*


 ――シユはピクニックの時に、自分の裸を描かれたことがトラウマになってるんでしょう? だったら、同じことをしてみたらいいんじゃないのかな?

 ――違う違う。もう一回、モデルになるんじゃなくて、その逆よ。誰かをモデルにして、同じような絵を描いてみるの。人物画は苦手? 苦手なだけで、嫌いってわけじゃないんでしょ。だったら、この際、克服するくらいのつもりでやってみたらいいんじゃない。

 ――それでトラウマを克服できるかって? わからないけれど、とりあえずやってみてから考えてみても遅くないんじゃない。もちろん、シユが嫌じゃなきゃって話だけど。

 ――上手くいかなかったら? その時は、友だちとして慰めてあげるよ。


 /


「これで、いい?」

 ほんの少しだけ恥ずかしげに頬を赤らめる氏犬に、紫柚は、うんありがとう、と労いの言葉をかけてから、目の前を見据える。小川を背景にして裸体になった幼い男の子。やや彫の深い顔立ちは、まだ見ぬ腹違いの弟の母親の顔立ちを想像させた。

 視線を下げて、まだまだ未成熟な小さな体を嘗め回す。細く短い腕。うすべったい胸と乳首。少しだけ膨らんだ腹と小さくへこんだ臍。きもち短く感じられる両足とその間にちょこっと存在を主張する皮の被った性器。

 知識としては知っていたし、美術の資料でかたちは知っていたものの、実際に目視してみれば、強烈な生の存在感が押し寄せてくる。とりわけ、それが半分とはいえ血を分けた弟ともなれば尚のことだった。

「ねえ、お姉ちゃん」

「なに?」

 突然の問いかけに、びくりとする。ともすれば、蔑まれるかもしれない、という恐怖がひしひしと迫ってきた。これと同じような行為をした兄相手に、自らが現在抱いている感情を思えば、自然と不安が湧きあがる。

「あとで、かわであそんでもいい?」

 きょう、すっごくあっついから。そう付け加える、弟の言葉に、ほっと胸を撫で下ろす。

「いいよ、なんなら今からでも……」

「あとにしよ。だって、おねえちゃんの絵、はやくみたいから」

 なんの躊躇いもなく発せられた言の葉。そこに小さくない恐怖をおぼえつつも、そっか、と平静を装う。

「でも、お腹が空いたり、遊びたくなったらすぐに言ってね」

「うん、ありがと」

 礼を言った弟は、草原の上にぺたりと座りこむ。

「ちょっとちくちくするね」

 笑う氏犬に、ごめんねと謝ってから、スケッチブックをかまえて、自らも腰を下ろす。

「とりあえず、楽にしててくれればいいから」

「だいじょうぶ」

 じっとしてるのはなれてるから。告げる弟の言葉が引っかかりつつも、紫柚は、目を細める。何しろ、何年ぶりかわからない人物画だった。授業や部活の課題で、似顔絵くらいはやったおぼえがあるが、極力避けてきた分野であり、今向かい合う時点でも少なからぬ抵抗がある。

 しかしながら、木陰の下、小川の前の草原に座りこむ幼い男の子の体。夏特有の蒸し暑さのせいか、全体的に上気しているものの、遠目からみても綺麗な白を感じさせる肌だった。その中で、紫柚の方に向けられている、右肩の大きな黒子が、際立っていて、惹きつけられる。

 子供そのものであるはずの男の子は、一言も口にせずにじっとしていた。先程までしきりに遊びたがっていたのが噓みたいに息遣いすら感じさせない。かえってそこかしこから響く蝉や鳥の鳴き声の方がよりうるさい気がしていた。

 手早く輪郭とっていく。久々に取り組んだとは思えないほど、するすると鉛筆が動いた。

 この手応えの無さは、逆に何の引っかかりもない絵が生まれてしまうのではないか? そんな不安に駆られ、何度も紙の上に描かれたものと、実際の男の子を見比べて確認するものの、驚くほど上手い具合に進んでおり、どころかかつてないほどに理想の絵に近い気すらしていた。キャンバスに映して、色も乗せていない段階であるにもかかわらず、いいものができる、という確信にも近い興奮が胸の中を駆け巡っていた。

 いままで私がやってきたことはなんだったんだろう? これまでの自らのしてきたことに対する疑問が頭の片隅を過ぎったが、すぐに吸いつくようして紙の上を走る鉛筆の気持ちよさに夢中になっていき……


 程なくして、背景も含めて下書きが終わる。

 会心の出来だ。まだ本番に取り組んでいないにもかかわらず、紫柚の頬は弛む。この調子で仕上げもしたい。そう思い、息を吐きだした。

「ありがとう、ジェイ君。もう、動いてもいいよ」

 短くない時間、同じ格好をしてくれていた氏犬に労いの声をかける。

 後はお昼ご飯でも食べて、ちょっと水遊びをして帰ってから続きをやろう。頭の中でこれからのことに算段をつけつつ、スケッチブックをしまおうとした。

「いいの?」

 不意に、弟が不思議そうな様子で尋ねてくる。紫柚はよくわからないまま、なんのこと、と聞き返す。

「さいごまで、かかなくていいの?」

 終わったよ、と応じると、氏犬は首を横に振った。

「まだ、いろもぬってないし、しあげもしてないでしょ」

 ここにきて、紫柚は弟の言わんとしていることを理解する。

「屋外……外でやれることは終わったと思ってるんだけど」

「でも、きゃんばすもえのぐもぱれっとも、そのほかに、えにひつようなものはここにあるんでしょ?」

 よく見ている。氏犬の指摘に舌を巻く。たしかに、念のためにと鞄の中には画材一式を持ってきてはいる。紫柚自身は屋内制作が多いのもあって、あまり外で塗りまで済ませたりはしないのだが、もしかしたら、と備えだけはしていた。もっとも、積極的に太陽の真下で描くつもりはなかったのだが。

「でも、ジェイ君も疲れたでしょ。とりあえず、お昼ご飯を済ましてからでも」

「いま、かいたほうがいいとおもう」

 仕切り直そうという姉の意見は、弟の一言をもって両断される。

 こんなに頑な子だったっけ? 戸惑う紫柚の前で、男の子は力強く微笑む。

「いい絵、かけてるんでしょ? だったら、さいごまでやって。ぼくもみたい」

 ご飯はその後でいい。言い切る弟。子供らしさの欠片もないわがままは、それでいて、姉の心をも揺さぶる。

 たしかに、いけそうな気がする。ただでさえ、いつになく調子がいいのだから、この波を逃す手はない、と。

「わかったよ。けど……」

「むりはしない、だよね」

「よろしい」

 言い切りつつ、鞄に詰めていたイーゼルを組み立てはじめる。こうなったら、とことんまでやってやろう、と腹をくくった。


 この後、紫柚はただただ、がむしゃらに手を動かした。

 スケッチブックを参考にして、キャンバスに下書きを移し変え、絵の具を乗せていく。背後の森の濃い緑。その後ろにある小川の透きとおった質感。草原の薄緑色。そして、絵の真ん中に鎮座する白く輝く男の子の肌。ほとんど逡巡もなく、色を練り、置けている満足と、ある種の全能感。その間も、引き続き座ってくれている男の子を眺める。

 まるで、一つの静物として座りこんでいるように思える男の子。やや彫の深いその顔は、薄っすらと笑っているようにも、つまらなそうにも見える。なんともいえない按配の表情をした弟と、時折、目が合った。その際も、男の子はまったく動じず、一遍の感情の揺らぎも見せない。

 そうしていると、逆に紫柚自身が眺められているような錯覚に陥りそうになる。一見すれば薄い感情しか浮かんでいないはずなのにもかかわらず、どうしてだか、こちらをピン止めするような視線にも思えた。

 違う。私の方が、ジェイ君を物扱いしてるんだ。自らに言い聞かせても胸の内は落ち着くことなく、ただただ少年の視線に縫い止められてしまっている自身を認める。

 そして、不思議なことに不快感はない。この心地自体は兄に描かれた時と同じはずなのに。

 いや、そもそもだ。紫柚の頭にとある思考がかすめる。

 そもそも、私があの時抱いた感情は、本当に不快さや気持ち悪さだったんだろうか?

 生活で身につけた倫理観からすれば、考えるまでもない。だが、考えや感じ方と、世界の倫理観が必ずしも合致するとはかぎらない。じゃあ、あの時、私が抱いた感情の正体は?

 上手く行かないさくらんぼうの絵。ジェイ君からの賞賛。腹違いの弟への戸惑い。兄からの手紙への歯軋り。でれでれする母への不満。ココアの甘ったるさ。満足の行かないりんご。全部上手く行かないのは兄さんのせい……なのに、兄さんは向こうの女の人なんかにでれでれしちゃって、それだったら……。描いても描いても不満が溜まっていく。兄と父は遠い地で上手くやっていけてるだろうか? ちょっと上手く描けた気がするけど、まだまだ兄さんには及ばない。なんで、兄さんと別れなきゃいけないんだろう……でも、お母さんを一人にできないし、お父さんのせいだ。なんでお父さんは色々な女の人とふらふらしてるんだろう? 兄さんがほめてくれた、もっとがんばって描こう。パフェはおいしいけど、あの女の人はだれ? ねえ、兄さん、わたしもおえかきをしてみたいんだけど……そしたら、あんなふうにきもちよく、なれるかな……。

 記憶の奔流。蘇える兄の視線。物になった瞬間。胸から体中に染み渡った恍惚。

 そして今、目の前。男の子の無機質な視線とともに、最後の色が置かれ……

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