飛行船の少年達
渡 千里
第一章 飛行船のある家
一章 飛行船のある家
僕の家には、飛行船がある。
家の一階は、シャッター付きの倉庫になっていて、二階からが住むスペースだ。この一階の倉庫はとても広くて、なぜか、飛行船を停めている。
この飛行船は、ぎりぎり四人くらいが乗れる小さなものだ。飛行船というより、ゲームセンターや遊園地にあるような、お金を入れたら動き出す子供向けの乗り物のアトラクションみたいな感じ。飛んだところは見たことがない。車さえ使わずに自転車で何でも済ませてしまう母さんと僕だから、いつも倉庫のシャッターを下ろしっぱなしにして、外からは見られないようになっている。
どうしてうちに飛行船があるのかというと、昔、父さんが作ったからだ。ホームセンターで材料を買い、近所の工場から廃材をもらい、そのほかいろいろなところから材料をかき集めて、それはそれは、大工さんのように一生懸命作ったそうだ。そして、完成してまもなく事故で死んでしまった。だから僕は、飛行船を作っていた頃はまったく記憶がない。悲しいけれど、父さんの顔さえも、ぼんやりしていて全然覚えていない。
たまに倉庫のシャッターを開けて掃除をするときにはいつも、母さんは「これ、お父さんが作ったのよ」と誇らしげに飛行船を見る。そして、とてもていねいにぞうきんで拭くのだった。
「これ、飛ぶ?」
小さい頃の僕は、倉庫の掃除のたびに母さんに聞いた。
「お母さんは動かせないけど、いつかきっと動くわ」
母さんは優しく笑った。
「いつ飛ぶの!?いつ飛ぶの!?」
子供だった僕は、母さんの周りをピョンピョン跳ねて興奮気味に聞いた。
これは置物じゃなくて、本当に飛ぶ。いつか、何かのタイミングで飛ぶんだ。そう思うと、とってもワクワクした。
だからこそ、僕は学校でどんなに嫌なことがあっても「僕の家には飛行船があって、いつか絶対飛ぶんだ」という希望を持っていた。うちはあまり裕福と言えなかったけれど、どんなに馬鹿にされる出来事があっても、心の中だけは尊厳を保ってやってきた。
小学五年生のある日のことだ。図工の授業で絵を描くことになり、先生が絵のお題を発表した。
「いままで旅行に行った中で、一番思い出に残っている場所を描きましょう」
人生で一回も県外に出たことのない僕は、それを聞いてとても困った。旅行になんて行ったことがない。家の外で僕が行ったことのある場所と言えば、公園か、スーパーか、近所の田んぼか……家の窓から見える富士山か。
迷ったあげく、僕は家から見える富士山を描くことにした。うちの窓からは富士山がよく見える。ちょうど山頂に太陽に昇るとき、とても美しいから、いつもリビングから富士山を見るのが好きだった。
「それ、家の窓からの景色じゃん」
隣に座っていた鈴木君が言った。
「旅行で行った場所を描くんでしょう?家じゃ旅行じゃないよ」
「だって旅行に行ったことないし……」
僕は、小さな声で答えた。
「お前んち、貧乏なの?」
斜め後ろから、金村という、声のでかい意地悪な男子が言った。金村は、名字に「金」と字がついているのも納得の、金持ちの息子だった。そして何かにつけて、僕を「貧乏、貧乏」とイジってくる嫌なやっだった。
お母さんが一生懸命働いてくれている僕の家が、お父さんがいない僕の家が、裕福かと言われると、そうでもない。貧乏と言うほど生活に困ってはいないけれど、旅行に行くほど余裕はない。でも金村から見たら、確かに僕は貧乏だ。
僕は、急にみじめになって、なんて答えればいいかわからずに黙ってしまった。
「鈴浦の家、お父さん居ないんだからしょうがないでしょ!」
僕が何か言う前に、正義感あふれる女子の誰かが言った。
