凍結支配者

冥焉

本編

第1話 誕生の朝



 助産師の息が、狭い居間にひんやりと混ざった。

「来ました、来ましたよ。しっかりして」──合図のように短く、けれど確かな声が響く。


 布団の重なり、湯気の匂い、母の荒い呼吸が室内を満たす。父は額に汗をにじませ、手のひらに無意識に力を込めていた。襖の小さな隙間から差す冬の朝の光が、床の毛布を薄い銀に染める。世界はいつもどおりに動いているはずなのに、今この瞬間だけは誰もが息を殺していた。


 産声──高く、驚くほど澄んだ音が、部屋の空気を裂いた。母の目がぱっと見開かれ、父は肩の力を抜いた。助産師が静かに笑う。

「女の子ですね。よく頑張りました」


 父の声は、震えながらも決心に満ちていた。

「雪……雪乃。雪の“雪”、穏やかにの“乃”。雪乃でどうだろう」


 母が、疲れた笑みをそっと浮かべる。名前が口をついて出ると、不思議と部屋の重さが少し和らいだ。赤ん坊は小さく唸り、細い指をぎゅっと握るだけで、世界を満たすには十分すぎるほどの存在感を放っていた。


 祖母が襖を開けてやってくる。年季の入った手が、赤ん坊の毛布をそっと引き寄せる。祖母の目はやわらかく、それでいて何かを予感しているようだった。

「雪乃か。いい名だ。静かな子になりそうだね」


 そのひと言に、父は胸の奥がひくりとした。祖母の言葉には、世代を越えた勘が含まれている。良いとか悪いとかではない。これから起きるかもしれないことを、時間の長さで軽く透かし見たような、そんな含みがあった。


 夜が更けると、家の音は一つずつ消えていく。母は眠りに落ち、祖母は縁側で静かに糸を紡ぎ、父は赤ん坊の掌をただ眺めていた。ふと父の視線は、その小さな掌に付いた白い粉に留まった。眠気まなこのまま指で払うと、粉は消えない。冷たさだけが、確かに父の指先に残った。


「おい、何だこれ」──囁きは自分自身への問いかけだった。だが次の瞬間、粉は空気に溶けるように消え、畳の縁にわずかな凍りの輪郭を残しただけだった。父は息を呑む。胸の中に、ただごとではない何かがひっそりと芽生えた。


 朝。薄い光が窓を満たす。外からは子どもの遠い声、隣家の奥さんが朝の挨拶をする声が聞こえる。母は台所で湯を沸かし、赤ん坊を抱いたまま夢うつつでいる。雪乃は眠りの中で小さく顔を動かし、その吐息は部屋の空気をいっそう静かにする。


 父はテーブルの新聞を開いたふりをして、何度も名前を口に出す。

「雪乃、雪乃」

 名前を呼ぶたびに、その響きが家の中にふわりと漂って、誰かの胸に小さな暖かさを落とす。


 近所の奥さんが玄関先に顔を出して言う。

「あら、おめでとう。雪乃ちゃん、かわいいこと」

 返事をする母の顔には疲れがあるが、目は柔らかい。彼女の指先が雪乃の額に触れると、ほんのりと冷たい感触が伝わってきた。痛みとは違う。その冷たさは、むしろ胸の奥にふわりと落ちる安心のようでもあった。母は眉を少し寄せ、すぐに笑みを整える。


「変わった子ね、でもきっといい」──小声で呟いた言葉には、不安よりも覚悟が滲んでいた。父と母は互いの目を見て、短く頷き合う。怖れがないわけではない。けれど、赤ん坊を前にした彼らの手は、迷いなく伸びた。


 昼過ぎ、祖母は湯気の立つ茶碗を差しながらぽつりと言う。

「昔からな、こういう子は何かを抱えて生まれてくるもんだ。いいものか悪いものかは、その人次第だよ」


 その言葉は呪いでも予言でもなく、ただ長年の経験から出た覚悟の表現だった。父はその言葉に肩を正し、母は茶碗をそっと抱え直す。雪乃は小さく目を開け、窓の光を受けて瞬く。瞳の奥には、まだ誰も説明できない静かな深みがちらりと見える。


 午後、窓を少し開けて外気を通すと、冷たい風が部屋の隅を撫でていった。窓ガラスに描かれた細かな模様が、まるで雪の結晶のように光る。誰もがそれをただの結露だと思った。しかし父は、赤ん坊の指が微かに動いた瞬間、指先に薄い氷の糸が光ったのを見た。驚きも恐れも混ざったが、父は自然と笑った。小さな手を自分の指に絡めたとき、伝わる冷たさは苦ではなく、むしろ守るべきものを知らせる合図のように思えた。


「よろしく、雪乃」──父の声は温かく、迷いのない宣言だった。赤ん坊は小さく唸り、父の頬に手を伸ばす。指先は冷たいが、触れられた側の心はじんわりと温かくなる。


 夜になると、家は再び静かに沈んでいった。遠くの踏切が一度だけ鳴り、犬が短く吠えた。祖母は縁側で小さく歌を口ずさみ、母は静かに眠り続ける。父は雪乃の横顔を見つめ、窓の外に流れる薄明かりに思いを馳せた。これが始まりに過ぎないことを、彼はどこかで知っている。だがその「始まり」の光は、消えることなく家族の胸に灯っていた。


 翌朝、道行く人々はいつもの朝の景色を目にするだろう。だが父と母と祖母は知っている。今日の冷たい窓の模様、掌に残った一瞬の粉、寝顔の微かな深み。それらはただの偶然などではない。何かが静かに動き出しているのだ、と。


 ――白瀬雪乃の時間は、ここから、ゆっくりと、確かに動き始めた。

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