第8話

 とある一軒家に、刑事ドラマで見るような立ち入り禁止テープが貼られていた。

 彩は、猟師の雄一ゆういちおじちゃんに連れられて、その家……真希の実家を、暗い表情で見つめていた。

 山の兄弟九尾様の眷属にしこたま怒られ、猟師のおじちゃん達にも怒られ、気絶するように眠っていた彩を、朝早く蹴り起こしたのが、猟師の中で一番凄くて偉く、そして、九尾様を祀る祭司長である、雄一おじちゃんだった。


「うちの神さんがやらかしやがった。てめえも無関係じゃねえ。尻拭いに行くぞ。」


 山の兄弟のような鋭い眼差しで、彩を睨む雄一おじちゃんは、お腹がキュッとなるくらいに怖かった。

 山の兄弟の、黒猫ちゃん達が、その件は彩に責任はないと擁護してくれたけど、雄一おじちゃんはその訴えを無視して、彩を引きずるようにして山を降りた。

 この町の、中間区域と呼ばれている所に、真希の家はある。

 その家から、濃い血の匂いがした時、彩は思わず逃げ出したくなった。


 警察の人が、雄一おじちゃんにお辞儀してから、彩を見て、困惑顔になった。


「えっと、雄一さん?この子は?」

「次期祭司長だ。この件にも無関係じゃねえ。尻拭いをさせる。」

「そ、そんな、まだこんなに小さいのに!?流石に可哀想ですよ。」

「うるせえ。」


 警察の人の言葉なんてなんのその、雄一おじちゃんは乱暴な口調でそう吐き捨てる。

 もうちょっと言って欲しいけど、警察の人を責められない。雄一おじちゃんが怒ると、とても怖いのだ。

 そんな雄一おじちゃんは、何故か、彩を次の祭司長にする、なんて言う。他の猟師の人も、女性が祭司長になるなんて前代未聞だと雄一おじちゃんを窘めたけど、雄一おじちゃんの中ではそれは決定事項のようだった。

 ずかずかとテープの下をくぐって入り、彩に向かって顎をしゃくる。

 彩が泣きそうな顔で歩き出すと、警察の人が心配そうに彩に声をかけた。


「無理しなくてもいいんだよ?家の中は、その、とても酷い状態だから……」

「彩。さっさとしろ。」


 雄一おじちゃんの怖い声に、彩は早足でテープを潜る。

 雄一おじちゃんは、家の玄関をじっと見つめながら、彩に命令した。


「彩。降霊術を使え。降ろすのはカルモノだ。」


 彩は、渋々頷いた。

 本当は、こんなに人の血の匂いがする場所で山の兄弟を降ろしたくなかったけど、雄一おじちゃんに逆らうのは怖い。


 降霊術とは、猟師や祭司が使える、山の兄弟をこの身に降ろし、纏う術だ。

 彩は、この降霊術が、山の誰よりも得意だった。雄一おじちゃんのお父さん……今は死んじゃったげん爺ちゃんに、遊びとして教わった、彩の得意なものの一つだ。

 山の皆は、これを使うと、とてもへとへとになるという。彩にとって降霊術は、使えて当たり前のもので、特に疲れもしない。学校で授業を受ける方がよっぽどへとへとになる。


 彩が降霊術を使うと、頭に黒い犬耳がピョコンと生え、履いている短パンを貫通するようにして尻尾が生える。

 彩の体に宿った山の兄弟が、よう、お前も雄一に付き合わされて大変だな、と、軽く挨拶してきた。

 彩は嬉しくなって、尻尾を揺らす。山の兄弟と重なると、彩は自分が大きくなったような気がする。彼らがぴったりと寄り添ってくれるような、その温かい感覚が、彩は好きだった。