瞬間、クラスの空気が気まずく重い空気に変わり、刺さるような痛い視線が一斉に僕に降り注いだ。
「あ……あのね!僕の家は飛行船を持っているんだ。その気になればいつだって、どこへだって行けるんだよ!」
僕はその空気をやぶるように、少しうわずった高い声で一生懸命声を張り上げた。
すると、「なんか、嘘までついて可哀想……」というヒソヒソ声が聞こえた。クラスが同情や哀れみの目線を、むずがゆく感じた。
しかし、「お前んち、貧乏なの?」と聞いてきた金村は、ふうん、とニヤニヤして言った。
「じゃあさ、今日、お前んち行くから。ウソじゃないか確かめてやるから」
僕は、「いいよ!来いよ!」と応じた。
そこでやっと先生が割って入ってきた。
「あのな、絵のテーマは、実際に旅行に行ったことがある場所じゃなくていい。行きたいところ、好きな景色、なんでも良い。他人を、そして他人の作品を悪く言うな。絵の授業なんだから」
僕は今まで描いていた家の窓と、その窓から見える富士山の絵を、真っ黒の絵の具でぐちゃぐちゃに塗った。そして、その真っ黒の背景に白や黄色の絵の具で点々を描き、宇宙とも夜空の星ともとれる変な絵を描いた。
その日、学校が終わると、僕は金村とクラスの数人を、僕の家のに連れて行った。そして何も言わず、さび付いて重くなったシャッターを一生懸命持ち上げた。
シャッターがゆっくり上がるとともに、夏の夕日の強い日差しが差し込む。うす汚れた小さな飛行船は、その日差しに照らされてキラリと光った。
「すっげーー!」
金村はそのデカい声で驚いた。一緒につれてきたクラスメイトの数人も、「すげー!」「すげー!」と言っている。
「すげえだろ?」
僕は得意げに言った。
「乗せてよ!乗せて!」
クラスメイトの数人にせがまれて、僕は困ってしまった。僕でさえこの飛行船には乗ったことがない。鍵の開け方も分からない。僕は仕方なしに二階にあがり、母さんを呼んだ。
母さんは、クラスメイトの突然の訪問にびっくりした様子だったが、わけを聞いてとても残念そうな顔をした。
「残念だけど、飛行船には乗せられないの。お父さんの一生懸命作った、大事なものだからね。壊したら大変だから。そのかわり、とびきりおいしいお菓子を食べましょう」
小学五年生にもなってみんなお菓子につられないよ、と僕は恥ずかしくなったが、金村は素直に「やったー!ありがとうございます!」と喜んだ。僕はほっと安心した。
母さんはお菓子作りが得意だった。ジャガイモをうすくスライスして作る、揚げたてのポテトチップス。小麦粉から作る、ふわふわのパンケーキ。それから、水と砂糖と、色とりどりのシロップを使って作る、いろんな色の飴。できたてのお菓子たちに僕らは大喜びだった。
特に、母さん手作りの飴は格別だった。単に美味しいとかそういう次元じゃない。魔法のように不思議な力があるのだ。
「とびきり元気の出るパチパチキャンディ」は、食べるとみんなのテンションが上がる。口に入れれば何でもないことでも大笑いして、一気に楽しい気持ちになる。「氷のように冷静になれる氷飴」を食べれば、文字通り胸のあたりがすうっとして、たちまち冷静になる。
中でも皆に人気だったのは、「お日様のドロップス」だった。べっこう飴のような、透き通った黄金色の小さな飴。まるで夕方が来る少し前の黄色みを帯びた空の色だ。飴をなめると、みんなの心が太陽に照らされたように温かくなり、その場の空気まで和気あいあいと和やかになる。
これらを僕たちは、「魔法の飴」と呼んだ。母さんは、普通のべっこう飴を作る要領で、水と砂糖を溶かし、小さな瓶に入ったシロップを入れて色付けをして、フライパンでささっと作って僕たちに振る舞ってくれた。その手際の良さは、まるで神業。魔法のようだった。
