第2話 墓所

 岩肌の断崖を滑り落ちながらも、まだ俺はこの世に未練があるらしい。

 擦り切れてゆく革手袋の指で、必死で手掛かりを探していた。岩に擦れた鎖帷子が千切れ、爪の剥がれかけた右手が、ようやく何かを掴む。ガクンと落下速度が緩み、軋みを立てて大量の砂粒が剥がれ落ちる。左手も伸ばし、両手でしっかりと握りしめた。

 一瞬、撓むような反動の後、ようやく落下が止まった。

 土の中に張った、木の根っこか……。

 両手で握りしめた物に安堵しながら、同時に途方に暮れた。

 落下は止まったが、状況は何も変わらないのと同じだ。上を見上げても崖は遠すぎて見えず、下を見下ろしても谷底なんて見えない。闇の中で、宙ぶらりんに取り残されたといって、何が変わるというのだろう?

 切り裂かれた太腿の出血が止まらない。

 自分のポーチから、回復薬を取り出して飲む。傷が塞がるのと、失血で気を失うのはどっちが先だ? 全く、さっきからこんな状況ばかりだ。いっそ、この手を離せば楽になれるのか……。

 出血が止まった頃、上から光の玉が降ってきた。

 たいまつか……。ミノタウロスの討伐隊が、処理を済ませたのだろう。崖の上の通路の惨状を思い出す。

 無傷で暴れるミノタウロス。砕けた盾に派手な血の跡……。誰もが深手を負って崖の下に落ちたと思うだろう。呼びかかる声さえ、聞こえない深さにいるらしい。どこかに死体が引っ掛かっていないか、確かめたのだろう。もう一本、火の点いたたいまつが落ちてきた。


「絶望的だな、こりゃあ……」


 声すら聞こえない深さでは、ぶら下がっているカーデュが見えるはずも無い。

 落ちてゆく小さな灯りを見送り、溜め息を吐く。……ん? 今、岩棚が見えなかったか?

 左側の大分下がった所に、岩棚の影が見えた気がする。もう一本だけ、たいまつを落としてくれたら、確かめられるのに。

 俺を探してくれているのか、少しは慣れた所にたいまつが落ちる。

 あそこか……。届くか?

 根っこを軋ませながら、揺らす。切れちまわないことを願いながら、少しづつ、大きく振り子のように。

 また離れた所を落ちてゆく、たいまつの薄明かりを頼りに飛び上がる。

 最後は、岩を蹴るようにして飛びつく。


「くそぉ……」


 自分の悪運を罵りつつ、その怒りを力に替えてよじ登った。

 シングルのベッドくらいの広さはある。仰向けに倒れ込んで、水袋の水でカラカラの喉を潤した。


「ここも洞窟か……」


 暗くて入り口しか見えないが、岩棚の幅で洞窟が口を開けている。中から異音や、唸り声がしないなら、しばらくは大丈夫だろう。

 人心地ついてから、干し肉を囓っておこう。

 相当下まで来ているが、敵を避けつつ、有力パーティと合流できれば、生きて帰れる可能性があるか。……ほとんど皆無に近い確率だとは思うけど、ゼロじゃ無い。

 ランタンは割れちまったが、適当な布に油を垂らして火口箱で火を着ける。燃えた布を洞窟らしい闇の中へ放り投げた。

 狭い岩室だ。正面に古びた木造の扉がある。それよりも、中央に置かれたチェストに目を剥いた。二十年かけて地下一階がせいぜいの俺が、宝箱なんて物に出会えるはずも無い。慌てて駆け寄る。

 罠を見抜く技能は無いが、ここで見逃す手は無いだろう。

 強引に開くと、幸いにも罠は無かった。

 中にあったのは、一振りのショートソードだ。ショートソード……だよな?

 黒漆塗りの鞘は高級そうだが、やけに刀身が細く、反りが入っているように見える。初めて見るタイプの剣だ。抜いてみると、刀身は濡れたような輝きを放った。片刃の片手剣か。柄が長いから両手持ちも出来そうだ。

 軽く振ってみる。異形の剣は、驚くほどに手に馴染んだ。


「こいつは……斬るタイプの剣か?」


 使いやすい。身体の方が、この剣の扱い方を知っているかのように、自然に振れる。気のせいなどでは無い。素振りする風切り音からも、鋭さが増してゆくのが自覚できるのだから。

 身軽な方が動きが良くなる、か。ボロボロの鎖帷子を脱ぎ、手指の微妙な感覚が欲しくて、厚手の革手袋も外す。守りが薄くなりすぎるが、この方が鋭い動きができるのではないか?

