蛇目家

 男と禄に会話もしないまま山の麓を歩き続け、眠気と疲労で意識が朦朧とする中、日の出と共に見えてきた町は、澪のまったく知らない土地であった。

 以前いた四ツ谷村とは異なり、随分と拓けた町だ。空気も澄んでおり、活気に溢れている。

 道行く人はみな小綺麗な格好をしており、継ぎ接ぎだらけの布を寄せ集めて繕った自分の着物が恥ずかしく思えた。


「おはようございます。白李様!」

「おはよう。今日の調子はどうだ?」

「かなりいいですよ! 時間があれば、ぜひ見ていってください! ……ところで、その後ろの娘はどうしたんです?」

「あぁ、少し訳アリでな。そのうち、紹介することになるかもしれない」

「そうですか。うちは大歓迎ですよ! 働き手はいくらあっても困りませんので」


 白李と呼ばれた男が歩けば、町民の顔にぱっと花が咲き、親しげに話しかけながら籠の中を見せてくる。

 どうやら彼は町民に人気らしく、ゆく先々で話しかけられていた。


「というか、その話し方、やめたらどうだい?」

「……そう言わないでくださいよ。これでも威厳を保とうと必死なんですから」

「無理無理! 昔っから坊のことは知ってんだから!」


 年を召した町民が男の背中を思い切り叩き、白李が苦虫を噛み潰したような顔で笑っている。

 見た目の冷たさと相反して、白李自身は大らかなら性格をしているらしく、人好きのする笑みを浮かべて町民たちと話していた。


「悪いが、話の続きはあとにしてくれ。また来るから」

「わかったよ、引き止めて悪かったな」


 その後も少し歩いては立ち止まり、牛歩の進みで町の奥へと向かっていく。

 たっぷりと時間をかけてたどり着いた先には、立派な門構えの御屋敷があった。

 先ほど通ってきた商店が並ぶ本通りの建物とはまるで違う。重厚な門扉の先にも石畳が続き、屋敷までだいぶ距離があった。


「ここが我が家だ。ようこそ、蛇目家へ」


 ようこそと言われても、驚きすぎて声がでない。

 浅葱家も、四ツ谷村の中ではそこそこ裕福な方だ。村では数軒しかない、薬師を営む家系である。

 だからこそ澪のような厄介者を抱えることができたわけだが、その浅葱家と比較することすら烏滸がましいほど目の前の屋敷は立派だった。


「うちは問屋でな。一族で経営しているから、使用人も抱えていて大所帯なんだ」


 白李が戻ってくるのに合わせたかのように、屋敷の中からわらわらと使用人たちが出てくる。

 皆揃いの召し物をしており、俗に言う洋服というものに身を包んでいた。


「おかえりなさいませ、白李様。そちらの女性が、例の選ばれた方ですか?」

「あぁ、そうだ。名を澪という。悪いが、あとのことは任せる」

「承知いたしました」


 ひとりの使用人が白李の前で深々と頭を下げたのち、澪に視線を移す。

 漆黒の目に、顎のあたりで切り揃えられた黒髪が印象的な女性だ。

 その使用人から頭のてっぺんから爪先まで値踏みするように見られ、澪はさっと左腕を背中側に隠した。


「僭越ながら、ここから先は私、平野ひらのが中までご案内いたします」


 わらわらと他の使用人たちも集まり、あっという間に屋敷の中へと連れ込まれる。

 屋敷の中も想像と違わず立派であったが、外観とは一風変わった造りになっていた。和洋入り乱れた室内装飾が施され、床には赤い絨毯、天井には吊り下げ式の照明があるかと思えば、廊下には大きな金魚鉢があり、まるで商店のようだ。


「内装が気になりますか?」


 どこへ向かって歩いてるのかわからない中、先を歩く使用人に尋ねられて、澪は素直に気になると告げる。

 すると、使用人は足を止めて澪の隣に立った。


「白李様から此処が問屋であることは聞かされていますか?」

「はい……。先ほど伺いました」

「では、話が早いですね。問屋である以上、様々な物がここには集まってくるのです。特に蛇目家の元当主は変わったものが趣味でして。渡来品には目がなく、いろんなものを収集しては飾っています。ちなみに、この洋服もいち早く採用され、使用人たちは皆同じものを支給されて着用しています」