「魔法みたい!」
そうみんなが言うと、母さんはイタズラっぽく笑った。
「そうよ。私は魔法使いよ。魔法の飴を作れる、飴の魔法使い」
僕達は五年生だったから、魔法使いだなんて本当には信じなかったけれど、「もしかしたら、そうかも」と心のなかで思うだけで、本当に楽しかった。
そうしてとにかく美味しくて楽しいこと尽くしにさせて、僕たちの心を温かくし、来た子供たち全員を満足させたのだ。
帰りがけ、母さんは言った。
「ここに来ればいつでも魔法の飴を食べられるわ。でも約束して。飛行船があることも、私が魔法の飴を作れることも、誰にも内緒よ」
家に来る前は僕を馬鹿にしていた金村やクラスメイトたちも、母さんの前では子供らしく素直になり、目を輝かせて頷いた。
それからというもの、あの日僕の家に来たメンバーが、たまにうちにやってきた。飛行船を見に倉庫にきて「これ、いつ飛ぶんだろうね」と話しながら、母さんの作った飴を味見するのが定番になった。
年月は過ぎ、僕は中学二年生になった。
今の今まで、飛行船が動いたことは一度もない。
なあんだ、これ、飛ばないんだ。僕の子供時代を彩ってくれた、あのワクワクする日常はウソの上に成り立っていたのか。そう思うとがっかりしたし、ウソで純粋な子供に期待させた母さんを軽べつしたこともある。しかし、子供たちを楽しませて満足させ、僕がクラスで馬鹿にされない立ち回りをした母さんは、さすがとしかいいようがない。その点で僕は頭が上がらないのであり、楽しかった思い出も相まって、「まあいいか」と自分を納得させている。
あの頃のようにひんぱんに家を行き来するような友達はめっきり減った。金村のように私立の中学に行ったやつもいるし、僕のように、近所の公立中に行ったやつもいる。学校がバラバラになって、みんな部活や塾で忙しくなったんだから、仕方ない。
しかしなぜか金村だけは、学校も違くなったのに、たまーにうちにやってくる。こりないやつだ。
今日は大みそか。金村は、冬休み開始早々に海外旅行に行って、きのう、日本に帰ってきたらしい。
「旅行のお土産を渡したいからそっち行っていい?」
金村からそうメッセージが来て、「いいけど」と返信すると、五分もたたずに金村がやってきた。
「久しぶりー」
金村は、分厚いダウンを着て、毛糸のニット帽をかぶっていた。完全防備の服装を、白い息がふわっと取り巻いた。
「いや、来るの早すぎ。お前、うち来るのどんだけ楽しみにしてたん」
僕はぶつくさ言いながらも、倉庫のシャッターを開けてやった。シャッターは冬の冷たさを含んで、信じられないほど冷たく、手を刺すようだった。僕は着ていたパーカーの袖の裾をのばして手をおおいながら、よいしょと力を込めて持ち上げた。
大みそかの夕方。早くも日は落ちて、空の大部分は夜のような暗い藍色に染まり、わずかに空の下部分だけが、夕焼けのオレンジを残している。
「お前の家、やっぱ落ち着くわー」
金村はシャッターをくぐり抜けて、倉庫に入るや否やそんなことを言いだした。
「お前さ、俺に「お前んち貧乏」とか言ってきたの忘れてねえからな。何が居心地いい、だよ」
「それは本当にごめんって」
こんなふうに僕たちは、お互い遠慮もなく何でも言い合える仲になった。だから僕は、ぶつくさ言いながらも、内心は、金村が来てくれるのが嬉しい。
僕たちは、飛行船の前に折りたたみ椅子を広げて、隣同士に座った。シャッターのすき間からから、冬の風がひゅうっと入り込み、僕らの足元をなでた。僕らは同時に身震いをした。
僕はシャッターを下までみっちり閉めて、鍵もかけた。口から出た白い息は、倉庫の天井の白熱灯へ登っていった。
「これ、お土産」
金村は、くしゃくしゃになった紙袋を渡してきた。