 所詮、真鍮タグレベルの冒険者の話だが……。

 意を決して、奥の扉の前に立つ。もう一度油を染みこませた布に火を着けて、ドアを蹴破って放り込んだ。

 カビ臭い匂いに、顔を顰める。石積みの玄室だが、かなり広い。嫌な予感は、床が無く土が剥き出しであること。……案の定、土の中から腕が突き出してくる。


「アンデッドの墓所かよ!」


 奥まで走り抜けようとしたが、土まみれの死体が立ち塞がった。肉が残っている分、刃物が通用するのは助かる。

 燃やしちまえば楽だが、アンデッドは確か、手足や首を斬っても駄目だったはず。本体である脳を潰すなりしないと、すぐに復活してきて手間がかかるだけだ。出来るかどうかは別として、こめかみの高さで頭をスライスしてやれば一撃で済む。

 イメージ通りに剣を振り抜けば、アンデッドの頭は見事にスライスされて、どろりとした血が刃先から糸を引いた。

 嘘だろう? バスタードソードは、いくら修練を積んでもモノにならなかったのに。この剣は、両手持ちして刃がブレないように安定させて振り抜いた方が良い。そんな事まで、解ってしまう。

 これが、技能が上がるということなのか? 今までの苦労は、何だったんだ……。

 剣が違ったのか? 俺の技能は、どうやらこの異形の剣のために有ったものらしい。あと……九か、十か。燃え尽きかけている火の弱い灯りでも、剣を振り抜くべき時が見える。そしてその通り、帽子のようにアンデッドの頭部を切り飛ばす。二つ目。

 防具を全て外していることなど、気にならない。炎が燃え尽き、灯りを失っても気配でわかる。

 ……本当か? 自分が一番信じられないんだが。

 痛てっ! 中途半端に目で確かめようとしたら、後ろから肩口を爪で引き裂かれた。

 信じられねえのに、自分の眼を頼るな。剣が与えてくれるこの感覚を信じろよ。

 ほら見ろ、振り向きざまに振るった剣が、まだ一つアンデッドを葬る。一体屠る度に、感覚が鋭く、太刀筋が安定していく。

 二十年間、欲しくて、得られなかった感覚だ。自分が解き放たれていく感覚に酔い、ただひたすらアンデッドの攻撃を避け、剣を振るう。

 この突き抜ける喜びを、歓喜というのだろう。

 もう動く物が無くなっても、まだ身体にもどかしさが残っている。単身でアンデッド十二体を倒すなど、俺からすれば大戦果のはずなのに。まだ、こうではないという、この剣を使いこなし切れていないという感覚。

 シャツの袖を破き、水をかけて剣の刃先からアンデッドの血を拭っておく。これだけ薄い刃先なら、錆や腐食にも気を遣うべきだろう。

 一息つくと、左肩の傷が疼いた。

 いけねえ……。アンデッドにやられた傷は、軽くても思わぬ病気を招くことがある。左肩の熱さに、悪い予感しかしない。神官でもいりゃあ、浄化しながら治してくれるのだが。そんなに信心深くはない。とりあえず、治療薬でも飲んでおくか。気休めくらいにはなる。

 バックパックを探ろうとしたら、とんと何かが腰を小突いた。

 見慣れぬポーチ。……ああ、あのアルマという神官の少女が逃げる前に括り付けてくれた物だ。

 俺の悪運も、まだ捨てた物じゃない。ポーチの口を開くと、淡く清廉な光が溢れた。光の源は二本のガラス瓶。恐らくは、彼女のお手製のポーションなのだろう。聖水から作る神殿系のポーションは、浄化の効果もある。

 半分を傷口にかけると、ジュウッと沸騰するような音がして泡立ち、激痛が走る。助かった……残りは飲み干す。

 アンデッドの復活はないだろうな……。

 先に進む扉に凭れ、傷が塞がるのを待つ。


(あの剣の使い方……一体どこが足りないのだろう?)


 戦闘を思い出しながら、考えを巡らせていた俺は、いつの間にか眠っていた。

 ずっと暗闇の中で時間感覚は無くなっているが、目覚めた時には充分に疲れが抜けていた。アルマのポーチに入っていたナッツを囓り、自分の干し肉も食う。腹ごしらえをしたら、玄室の隅で用を足しておく。眠れる時に眠り、食える時に食い、出せる時には出す。

 戻ったところで、断崖絶壁。とにかく先に進むしかない。治療薬や、水が残っている内に……。

 どんと、扉を蹴り開ける。

 玄室に躍り込んだ途端、四方の壁に灯りが点った。

 ギルドの酒場くらいの広さか。床は異常なくらいに磨かれた板張りだ。奥には、先へ進む扉が見える。

 駆け抜けようと仕掛けた所で、殺気が俺の足を竦ませた。

 そいつ・・・は、こちらに背を向け、玄室の中央で膝を揃えて床の上に座っていたのだ。

 ゆらりと立ち上がったそいつは、煤けたガウンのような物を帯で止めた、妙な風体をしている。その腰にある剣は、俺の持っている異形のショートソードと同じような剣装がなされた鞘に収まっていた。振り向くと、半ば白骨化した顔の暗い眼窩が、やはり俺の持つ剣を見ていた。

 腕を突き出しながら、嗄れた声で言う。


「その脇差し『地龍』と、我が大太刀『天龍』は二本で一つの対になる存在……。その剣を返せ……」

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