 そう言って、平野が服の裾を持ち上げる。

 膝下まである黒いワンピースの上に重ねる形で、白いエプロンのようなものを重ねた服は、初めて見る形をしていた。


「とても動きやすそうですね」

「えぇ。着物と違って袖も長くありませんから。それと、蛇目家の人間と、そうでない者を見分けるためにも一役買っています」


 たくさんの人間が出入りするからこそ、見分けがつくようにするのは大事なことらしい。

 蛇目家に関する説明を聞きながら連れて行かれたのは風呂場で、澪は体を清めるように言われた。


「あの、本当にお湯を頂いていいんでしょうか……?」


 脱衣所でもじもじと着物の袂を合わせながら、外にいる平野に問いかける。

 浅葱家では、澪が湯に入れるのは月に二度ほどだった。

 澪が湯に浸かると、水が汚れると言われていたからだ。湯に浸かれたとしても、最後の最後で、ほとんど水同然になった湯に浸かっていた。

 だから、ほかほかと湯気が上がる風呂場を見て、澪は固まってしまった。


「むしろ、入って頂かなければ困ります」

「……そう、ですよね。すみません」


(私の体は穢れているもの)


 不潔なまま、屋敷の中を歩くわけにも行かない。

 澪は勧められるがまま風呂に入ると、少しでも手の痣が消えないかと必死に腕を擦った。

 こんなことをしても気休めにしかならないが、それでも擦らずにはいられない。

 そうして身を清め、用意されていた淡い桜色の着物に袖を通した澪は、新たに通された部屋で食事をとるように言われた。


「……あの、量を間違ってはいませんか? それか、誰か別の人のものとか……」

「いえ、間違っておりません」


 配膳された食事を見て、澪は一人分にしては多すぎると目を丸くする。

 浅葱家では、切れっ端しか口に入れられず、肉も魚も少量だった。ほぼ白米と汁物、僅かな香の物で胃を満たしていた澪にとって、この量は宴会終わりと同等である。

 宴会の日だけは余り物を食すことを許され、用意しすぎた煮物や焼き物を口にしていた。


「どうぞ、召し上がってください」

「では……。いただきます……」


 だだっ広い部屋で、ひとりだけ膳を前に手を合わせるのは滑稽であったが、昨日から夜通し歩いたこともあり、お腹は減っている。

 食べ始めたらあっという間で、次々と口の中に消えていった。それでも食べきれなかった分を申し訳なく思いながらも下げてもらう。

 食後のお茶まで頂いたところで、傍にいた平野に呼ばれた。


「では、白李様の元へ行きましょうか」

「……わかりました」


 ついにこのときが来たかと身構える。

 白李が人間を食べるようには思えないが、実は何かの暗喩なのかもしれない。

 このまま身ぐるみを剥がされ、臓器のひとつやふたつ、持っていかれることもあるかもしれないと、澪は思い付く限りの悪い想像をして、長い渡り廊下を歩いた。


「ここから先が白李様の住む屋敷です」

「ここから先が……?」


 本邸とはまた別に白李専用の屋敷があるらしい。渡り廊下で繋がっているものの、扉で仕切られていた。


「この先へはお一人でお進みください」

「えっ」

「私の案内はここまでです」


 屋敷に入ってからずっと傍にいた平野が下がっていく。

 澪は長い渡り廊下をひとりで進むと、扉の前でひといきついた。


(大丈夫、大丈夫よ、澪)


 ふぅと息を吐き、緊張で暴れだしそうな心臓を押さえる。

 室内の扉にしては重苦しすぎる扉は、蛇目神社にある本殿の扉と似た装飾をしていた。

 冷たくもざらつく木目の扉に、そっと手のひらを押し当てる。

 緊張感はあるものの、不思議と昨夜のような恐怖はなく、澪はゆっくりと扉を開いた。

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