「ありがと。どこ行ってきたの?」
「ノルウェー」
「どこそれ」
「えー!お前知らねえの」
金村は、馬鹿にしたように笑い、僕はムッとした。
「金持ちじゃないからなー。知らなくてごめんなー」
「いや、これは金持ってるかじゃなくて教養があるかだろ。北欧だよ。北極圏にかかってる、寒い国」
「へえ。なんでわざわざ、寒い時期に、寒いところへ」
「親が、今までに行ったことがない国に行きたいって言ってさ。そんなことより早く開けろよ」
金村に言われて、僕はお土産の紙袋を開けた。
中には変な人形が入っていた。大きさはハムスターくらいの、手に収まるサイズ。ブサイクな小人みたいな人形だ。肌の色は黒くくすんだ薄オレンジ色で、目は飛び出そうなほど異様にギョロッとしている。髪は箒のようにボサボサで、鼻はピノキオのように長い。口元は、口裂け女かと思うくらい口角がニイッと持ち上がっている。親しみやすい微笑みとも言えるし、不気味な笑いとも言える、不思議な表情だ。なんだか悪夢に出てきそうだった。
「いらねー!」
僕は爆笑した。
「いや可愛いだろ!」
僕と金村は大笑いしながら、「いやいらねーよ!」「いや可愛いだろ!」と言い合うのを何度か繰り返して、キャッチボールみたいに人形を投げ合った。そうして投げ合っているうちに、人形を投げ合うなんて罰があたりそうだな……と思い始めたその時。僕の手が滑って、真正面の金村の方ではなく、斜め右上に投げてしまった。
人形は、停めてあった飛行船へ当たり、床に落ちた。僕は気まずくなって、人形を拾おうと、黙って腰をかがめた。
「痛い……」
人形からそう聞こえた気がして、僕はびっくりして素早くそれを拾い上げ、顔に近づけてよく観察した。
なんと人形は目から涙を流し、「痛い、痛い……」と言っている。
「今時の人形って、高性能なんだな」
僕はまじまじと人形を見つめたまま金村に声をかけた。
「この人形、喋るとは聞いていないけど……」
金村も近づいてきてふしぎそうにのぞき込んだ。すると、僕の手のひらの中で、人形はキッとにらむ目つきになり、大きく口を開け、甲高い声を上げた。
「ぶつけておいて謝りもしない!なんて失礼なんでしょう!」
僕たちは心臓が飛び上がるほどびっくりして、「うわあああ」と叫び声をあげ、思わず人形を手から離してしまった。人形はまた、床に落ちた。
「だから、痛いと言っているでしょうが!」
人形はカンカンになって、小さな身体で腕組みをして僕たちをにらんだ。
「相手に痛いことをしたら、まず謝るべきでしょう!まったく、現代の日本人がこんなに失礼だとは聞いていませんよ」
「ご、ごめんなさい……」
「本当に申し訳ありません……」
僕たちは必死に謝った。謝りながら、僕はポケットに手を伸ばした。ポケットにはシャッターの鍵を入れている。シャッターを開けて逃げようと必死でポケットを探るのだが、寒さでひどく手がかじかんでうまく取り出せない。そうこうするうちに、人形は、小さな足をペチペチ合わせながらこちらに近づいてきた。
「それから、さっきから人形、人形って私を呼びますけれど、私は人形という名前じゃありませんから!トロル、という名前があるんです!ト・ロ・ル!」
「わかった!ごめんなさい!トロルさんって言うんですね!」
「もう間違えないから!許して!」
僕ら必死に謝った。かじかんだ手は、鉛のように動かない。僕はめちゃくちゃ焦りながら、一生懸命手を動かし、ポケットを探った。
「おいお前、シャッターの鍵!早く!」
「わかってるって!今やってるよ!」
金村に急かされ、僕は怒って返事をしながらポケットを探った。
すると、ガタガタガタ、と音がして、外からシャッターが開けられた。
「うわああああ!」
僕らは「もう終わった」と思い、二人で腕を組み合った。
「ねえ、何事?」
外からシャッターを開けたのは、母さんだった。
僕らは心底ホッとして、へなへなと床に座り込んだ。
「すごい声聞こえましたけど。大丈夫?」
母さんは僕ら二人を心配そうに見ながら、シャッターを持ち上げ、上に固定した。外はすっかり夜だった。北風が、大きな出入り口を得て、遠慮なく倉庫に吹き込んできた。
母さんは、倉庫に入って辺りを見回した。そして、僕らの足元に立つ小さなトロルをみつけた。
「あら、トロルじゃない。遠くから、よくうちに来てくれたわね」
母さんは何も驚くことなく、ゆっくりとかがみ、トロルと目線を合わせて優しくあいさつした。
「マダム、はじめまして。あなたにお願いがありまして、はるばるノルウェーからやってまいりました」
トロルは胸に片手を当て、うやうやしくお辞儀をした。先ほどの僕らへの態度とは大違いだ。
「あら、お願いって何かしら」
母さんは、にこにことほほえんでトロルに聞いた。
「あなたに、飴を作っていただきたいのです。あなたの作る、「魔法の力を持つ飴」を」
魔法の、飴?と僕は思った。
いま、トロルは母さんの作る飴を「魔法の力を飴」と言った。たしかに母さん手作りの飴は少し変わっていて、なめると楽しくなったり気分が落ち着いたりする。僕らも小さい頃、魔法みたいと興奮したものだ。
母さんの作る飴に、本当に魔法の力があるというのだろうか。僕は黙って二人の会話の続きを見守った。
「ええ、いいわよ。私でお力になれるなら」
母さんは、特に魔法のことには触れず、トロルの願いを聞き入れた。トロルの表情はぱあっと明るくなり、「ありがとうございます!本当に、ありがとうございます!」と喜んでピョンピョンはねた。
「それで、どんな飴を作ればいいのかしら」
母さんは、カエルみたいにピョンピョン飛ぶトロルをほほえましく見つめながら聞いた。トロルは飛ぶのをやめて、真剣な表情になって母さんを見つめた。
「あなたに作っていただきたいのは、初日の出を浴びた飴、「初日の出のドロップス」です」
「初日の出のドロップス?」
「はい。初日の出のドロップスです。日本の皆様は、日本のことを「日出る国」と言い、一番はじめに太陽ののぼる国として、この国を大切にしてきましたよね」
トロルは手をもみ、賢そうな顔をして説明を始めた。
「ええ。よく知っているわね」
「人々は、太陽が昇ることに対して、とてもありがたみを感じている。特に、1月1日に昇る、初日の出は特別縁起が良いと言われていますね。普段はあまり大騒ぎしない日本の皆様でさえ、年越しが近づくにつれてお祝いで大さわぎをして、初日の出を見る。そして日の光に感動して、希望にあふれた一年の始まりを迎える。初日の出はまさに、希望の象徴のようです。そんな「日出る国」である日本の初日の出の力を含んだ飴を作っていただきたいのです。なめるとたちまち、希望にあふれる、そんな飴を」
「初日の出の力を含んだ飴。なめるとたちまち希望にあふれる飴、ね」
母さんは繰り返した。そして少し考えながら口を開いた。
「今日はちょうど大みそかよ。つまり、明日のぼる太陽が、初日の出。今から急いで準備をすれば、あなたの言う初日の出のドロップスを作ることができるわ。でもね、特別な飴を作るには、それなりに準備が必要よ。こんな急いで、どうしてそれが必要なの?」
母さんに聞かれたトロルは、今度は真剣な表情になって、静かに話し始めた。
「実は、困ったことがありまして……。ある画家の男が、タイムスリップをして、昔のノルウェーから現代日本まで来てしまったんです。彼を元の世界に帰すために、初日の出のドロップスが必要なのですが……。とにかく、彼と対面して話を聞いていただけませんか。彼は、この倉庫のすぐそばにいます。こちらへ呼んでいいでしょうか」
