第5章 記憶の鍵
私は引き金を——引けなかった。
かつて相棒だった男の顔が、まだそこにあった。
眼の奥に残る微かな理性。名を呼ぶときの、かすかな躊躇。
それらは、まだ彼が“完全な怪物”にはなっていない証だった。
「ワトソン……」
ホームズはそう呟いた。
その声は、低くかすれながらも、私の記憶にあるものと寸分違わなかった。
「……やはり、君は撃てなかったな」
私は、声も出せずに頷いた。
「私はまだ……私でいられるうちに、伝えておかねばならん」
彼はそう言って、上着の内ポケットから一冊のノートを取り出した。皮革製の表紙には、擦り切れた跡と、焼け焦げたような痕があった。
「これは、私が感染後、理性を保っていた間に記したものだ」
「……記憶の鍵、か」
「そう。私の過去と、推理と、意志のすべてが、ここにある。
もし、私が完全に変わってしまったとき……これを読め。
“私を撃てる理由”が、そこにあるはずだ」
私は震える手でそれを受け取った。
「……戻ってこい、ホームズ。まだ遅くはない」
その言葉に、彼はかすかに微笑した。
「その可能性も、確率には含めておこう」
そう言い残し、彼はフードを被り、闇の中へと姿を消した。
私たちはその夜、避難所の地下室へ戻った。
スミスもダニエルも無事だったが、誰も多くを語らなかった。
部屋の隅で灯りを灯し、私は手帳のページを開いた。
《記憶とは何か。意志とは何か。》
そこには、病に侵された後のホームズが、自らの変化を分析し、理性を保つ術を求め続けた記録が綴られていた。
自らの体が腐りゆくこと、思考の断絶が増えていくこと、言葉が失われていく過程を——冷静に、克明に記していた。
私はページをめくるたび、胸が締めつけられた。
その一文字一文字に、彼の声が、表情が、かつての“ホームズ”が宿っていた。
深夜。私はスミスとカレドン教授に内容を共有した。
「……つまり、彼は自ら“記憶の地雷”を残したというわけだな」
スミスが腕を組んで言う。
カレドン教授は沈思しながら言った。
「これだけ理性が残っているなら、完全に“変異”したわけではないわ。もしかしたら、治療の糸口になるかもしれない」
「いや」
私はゆっくりと首を振った。
「彼は、治療を求めていない。彼は、“変わる瞬間”を、私に見届けさせようとしている」
「なぜそんなことを?」
「彼は名探偵だった。
自らの終わりを——“最も信頼する相棒”に、見届けさせたかったんだ」
沈黙が訪れた。
地下室の灯りが揺れ、風もないはずの空間で、ページの端がふとめくれた。
そこに、ホームズの字でこう書かれていた。
《最期の推理は、私自身である》
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