさせちゃうのだから、やっぱりおかしい。
そんなおかしい玄爺ちゃんでも、九尾との子供を作ることはできなかった。そういう事ができる神様はいるにはいるらしいが、九尾はできない神様だったようだ。
正直、彩は、子供なんてできなくて良かったと思っている。きっと、九尾と玄爺ちゃんの間に生まれた子は、彩みたいに、九尾のための道具として加工されただろうから。
だから、玄爺ちゃんが死んで、ほっとしていたのに。
今更出てきて、ねねに何をするつもり?
「そんな睨まなくても、何もせんよ。つか、思ったより何もできなくてなぁ……」
玄は苦笑して、彩を横目で見やる。
「こうやって、お前の夢に出てくるのが精いっぱいだ。肝心の九尾には近づけすらできねぇ。
いやはや、死んじまうと、本当に何もできないもんだなあ。」
玄はカラカラと気楽に笑う。
「ま、こんな事ができるのも、これが最後だろうけどな。」
玄は再びねねを撫でる。
「こいつのお陰で、九尾は俺を吹っ切れたみたいだ。まあ、九尾の俺への未練もなくなったから、俺も留まれなくなっちまったが。」
玄は晴れ晴れとした顔で、天井を見上げる。
「これからも九尾の傍に居てやりたかったが……ま、九尾の為の最高傑作もできたし、九尾の一生の傷にはなったから、俺はそれで満足だな!」
玄はふと思い出したように、指を立てて彩に笑いかけた。
「ああそうそう、山の中に、俺の別荘があるだろ?あそこの畳の一枚、俺がよく布団を敷いていたあの畳だ。その畳の裏に、九尾の隠し神域の入り口をこっそり作ってある。九尾も知らないもう一つの入り口を、な。」
ニタリと笑う玄に、彩は背筋に鳥肌が立った。
「九尾しか入れない、もう一つの神域……九尾がこの山の本当の神から簒奪した、この山の本物の神域。
そこにはな、綺麗な泉がある。降霊術を教える前に、お前に飲ませた黒い飲み物の、その原液だ。」
彩の脳裏に、変な味の飲み物が頭を過ぎる。コーラだと言われて渡された、変な味の飲み物。
飲みきらなければ罰ゲームだなんて煽られたから、意地でも飲んだ、あれ。
「九尾が眷属を作る時に、あの泉の水を使うんだ。
まだ幼かった頃のお前には劇薬だったから、相当薄めたものを飲ませたが、眷属と何度も混ざり合った今のお前なら、大丈夫だろう。
言っておくが、このガキに俺の代わりは勤まらねぇ。こいつじゃ無理だ。俺の最高傑作のお前じゃなきゃ、な。
あとは、分かるな?」
濃い影が差した顔に、ニヤリと弧を描く目と耳元まで裂けたような口が浮かび上がって見えた。
恐ろしい程の静寂の中で、彩の心臓の鼓動が煩く鳴っている。
不意に辺りが赤く染まった。
玄の幽霊は何処にもなく、真っ赤な夕日が和室を照らしている。
でも、そこに残る匂いが、確かに玄がそこにいたという事を示していた。
彩は腰に手を当てて、鼻を鳴らした。
「まったく……死んでも玄爺ちゃんは何も変わらないなあ。」
彩は影のある笑みを浮かべた。
「あはは……玄爺ちゃんに煽られなくても、コンちゃんは、これから私が沢山愛するのに。
いいよ、やってあげる。玄爺ちゃんができなかった、眷属として一生コンちゃんの傍に居てあげる。
だから、もう玄爺ちゃんはコンちゃんに要らないよね?
面影も思い出も記憶も、心の傷も、これからゆ〜っくり時間をかけて、コンちゃんから消してあげるね。
バイバイ、玄爺ちゃん。」
匂いを上塗りするように、彩はねねを撫でた。
九尾と彩に甘やかされる幸せな夢を見ていたねねは、乱暴に引き戸を開ける荒々しい音に、甘い余韻を吹き飛ばされ、びっくりして目を開けた。
「彩、いるか!?」
ずかずかと入ってきたのは、おっかない表情の雄一だった。
ねねは彩の膝の上で寝ていたようで、彩は、猟銃を持つ臨戦態勢の雄一を怪訝そうに見ながら、身を強張らせるねねの背を撫でている。
「どうしたの、雄一おじちゃん?」
「そうか、ここに居たのか。」
雄一はほっと胸を撫でおろすと、再び険しい表情で言った。
「今すぐ家に帰れ。」
「え?なに、何があったの?」
「いいから言うことを聞け!!」
急に怒鳴る雄一に、彩は身をすくませた。
その怯えが手から伝わってきて、ねねは理由も告げずに理不尽に言うことを聞かせようとする雄一に、沸騰するような怒りを覚えた。
そうやって、力や恫喝で言うことを聞かせようとするやり方が、真希の父親を思い出させて、酷く不愉快だった。
ねねは、毛を逆立てて、雄一に威嚇した。怒りに呑まれたせいか、言葉が出てこない。
雄一も、自分に威嚇してくる、小生意気な九尾の眷属に、殺意が滲む程の形相で睨み返したが、ねねは雄一が怖いとは思わなかった。
そうやって睨み合っていると、雄一の背から、静かな、しかしよく聞こえる声が聞こえた。
「雄一、何をしておる。」
雄一は、額に青筋を浮かべたまま、振り返り、九尾に向かって押し殺すような声で述べた。
「彩を家に帰そうとしています。」
「必要ない。」
「必要ない?」
雄一の手に持つ猟銃が、ぎりぎりと音をたてる。
「万が一、ここが戦場になって、彩が巻き込まれたらどうするつもりだ!?彩はまだ子供なんだぞ!!」
激昂する雄一を、九尾は鼻で笑った。
「おぬしは彩を赤子かなにかだと思っておるのかえ?なにかあっても逃げる足ならあるじゃろ。」
「子供を守るのが大人の役目だろうが!!」
「貴様に何ができる?ただの人間の貴様に?」
「できるできないは関係ねぇ!例え命を捨ててでも、俺は、今度こそ彩を守らなきゃならねぇんだ!!」
雄一はそう叫ぶと、風のような身軽さで山を降りていった。
九尾は、溜息を吐いて、鼻先を地面に向けた。
「やれやれ……」
「ねえ、コンちゃん、何があったの?」
彩の問いに、九尾は目を細めた。
「カゲボウシが、海主の神域に招かれ、証を着けて帰ってきた。」
「証……?」
「海主が課した試練を突破した者に下賜される装飾品じゃ。
試練の難易度は、海主にどれだけ気に入られているかで変わる。
つまり、カゲボウシの奴は、海主の懐に上手く入ったか、もしくは、それだけの実力があるかじゃろうな。」
ねねは、九尾のその言葉を聞いて、だから?としか思えなかった。海主、という名前は、どっかで聞いた覚えがある。多分神様かなにかなんだろう。
神様に好かれたなら、良かったね、としか思えなかった。
ねねがちらりと上を見ると、彩の顔が曇るのが見えた。
「海主様の試練って、あの恐ろしい眷属達から逃げなくちゃならないんだよね……?カゲボウシさん、怪我してないかな……」
「大怪我でもしてくれれば良かったのじゃがな。大した怪我もなかったそうじゃ。」
「……コンちゃん?」
怪訝そうな彩の声。視線を感じて前を向くと、九尾がねねを見つめていた。緊張に張り詰めた目だった。
「カゲボウシが、ここに向かってきておる。
間違いなく、狙いは、おぬし……ねねじや。」
「え?私?」
ぽかんと口を開けるねねの頬を、九尾は尻尾でさらりと撫でた。
「海主は、おぬしを嫌っておる。今すぐにでも祟り殺されるか、分からないくらいにはな。」
「ええ!?なんで!?」
「奴の考える事など知らぬ。じゃが、海主の手先に成り下がったカゲボウシがここに来るなど、そうとしか思えん。」
カゲボウシを明確に敵対視する九尾に、彩が慌てて声をあげた。
「待って、コンちゃん!カゲボウシさんと話したけど、そんな人じゃなかったよ!?