「ええ、いいわよ」
母さんは頷いた。僕と金村は、外を見て、その画家の男というやつが、どんなやつか見ようとした。
冬の闇夜にまぎれて、背の高い男が、のっし、のっしと歩いてきた。最初は暗くて良く見えなかったが、倉庫に近づくにつれ、明かりに照らされて、段々と姿が見えてきた。
黒いハットに、黒いジャケット、白いシャツ。学校の教科書で見る、昔のヨーロッパ人の格好そのものだ。白い肌で、落ちくぼんだ目に高い鼻。無表情とも、緊張した顔ともとれる、表情のとぼしい顔。年齢は、友達のお父さんと同じくらいか少し上に見える。父さんが生きていたらこのくらいだろうか。
背の高いおじさんは、こちらをちらりと見て言った。
「こんばんは。失礼するよ」
僕らは戸惑いつつ、「こんばんは……」と返した。トロルは、「どうぞこちらへ」と、もともとは僕たちが座っていた折りたたみ椅子に、おじさんに座るようにうながした。おじさんは、ゆっくりと腰を下ろした。
おじさんが座ると、トロルは僕たちに向き合って説明を始めた。
「私たちはいつもノルウェー語を話しますが、時空にとらわれている間は、今いる場所の言葉、つまり日本語を理解し話せるようになります。さあ、画家のおじさん、なぜあなたが時空を超えてここに来たのか説明してくださいますか」
おじさんは、こちらを見ながら、無表情のまま、ゆっくりと話しだした。
「私がここに来たのは……ある絵を完成させるためです」
おじさんは、深く息を吐いた。その瞬間、表情のとぼしい顔だが、少し切なそうな目をしたように見えた。
「私の人生は、悲しいことばかりありました。小さい頃に家族を亡くし、ずっと、絶望しながら生きてきました。苦しい、つらいと思いながら生きてきました。しかし、人生でのいろいろな経験を乗りこえて、この年になってやっと、少しずつ、生きる希望を感じられるようになってきたのです。
画家である私は、こうしてやっと感じられるようになった人生への希望を、絵にぶつけたいと思うようになりました。絵を通して希望を表現したくなりました。
そうして私は筆をとり、見る人に希望を与えるような、エネルギーにあふれた絵を描き始めました。
今描いているのは、とても大きな太陽の絵です。太陽の偉大さを、見る人を勇気づけるエネルギーを、太陽から感じ取れる人生の希望を、すべて絵に込めたい。そう思って、つい先ほどまで、力いっぱい絵を描いていました。あまりに力を込めて何日も描いていたら、疲れ切って、気を失ってしまいました。気がついたときには、なんと、大きなトロルに運ばれていたのです」
「その大きなトロルというのは、私の友人です」
小さなトロルが説明をつけ加えた。
「そう。あなたの友人の大きなトロルに運ばれ、私は、山の中に運ばれていきました。山には、もっともっと大きなトロルがいました。山のように大きいトロルでした」
「山のように大きなトロルは、私たちのリーダーで、大トロル様、と呼ばれています」
小さなトロルはまた説明を加え、画家のおじさんはうなずいて話を続けた。
「その大トロル様が私に言いました。「お前はどうやら、絵に込める想いを追い求めるあまり、時空に囚われてしまったらしい」と」
おじさんは、深いため息をして、眉間にしわを寄せ、悩むような表情になって言った。
