第6章 死者の誓い

 ロンドンに、朝は来なかった。


 かつて“霧の都”と呼ばれた街は、今や永遠の夜に沈んでいる。

 空を覆う煤煙と、死者の群れが放つ悪臭が、空気を重くしていた。


 私はホームズの手帳を抱え、スミスと共に地下通路の封鎖区域に向かっていた。


 「彼はこの先にいる。……記憶が正しければ、旧市庁舎の地下階段だ」


 「お前は、どうするつもりだ?」

 スミスが問うた。


 「……確かめたい。彼が最後に何を“見た”のか。

 そして、もし彼が完全に変わっていたなら——その時は、私が引き金を引く」


 スミスは黙って頷いた。

 私たちは遮蔽物の影を移動しながら、地下階段の鉄扉を開けた。



 階段の奥には、奇妙な光が差していた。


 それは蝋燭でも電灯でもなく、緑がかった揺らめく“瘴気”のような光。

 私は鼻と口を布で覆い、慎重に足を進めた。


 そして、扉の奥に——彼がいた。


 壁際に立ち、こちらに背を向けたまま、何かを見つめている。


 「ホームズ……」


 私がそう呼ぶと、彼はゆっくりと振り返った。


 その顔は、すでに“人間”の輪郭を離れかけていた。

 肌は灰白色に乾き、頬は落ち、口元には血の痕。

 だがその眼だけは——まだ、私を見ていた。


 「来たか、ワトソン」


 その声は、かすかに揺れていた。


 「……間に合ったか?」


 彼は微かに笑った。

 「どうだろうな。意識はまだあるが、時間の感覚が曖昧だ。

 自分が誰なのか、毎秒忘れて、思い出してを繰り返している」


 「戻れ。まだ方法が——」


 「無理だ」

 ホームズは首を横に振った。


 「私はもうすぐ、“自分”を完全に失う。

 だから——その前に、約束を果たせ」


 「……やめろ」


 「ワトソン、頼む」


 私は震える手で、拳銃を構えた。


 「撃て。これが私の最後の推理だ。

 “人間であるうちに、友に殺されること”こそが、私の論理の終着点だ」


 引き金に指をかけた瞬間、彼の瞳が、ふっと揺らいだ。


 「……ありがとう、相棒」


 ——発砲音。


 煙の向こうで、彼の身体が崩れ落ちた。



 私は膝をつき、手帳を胸に抱きしめた。


 それはもう、推理の記録ではなかった。

 彼自身の命を言葉に変えた、最後の叫びだった。

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