心が残酷を願った

 二階に行き、言われた通り寝室に向かうと、母が寝ていた。

 ──いや、寝込んでいた。

 部屋に入った途端、大声で母のことを呼び、抱きしめたかったけど、やめた。

 毎日明るい笑顔で家族に話し、私たちの生活を支えてくれた母を、その姿から感じることはできない。

 すっかり弱っていて、今にもこっち側に来そうだ。


 だから代わりに、一言。


「お母さん、ごめん。色々大変だったよね。私のことは、心の隅に留めておいて、自由に生きていいんだよ」

 精一杯の、別れの言葉を。あの時はちゃんと言えなかったから。

 だが、父とは反応は違う。私のことに気づいていないみたいだ。


「今までありがとう。どうか、元気で──」


 突然、母が起き上がった。視線はこちらに向いていない。やっぱり前より顔が暗い。疲れ切っているようだ。

 そのまま無言で寝室を出る。置いて行かれないよう、私も付いて行く。

 一階に降りて、リビングへ。父が母に声をかける。

「おっ、おはよう。2日ぶりじゃないか。何か、いいことでもあったのか?」

 きっと私のことだろう。

「いいえ、違う、違うの……。ちょっと信じられない話だけど、聞いてくれる?」

「もちろん」

 雲行きが怪しい。

 父は母をソファに座るよう促す。母は座った後、深呼吸をしてこう続けた。


「ベッドで休んでいたら、あの子の気配を感じたのよ。」

「へえ、いいことじゃないか」

「でもよく考えて、今は五月よ。お盆までまだ当分先。こんな時期にあの子が帰ってくるなんて、おかしくない?」

「というと?」

「四十九日も過ぎた。紗代ちゃんも、もうここにはいない。それなのに帰ってくるということは……」

「この世に未練が山ほどある、ってことか」

「そうよ! 私たち、あの子に今まで、何ができたかしら。うまくいかないことだってあったわ。それでも、時間をかけていい家族関係にしていこう、って思ってた」

「それが、こんなに早く終わってしまうとは……誰だって想像できないさ。俺だって、今でもあの時の苦しみを思い出すよ」

「きっとあの子は、私たち以上につらくて、悔しかったのよ。でも、それじゃ……」


 母は顔を伏せて、すすり泣く。リビングに押し殺したような泣き声が広がる。

 父はそんな母の背中をなでる。

 しばらくして、少し落ち着いた母が、父から目線を離して会話を続ける。


「ねえ、そこに、いるんでしょ」

 違います。後ろです。

 多分母は父と違って、霊感とやらが強くないのだろう。

 このまま違う方向で話されても困るので、母の視線の先へ移動する。

「久しぶり、向こうで元気にしてた? あなたがいなくなってから、お母さん、なんだか疲れちゃって。変わっちゃった、よね。幻滅しちゃった?」

 そんなことないよ! 変わらず、私の大好きな母さんだよ。

 何故か母は立ち上がった。キッチンへ向かう。

「今は天国で過ごしているのかしら。どんなところなんだろうね」

 天国……あれ、どんなところだっけ?

「あっ、そういえば、さっきの話聞いてた? もう、四十九日は過ぎたのよ。私たちも、あなたも、そろそろ前に進む必要があるんじゃないかって。そう思わない?」

「おい、何するんだ?」

 父が疑問を呈す。それもそのはず、母の手には──食塩を入れたケースがあった。


「帰ってきてくれて、嬉しいわ。でも、お願い。成仏して」


 私が一番恐れていたことが起こってしまった。

 母はケースの中にある塩を、私に向かって投げつけた。私は幽霊だ。ご存じの通り、お清めの効果がある塩は、天敵である。

 塩があたった体が、焼けるように痛い!

 やめて、母さん! 熱い! 痛いよ!

 そんな声は母には届かない。

 父が必死になって母を止めているのが、視界の端に見える。

 一心不乱に塩をまく母と、それを止める父。そして、見えない火傷を負いながら伝わらない抵抗をする私と、リビングは見るに堪えない場となってしまった。



 ケースの中の塩が無くなったようだ。母はぐったりと床に座り込み、また泣いてしまった。父が「すまない」と言いたげな表情で、こちらを見ている。


 両親は私に、多くは語らなかった。でも、多分、これから新たな一歩を踏み出そうと、決心していたのだろう。それを私が邪魔した。私の存在が足枷になったんだ。


 私はこの家にいるのが耐えられなくなって、逃げるように家から出た──。




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