「私は、「どうしたら元の世界に戻れるのですか」と聞きました。すると大トロル様は言いました。「私の力で、お前を元の世界に戻すことができるだろう。しかしこれは、お前の絵を完成させるための修行である。元の世界に戻してやるためには、お前自身が、太陽とは何か、太陽を見て、人々はどのような希望を感じるのか、よく考えなければならない。とにかく、これから行く先で、太陽の光と人生の希望についてよく感じて、考えるのだ。そうして、お前自身の感じた太陽の美しさと人生の希望を、我々トロルに見せるのだ。我々が納得する景色を見られたら、元の世界に返すことができる。
しかし、困ったことに、我々は、直接太陽を見ることができない。我々は、闇の生き物だから、太陽に当たっては、たちまち石のように固まってしまう」」
おじさんは、ここまで一気に話すと、深呼吸をした。そしてこう続けた。
「トロルたちが太陽に当たって石のように固まってしまうなら、どうやって、太陽の美しさと希望について説明すればいいのでしょう。私はとても困りました。すると大トロル様は言いました。「お前がこれから行く先は、お前の今いる世界から何十年も先の、未来の日本である。そこには、太陽の光をとどめた、ふしぎな飴を作る婦人がいる。その婦人に会って、彼女たちとともに太陽の美しさと希望について見て、考えてこい。そしてお前が見て感じたものをこの飴にとどめて、この山へ持ってこい。飴を味わった後、おまえの見た太陽の美しさを、人生の希望を、我々が感じ取ることができれば、元の世界に返してやることができる」と。
つまりは、マダム。あなたに太陽の光をとどめた飴を作ってもらい、それをトロルの山へ持って帰らなくてはならないのです。あなたにお力を貸してもらえないでしょうか。私はどうにか元の世界に帰って、絵を完成させたいのです」
おじさんの瞳はすこし潤んでいて、願いを込めて母さんを見つめているようだった。母さんは、静かに頷いた。
「そういうことなら、ぜひ、協力をさせてください。あなたがこの時間のこの日本に来た意味がわかったわ。日本において、太陽の美しさと希望を表す最たるものは、たしかに初日の出よ。これほどご利益があり、初日の出の光を浴びた人々が希望を抱えている瞬間はない」
画家のおじさんとトロルの表情は、安心したようにぱあっと明るくなった。
母さんは、「よし」と手をたたいて言った。
「そうと決まれば忙しいわ。みんな、家に上がって手伝ってちょうだい。トロルも、画家のおじさまも、遥斗もね。金村くんは……おうちに帰る?」
「え、ええっと……まだいたいけど、さすがに正月だから帰ろうかな。鈴浦、明日、話聞かせてよ」
おう、と答えようとした僕をさえぎって、トロルが口を開いた。
「私たちと出会ったことは、別れた瞬間から忘れて、記憶に残りません。歴史の変化を最小限におさえるためです」
「えっ……」
金村は、困った顔をした。
「さすがにお正月に人の家に居座るのは失礼かと思って、帰ろうとしたけれど。でもこのこと全部忘れるなら、まだいたいなあ」
「そうよね。年越しでも、うちには大したごちそうがないけど、それでもいいならいていいわ。年越しそばも、おせちも、スーパーの一番安いセール品の詰め合わせよ。しかも人数分ないから、二人前をここにいる全員で分け合う感じになるわ。それでいいなら、お母様に電話して、許可を取って」
金村はスマホを取り出した。するとトロルが大急ぎで金村に近づいて声をかけた。
「わたくしトロルと画家の男がいることは、一切言わないように。それを守ってくださいね」
金村は頷いて、電話をかけた。
一言二言のぶっきらぼうの会話の後、金村は参加することになった。
玄関のドアを開けると、ふんわりと温かい空気につつまれた。外の寒さと緊張に体がこわばっていた僕は、ふうっと力が抜けた。僕たちは、階段を上がり、母さんの指示で飴づくりに取りかかることになった。
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