第4話 ニートと母と、時々リンゴ

 同棲開始初日、学人はすでに疲労困憊だった。

 秋葉原で美幼女エルフを拾ったかと思いきや、同棲宣言をされ、挙句に一緒にお風呂に入ってほしいと頼まれた。

 

 学人は、倫理観のあるタイプのニートだった。

 さすがにさっき拾ったばかりの幼女と一緒にお風呂に入るのは、大いに躊躇われる。

 苦肉の策として、アイマスクで目隠しをし、水着を着用して湯舟の端っこにちょこんと入る、という案が採用された。

 

 ――こんなにくつろげない風呂は初めてだ……。

 

 一方のリリィは、学人と一緒で安心したのか、先ほどよりは恐怖心が和らいでいるようであり、次第に湯にも慣れていったようだった。

 学人は、緊張と罪悪感が同居する心の平穏を必死に保ちつつ、リリィが入浴を終えるのをじっと待った。

 

 彼女が風呂から上がったのを耳で確認してから10分以上待って、学人はおそるおそる部屋に戻った。

 リリィは、着替え用に渡した学人の部屋着Tシャツを着て、部屋にちょこんと座っていた。

 学人のTシャツは彼女が着るとひざ下くらいの丈になっており、ぶかぶかのワンピースのようで何とも可愛らしい姿だった。


「……やはり、魔力は回復せぬか……」

 

 リリィは自分の両手を見つめながら残念そうに呟く。

 そうだった。

 彼T姿に見惚れて一瞬忘れかけていたが、これは魔力回復のための儀式なのだった。

 ……が、彼女の言うとおり、やはり空振りに終わったようだ。

 

「ま、まあ、さすがに入浴剤じゃな。また次考えよう、次。……とりあえず、髪乾かさないと、風邪引くぞ」

 

 当然ドライヤーの使い方など知らないリリィのため、学人は彼女の髪を乾かしてあげた。

 そういえば自分も小さい頃、母親にこうしてドライヤーをしてもらっていたな、などと少しノスタルジックな感傷が芽生えていた。

 

 そんな胸中を知る由もなく、リリィの目はうとうとと眠たげになり始めていた。

 それを見て、学人は重大なことに気が付いた。

 

 うちには布団が一組しかない。

 

 そして、六畳一間の狭い部屋には、布団以外にくつろげる場所もなかった。

 小さい布団で一緒に寝るのは……さすがにまずい気がする。

 

「リリィ。布団を敷くから、お前はそこで寝てくれ。……俺は、隅っこで寝るから。」

 

「なぜ家主であるマナトが布団を使わぬのじゃ? 一緒に布団で寝ればよかろう」

 

「……いや、それはまずい」

 

「であれば、リリィが隅で寝るゆえ、マナトが布団を使え」

 

 リリィは恩人にそのようなことはさせまい、という力強い目をしていた。

 

 ――この姫、意外に頑固だよな。

 

「……わかったよ。一緒に布団で寝よう」

 

 学人は本日何度目かの根負けをした。


 案の定、その夜彼は一睡もすることができなかった。


 ◇


 バキバキの目で朝を迎えた学人とは裏腹に、リリィはぐっすりと眠れた様子だった。

 争いの続く元の世界では、きっと安心して眠ることもままならなかったのだろう。

 すうすうと健やかな寝息を立てるリリィを見て、学人は胸にじんわりと熱いものが広がるのを感じた。

 

 ピンポーン。

 

 その時、玄関のチャイムが鳴った。

 

「お届け物でーす」

 

 学人は配達員から段ボール箱を受け取った。

 中身は、リンゴのようだ。

 差出人欄を見なくても、送り主は分かっていた。

 学人は小さくため息をつく。

 

「ん……マナト、今のはなんじゃ……?」

 

 チャイムの音で目覚めたリリィが、目をこすりながら起きてきた。

 

「おはよう、リリィ。……リンゴが届いたんだ。一緒に食べよう」

 

「リンゴ……」

 

 リリィは寝ぼけまなこで段ボールを覗きに来た。

 

「このリンゴ、どうやって手に入れたのじゃ?」

 

「……母親が、送ってくれたんだ」

 

 学人は小さな声で答えた。

 段ボールに敷き詰められたリンゴの上には、便箋が1枚乗っており、綺麗な字でこう綴られていた。


 “学人へ


 身体を壊してはいませんか?