 彩の外見の変化を見ていた警察の人達がどよめいた。


「あれが……」


 彩は瞬き一つして、頭の中のスイッチを切り替える。今の彩は、ただの少女ではない。山の兄弟、狩る者だ。

 おとがいを上げて、鼻を利かせる。家から、濃い血の匂いするのを努めて無視して、玄関の周りを探った。

 すっ、と、視線を下げる。彩は、門戸の影を指した。


「あそこから、新しい匂いが始まってる。」


 雄一おじちゃんはさっと門戸の影の元に這い蹲ると、舐めるような目でそこを見つめる。

 彩も、雄一おじちゃんの隣で膝をついた。


「この匂いは……」


 彩は、目を瞬いた。知っている匂いだ。


「真希……?いや、違う……?」


 違和感に彩は首を傾げる。

 雄一おじちゃんは身を起こして、頷いた。


「いや、真希であってると思う。ここから、足跡が続いている。裸足の足跡だ。大きさからして子供だろう。

 まず間違いねぇ、カゲボウシの仕業だ。」

「でも、山の兄弟……ヒソムモノの匂いが混ざってる。」

「んだと?」


 雄一おじちゃんは怪訝そうに彩を見た。

 彩は、自分が分析したことを、一生懸命言葉にする。


「えっとね、ここ、ここの影から、猫ちゃんが出てきて、そしてここ、ここで人?の姿になった、のかな。」


 雄一おじちゃんは、一瞬だけ疑いの色を目に浮かべ、はっと目を瞬いた。慌てて身をかがめ、もう一度門戸を調べる。


「……馬鹿な。カゲボウシじゃねえってのか。」


 雄一おじちゃんは、険しい顔で、門戸の影をじっと見つめた。


「……確かに彩の言う通りだ。門戸の影から少し離れた場所で、何かがのたうったような跡がある。足跡も、ここから、猫のものから人のものになってる。

 これは、ヒソムモノだ。」


 雄一おじちゃんは、険しい顔で、彩に目を向けた。


「どいつか分かるか。」


 彩は暫く匂いを嗅ぐ。山の兄弟は全て知っている。でも、この匂いは、彩の知らない匂いだった。

 彩は首を振った。


「分からない。私の知らない兄弟だよ。コンちゃんの眷属じゃないのかな。」

「いや、九尾様の眷属で合ってる筈だ。そして、てめえが知らねぇんだったら、まず間違いなねぇ。」


 雄一おじちゃんは立ち上がり、服に付いた砂埃をはたき落とした。


「九尾様が新しい眷属を作った。これは、その眷属が起こした事件だ。

 そんで、それには真希……カゲボウシが関わっている。」


 やっぱりあの時殺しておけば。そんな小さな呟きを聞いて、彩は悲しくなった。

 その時、後ろの方から、潮の匂いが近付いてくるのを、彩の鼻が嗅ぎ取った。


「影魅様は無関係ですよ。」


 雄一おじちゃんは、剣呑な眼差しで、ゆっくりと振り返った。


「海主の巫女が何のようだ。え?」

「九尾の犬が見当違いな事を仰っていましたので、訂正しに来た次第です。」


 立ち入り禁止テープの外で、巫女のおばさんは、警察の人に微笑んだ。


「影魅様……昨夜カゲオロシで降ろされたカゲボウシは、先程まで、海主様の試練を受け、そして無事試練を達成いたしました。

 この事件が起きた時間帯は、影魅様が試練を受けていた時間です。ですので、彼女は無関係です。」


 きっぱりとそう言い張る巫女に、彩は先程から疑問に思っていた事を口にした。


「影魅って、誰?」


 彩がそう言うと、巫女は冷たい目で彩を見た。彩が遥の隣にいる時に、港区の人達が彩に向けてくる、強い敵意の視線だった。


「影魅様、です。あなた達が降ろした、カゲボウシですよ。」


 痛いほどに冷たい声で巫女はそう言う。仲良くできない事は悲しいけれど、港区の人達はいつも彩には冷たいから、もう慣れっこだった。


「そんな名前だったの?自分の名前、分からないって言ってたけど。」

「とても有難い事に、海主様から賜ったのです。」

「そっか……」


 彩は、にぱっと笑った。


「名前が無いままなんて不便だもんね。良かった!」


 それは、彩の本心から出た言葉だった。何時までもあの人だとか、カゲボウシだとか、そんな風に呼ばれるのは嫌だろう。

 九尾様がコンちゃん先生の時、力ある神様から名前を貰うのは、特別な意味があると言っていたが、詳しい事は忘れてしまった。彩は頭を使う授業は苦手なのだ。

 雄一おじちゃんが溜息を吐いて、巫女は毒気を抜かれたように一瞬呆けた。

 巫女は顔をしかめるのを失敗したような、なんとも言えない顔で、嘆息した。


「まあ、とにかく、影魅様が関わっていない事が分かって貰えれば、それで結構です。」


 巫女はそう言うと、逃げるように踵を返して、さっさと帰ってしまった。

 バイバイと手を振る彩の頭を、雄一おじちゃんが乱暴に撫でる。


「わふっ、どうしたの、雄一おじちゃん?」

「なんでもねーよ。」


 乱暴な口調の割には、その声は柔らかかった。

 彩が顔を上げる前に、雄一おじちゃんは既に背を向けていたから、彩は、雄一おじちゃんがどんな表情をしているのかが分からなかった。



 彩は、町の山裾で生まれた、至って普通の家柄の子供だった。

 しかし、その本人がまったく普通では無いことを思い知ったのが、良く思っていない父である玄の死後、祭司長になって九尾様と顔合わせした時だった。

 山の奥、神社を更に抜けた神域で、真っ黒な毛の九尾様のお腹に埋もれるようにして、腹を出して寝ていたのが、この彩だった。

 小学校に入る前から、玄の手ほどきで降霊術を習い、山の中で、眷属相手に遊んで貰っていたのだという。


 山は恐ろしい場所だ。本来は人が立ち入ってはならぬ場所、それが山。特に九尾様がおわすこの山は、冗談でもなんでもなく、異界と化している。

 猟師は全て九尾様の加護を受けた選ばれた者であり、山で狩りや採集をする時は、眷属様のお供が必須だった。

 それを、この娘は。彩は、大変難しく、使うだけで寿命を擦り減らすような降霊術を手遊びのように行使し、あげく、山の中で幼少の頃から遊んでいたのだ。

 血など繋がっていないのに、猟師たちは、彩を玄の娘だと言う。正直、雄一もそう思う。

 彩は、祭司の才能も、猟師の才能も備えた娘だった。そしてそれは、玄もそうだった。

 だから、猟師達の次に出る言葉が、彩が男であれば、だった。

 猟師は、男しかなってはならないという掟があるからだ。


 玄は、雄一が祭司長になる前の祭司長だった。そして、優秀な狩人でもあったのだ。玄は、眷属様のお供なしに山を歩く事のできる、優れた猟師だった。

 玄が祭司長を務めていた間は、九尾様に関する事で大きな問題が起きた事は一度も無かった。

 玄は、九尾様の意向を誘導できる、稀有な人材だった。


 そんな玄が、父が、雄一は嫌いだった。

 猟師としては尊敬している。祭司としても、良くもまあ、あの悪辣で恐ろしい九尾様を誘導できるものだと、認めてはいた。

 ただし、父親としては、何一つ認めていなかった。

 玄は、数多の女に手を出した屑だった。手を出しておきながら、父としての責任は一切取らない。

 母は、それでも玄を愛していたが、雄一は玄を憎んでいた。

 だから、最初は、そんな玄の面影を感じる彩から距離を置いていた。


 そうしていた事を、彩から目を離した事を、雄一は、一生後悔する事になった。


 彩の処女が散らされた。まだ、小学生にもなって間もない彩が、九尾様の魔の手にかかって。

 考えもしなかったことだった。幼子に手を出す、なんて思いつきすらしなかった。

 当たり前だ。普通の人間は、そんなことはしないのだから。


 九尾という神の、邪悪さを見誤っていたのだ。子供に手を出すなんて噂は、所詮噂だろうと、高を括っていた雄一は、自分の危機管理の甘さに後悔した。

 少なくとも、玄が祭司長だった頃は、そんな事は無かった。

 つまり、これは、雄一の力不足が招いた悲劇なのだ。玄の面影がある彩が苦手だったなどとほざく己の矮小さが招いた事実なのだ。

 血が出る程に唇を噛み締めながら、彩の両親に土下座し、謝った時の、あの罪悪感。そして、彩の両親が、相手が九尾様なら仕方がないと笑って許してくれた時の、あの無力感と、何もできなかった自分への激しい怒り。全て、手に取るように、今でも思い出せる。

 あの時誓ったのだ。今度こそ、彩を九尾様から守ると。


 しかし、雄一は無力だった。どれほど努力しようと、熱が出るほど頭を使っても、九尾様には敵わなかった。赤子の手を捻るように先を行かれ、何度も無力だと思い知らされた。

 当然だ。相手は何百年と生きる大妖にして、山一帯を支配する神なのだから。


 だからこそ、彩を早く立派な祭司にしなければならない。玄の面影がある彩ならば、雄一よりも相応しい祭司長になれる筈だ。そう、玄のように。

 そうすれば、自ずと、九尾様から自衛できるようになる筈だ。そう、玄のように。

 雄一にはできなくても、玄にはできたのだから。

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