むしろ、ねねに体を返したいって!」
「彩、それはおぬしを騙す為にカゲボウシが吐いた嘘じゃ。
死を前にした人間が、赤の他人の為に己の命を売るなど、そうそう有りえぬ。
奴は、海主に唆されたに違いない。体を自分のものにする為に、ねねを殺せとでも言われたのじゃろう。」
反論しようとする彩に背を向けて、九尾は言った。
「妾は、海主のご機嫌取りの為に、ねねを売るつもりはない。
二人とも、ここにおれ。おぬしらは、妾が守る。」
そう言うや、九尾も木立の闇の中に溶けるように消えてしまった。
彩は顔を真っ青にして、おろおろと手を泳がせた。
「どうしよう……カゲボウシさんは、そんな人じゃなかったのに……きっと、二人とも、勘違いしてるよ……」
暫く迷って、彩は唇を引き結んだ。
「私、二人にカゲボウシさんがそんな人じゃないって、言ってくる!」
「お姉ちゃん!?ま、待って!」
彩はねねを降ろすと、玄関に走っていく。
ねねは、必死にその背を追って、靴を履く彩の背に声をかけた。
「ねえ、ここで待っていようよ。母様の言ってる事が本当だったら、どうするの……?」
「だったら逃げるだけ。嘘を吐いてるかどうかは、匂いで分かるから大丈夫。」
彩が靴を履いて立ち上がった瞬間、遠くから、銃声が響いた。
「雄一おじちゃん!?」
彩は、咄嗟に降霊術を使った。指定がヒソムモノだったせいか、一番近くにいたねねが、吸い寄せられるように、彩と重なった。
それは、なんとも不思議な感覚だった。すぐ隣に、彩がいるような、彩の中にいるような、彩を包みこんでいるような、なんとも言葉にできない感覚。
ねねと重なった彩が、木々の影の中を凄まじい速さで駆けていく。影の中を駆けるその足取りは滑らかで無駄がなく、最も最短距離で目的地に辿り着ける影を、迷いなく選んでいる。その練度の高さに、ねねは舌を巻いた。
三十秒も経たずに、彩は山を降りた。だというのに、そこには、真希そっくりの顔をした女の子が、嫌そうな顔で、雄一に黒い銃を向けている所だった。
彩の想いがねねに触れる。雄一おじちゃんを助けなきゃ、でもねねを巻き込むわけには。
そんな一瞬の迷いの後に、ねねは心地良い彩から吐き出された。
「待って!撃たないで!」
彩がカゲボウシの前に飛び出す。カゲボウシは面食らった表情で、慌てて銃口を逸らした。
と、カゲボウシの視線が雄一から離れた隙を縫って、雄一が影に沈む。
「あ、あんにゃろう!」
彩を盾にしやがったと、怒りに毛を逆立てるねねの視線の先で、カゲボウシの背後から雄一が飛び出す。
その時、彩を心配していたカゲボウシの目に、目に見える程の殺意が宿った。間違いなく、その殺意は雄一に向かっていた。
ねねは、空中に猫パンチをしながら言った。
「よし、やっちゃえ!」
「駄目、雄一おじちゃん!」
彩の言葉に、カゲボウシの目が揺れる。その目が彩を捉えて、その彩の悲壮な表情を見て、殺意を霧散させたのが、ねねには分かった。
結果、雄一は殺されず、顎を打ち抜かれ、無様に地面に転がった。
ねねは、あーあ、と呟いた。あんな男、殺されれば良かったのに。
その後のやりとりを、木陰から、ねねはこっそり聞いていた。
カゲボウシ……影魅は彩の言う通り、良い人で、本気でねねに体を返そうと思っているようだった。返さなくてもいいのに、と呆れた。
影魅は、ねねが理想として夢見ていた大人のような、そんな人だった。例え自分の子ではなくとも、大人として、子供に救いの手を差し伸べる、そんな人。
恐ろしい海主の眷属が来た時、怯える彩の視界に入らぬよう、自然な振る舞いで彩の前に立つのを見た。
彩を逃がす為に、わざと発砲し、九尾と海主の眷属の話に割り入ったのを見た。
山に入って、獣を殺す度に、申し訳なさそうにその遺体を撫でるのを見た。
ねねの為と、強い覚悟で前を見るその横顔を見た。
そして、あの哀れな真希を想い、意味のない墓を掘る、悲しさが差すその背を見た。
こんな。
こんな人が、こんな格好良い人が、私のお父さんだったら、良かったのに。
影魅の涙の匂いを嗅ぎながら、染み入るような温かい手に撫でられて、ねねは、心の底からそう思った。
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