 きちんとご飯は食べられていますか?

 学人の家に冷蔵庫があるかもわからないので、

 とりあえずまた学人の好きなリンゴを送ります。

 たくさん食べて、お勉強頑張ってね

 いつでも連絡待ってるよ


 お母さんより”


 学人は自己嫌悪で息が詰まった。

 

 家族に壁を作ってしまったのは、いつからだっただろうか。

 優しい両親と優秀な兄。

 しかし自分は、幼い頃から何も秀でたものがなかった。

 この申し分のない家族の中で、自分だけが嵌らないピースのような気がしていた。

 小さく芽生えた劣等感の芽は、卑屈な思考回路の中でむくむくと枝葉を広げ、心に影を落とした。


 実家を飛び出して以降、家族との隔たりはますます大きくなる一方だ。

 学人を心配する母親は、何度かこの家を訪ねてきたこともあったが、彼がそれに応じることはなかった。

 この部屋を見られれば、「勉強に集中したいから」という彼の出立の理由が真実でないことは、一目瞭然だと思ったからだ。

 

 卑屈な思考の中にわずかに残るプライドが、“こんな自分を見られたくない”と固辞していた。

 

 いつからか、母親は訪ねてくることも、電話をかけてくることもなくなっていた。

 その代わりに、こうして定期的に贈り物をしてくる。

 学人への差し入れと、安否確認を兼ねているのだろう。


 学人は無言でリンゴと手紙を見つめていた。

 

「優しい母君ではないか」

 

 気づけば、学人の肩にちょこんと顔を置いて、リリィも手紙を眺めていた。

 学人は、彼女の言葉にゆっくり顔を上げた。

 

 そんなことは、分かっている。ずっと昔から。

 しかし、その優しさに触れる度に、自分の情けなさが余計際立つ気がして、正面から受け止めることができないのだ。

 しかし、そんな学人をじっと見つめ、リリィは続ける。


「大事にせねばならぬぞ。……いつ、会えなくなるとも分からないのだから」

 

 言い終わると、彼女は遠くを見つめていた。

 これまで見たことのない、深い哀愁の色がその瞳に浮かんでいた。

 

「…………」

 

 学人は、言葉を返すことができなかった。

 彼の胸中に渦巻く感情は、言語化するにはあまりに複雑な色を呈していた。


 その感情のすべてをぶつけるように、学人は無心でリンゴを剥いた。

 母親の手紙。これまでの自分の言動。リリィの言葉。そして、シャクシャクと小気味よく響くリンゴが刻まれる音。

 それだけが脳内を渦巻いていた。

 学人が我に返った時には、彼の手元には大量の剥きリンゴが生み出されていた。

 

「……やべ、剥きすぎた。ちょっと多いけど、リリィ、食べるか?」


「喜んでいただこう。おぉ、これがリンゴ。……うまい!!!」

 

 リンゴを気に入った様子のリリィは、あっという間に1個目のリンゴを食べ終わり、次のリンゴへと手を伸ばしていた。

 

「マナトは食さぬのか?」

 

 リリィが5個目のリンゴを頬に詰め込みながらそう問いかけた。

 

「……俺は、今は食欲ないから」

 

 学人はスマホの連絡帳を開いていた。

 

 【母さん 080-XXXX-XXXX】

 

 久方ぶりに開いたそのページを開いては閉じ、開いては閉じ。

 無言のにらめっこがしばらく続いていた。


 ――生存報告だけでも、するか? 急に電話は……無理だけど。SMSとかなら……


 しかし、逡巡の末、今にもSMSの画面を開こうとしていた学人の手は、強制的に停止された。

 突如聞こえた“ポンッ!!!”という音と、それと同時に溢れ出した光が、彼の動きを遮ったのだ。

 

「「こ、これは……!?!?」」

 

 小さな音と眩い光とともに彼女に生じた異変を見るや、学人は思わずスマホを落とした。

 と同時に、その頭からは、SMSのことも抜け落ちていた。

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