Ⅵ
「見て見て、なんかおっきなクモがいるよ!」
「うんうん、そうだね」
年を食ってすっかり苦手になってしまった虫の姿から目を逸らさないように努めながら、紫柚は笑みを取り繕う。そんな腹違いの姉の心を知ってか知らずか、氏犬は、木の隙間に張られた網目状の巣から主たる縞模様の大蜘蛛に手を伸ばそうとしている。
「ジェイ君」
なんとはなしに使いはじめたあだ名で呼べば、弟はきょとんとしながら振り向く。
「なに?」
「たぶん、蜘蛛君もびっくりしちゃうと思うから、そっとしておいた方がいいと思うんだけど」
心にもない言葉で懐柔しようとするが、氏犬は、不思議そうに首を捻る。
「ジャポンじゃ、虫とりはしないの?」
「する人はすると思うけど……」
しない、と断言してしまえば追及が終わるとわかっていたが、ほんのわずかに残っている良心が嘘を吐くことを咎めたのと、生来の小心者の気質が災いしたのもあって、もごもごとした答え方になった。弟は、我が意得たりとでも言いたげな顔で微笑んでから、
「でしょ? それにちょっと遊ぶだけだからさ」
などと言って、網目状に張られた糸の真ん中へと再び手を伸ばしはじめる。しかし、不穏な気配を察したのか、巣の主はささっと巣から出て行ってしまう。紫柚は、目の端に映った多くの足が奏でる細かい動きに生理的な気持ち悪さをおぼえつつも、ほっと胸を撫で下ろした。対照的に弟は、頬を膨らます。
「ほらぁ~。お姉ちゃんがごちゃごちゃ言ってるから、にげちゃったぁ」
「あはは、ごめんね」
弟を宥めすかしている間も、そこかしこに細かな虫の姿や、羽音などを認めて、ぞっとする。この調子であれば、氏犬は何度も、虫やその他の生き物を見つけるたびに足を止めるに違いない。紫柚が嫌だというだけならば、年上の人間なりの割り切りも可能といえなくもなかったが、万が一、毒のあるものに興味を示してしまったら……。
止められるのか。そんな疑問が紫柚の中に駆け巡る。姉としての視点から見た氏犬は、年相応の無邪気さを有しつつも、それなりに聡いと感じていた。とはいえ、好奇心は人一倍あるようで、なにかの拍子に飛びだしてしまった際に、抑えきれるかはどうにも心もとない。
「どうしたの?」
我に帰れば、不安げにこちらを見上げる弟の姿。反射的に背筋を伸ばして、笑みを作る。
「ごめんね。ちょっと、考えごとをしてただけなの。もう大丈夫」
「そう? なにかあったら、ぼくに言ってね。お兄ちゃんのこともいっぱいいっぱいたすけてあげてたから、自信があるよ」
「そっかそっか。ジェイ君は頼もしいね」
「うん。そうなの!」
胸を張る子供に、ほんの少しの微笑ましさをおぼえつつも、これから実行に移すことを考え、今更ながら罪悪感が湧く。とはいえ、目下の問題は、そこかしこを這い回っている虫の群れにほかならなかったが……。
それから何度も何度も立ち止まった後。紫柚は、どうにか昼前に目的地としていた森の中の草原にたどり着いた。
「ひろいね」
氏犬の言葉に頷きながら辺りを見回す。やや無秩序な長さに伸びた草も、ほのかに咲く花も、少し離れたところにある小川も、おおむね記憶通りだった。変わったように思えるのは、こころなしか目に見える景色全体が以前より小さくなった気がするところだろうか。それを除けば、記憶の中に焼きついた風景との差異はない。
「みてみて。チョウチョ!」
指差しながら花に止まった黄揚羽に走り寄る弟。気配を隠していないその行動は、当然、蝶の逃走をうながす。
「まてまてぇ~」
急に解放された空間が現れた反動だろうか。ひらひらと舞う昆虫を追いかける氏犬を見ながら、蝶も虫なのに平気どころか綺麗だと思っているのに気が付き、ほんの少しだけ不思議に感じる。
絵とかでも見慣れているからかな。そんな安易な推測をすぐさま終えた紫柚は、氏犬が黄揚羽を見失ったのに合わせて、
「ジェイ君。ちょっといい?」
語りかける。
「なに、お姉ちゃん」
こちらに対して何の疑いも抱いていないような眼差し。紫柚は、体中が強張るのを意識しつつ、努めて平静を装おうとする。
「お昼ごはん……」
「うん! ぼくもう、おなかぺこぺこで」
「そうそう。ご飯の後でいいんだけど、ちょっと手伝って欲しいことがあるんだけど。いいかな?」
昼食の入ったバスケットを手にした右手とスケッチブックなどを入れた大きめな鞄を挟んだ左脇をしめる。すでに始める前だというのに、罪悪感の端っこが溢れだしそうだった。
「うん、いいよ」
拍子抜けするくらい軽く応じる氏犬。第一段階突破、と胸を撫で下ろしながらも、ありがとうと、と微笑む。とはいえ、これからすることを思えば、ぐずられたり軽蔑されたりするかもしれない、という想像は容易い。せめて、悪い思い出にならないようにしないと。そう決意する紫柚のすぐ近くに、弟は足早に歩み寄ってから、
「おひるごはんのまえにしよ」
何の衒いもなく言ってみせる。思わず息を呑む紫柚の前で、
「お絵かき、それもぼくのことを描いてくれるんでしょ? だったら、そっちがさきの方がいいよ」
目を輝かせる弟。
「そっか。だったら、お願いしようかな」
事があっさり運んだことに驚きを隠せない紫柚。とりわけ、食いしん坊とまでは言えなくとも、それなりに食べることが嫌いではない弟だけに、この決断をしたのは意外以外の何物でもなかった。
姉の戸惑いを察したのかそうではないのか、弟は愉しげに見上げながら、
「ぼく、お姉ちゃんの絵、好きだから」
などと可愛らしく答える。
「ありがと」
あまりの都合が良さに、これは現実だろうか、と疑いそうになるが、まだお願いが終わっていない、のを思い出し、ぶんぶんと首を左右に振った。
「それでお絵かきの時なんだけど……ジェイ君にやって欲しいことがあるんだ」
重要なのはここからだ。そもそも、こんなお願いを聞いてもらえるんだろうか。小さな子供相手にただならぬ緊張をおぼえ、喉の渇きをおぼえた。
「うん、いいよ。なんでも言って」
「じゃあ、お言葉に甘えるけど。ジェイ君には――」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます