第四章 赦された正常
14話 立つ傘跡を濁す
人々の麺を啜る音やレンゲを置く音、甘ったるい上司の説教が、エモーショナルな和音としてラーメン屋に響いていた。
しかしそんなことはなかった。薄氷は本能の赴くままに行動をしているだけだった。
「味玉ラーメン食べる?」
薄氷は、七彩に問う。
「うん」
券売機のボタンを押す時、薄氷は傘の石突き(先端)を使った。その動きは非常に素早かった。七彩もそれに続いてボタンを押す。
ラーメンの提供までの待ち時間、二人は黙って冷たい水を身体に吸収させる。
「だ、大胆な飲み方をされてますね」
新人研修中の店員は、気を遣って大きいコップを用意し、新たな水を注いだ。その店員は目が泳いでおり、終わると逃げるように去っていった。
「ありがとうございます」
薄氷は軽く会釈をして礼を言った。ラーメンの配膳も同じ店員が行ったが、またしてもぎこちない接客だった。珍獣を見るような目で見ていることを悟られないように本人は振る舞っているつもりだが、薄氷には丸わかりである。食べている最中も、その店員は時々視線を投げてよこす。遠くからスマホでこっそり盗撮する客もいた。
「僕は昔からラーメンが啜れないんだ。だからこの姿になっても麺を啜れないことに誰も疑問を抱かないから、コンプレックスを感じなくてすむよ」
薄氷は嬉しそうな顔で傘骨に麺を巻き付けて吸収していく。新人の店員や周りの客にわざと見せつけるように、また聞こえるように話した。
(薄氷って大人だよな、嫌がる素振りを見せないし顔にも出さないんだな)
七彩は心の中で感心した。
七彩や薄氷達のような存在は、一般的な人々から“人間不適合者”として見られる。彼らと直接関わろうとする者は誰もいない。好奇な目で見てSNSに投稿し、日常の負の娯楽として消費されるだけだ。直接関わりすぎると、旧人間水槽ホテルのファンクラブ限定の映画(LifeMovie)の素材にされる可能性もある。見て見ぬふりをする社会は、七彩達のような異形頭にとって少し冷たいものだった。
「そうなんだ。薄氷は、傘になって良かったと思ってる?」
七彩は薄氷の目の奥を覗き込むようにして聞いた。薄氷の本音を聞き出したかった。
「うん。父と会うのが怖いけど、この姿になったことで、七彩や蓮根に会えたから良かったと思ってる」
「どうして父に会うのが怖いの?」
「父は、傘で目を殺られたことがあったんだ。それ以来、傘を見るたびに父は嫌そうな顔をするんだ。だから僕は、この姿を見せるのが怖い。会ったら僕も長尾さんみたいに捨てられるかもしれない」
薄氷はレンゲでラーメンのスープを掬ったが、露先が震えてスープが机に散らばる。薄氷は、ごめんと言って、散った箇所を手拭きで丁寧に拭いた。
「
七彩は、机を拭く薄氷の露先をそっと撫でる。七彩は、中学の自由研究をふと思い出した。長尾さんはサンプルとして協力してくれた人物だった。
「どうして、長尾さんや父のことを?」
薄氷の机を拭く動きが止まった。七彩は黙って目を伏せた。二人の間に沈黙が生まれる。
その静寂を切り裂くように、後ろからツインテールの赤いワンピースの女性がぶつかってきた。
「ごめんなさいね、貴方が七彩くんかしら?」
赤いワンピースの女性の顔は少しやつれていた。ゴミ袋を抱えている。その中身に見覚えがあった。
「その中身はシャンパン男の瓶ですか?」
薄氷は咄嗟に質問した。ゴミ袋と女性の顔を何回も交互に見た。
「そうです。息子に関しては本当にご迷惑をおかけしました。制裁を下してくださってありがとうございます」
その女性はシャンパン男の母親だった。にっこりと貼り付けたような笑みを浮かべて、薄氷達に45度程度のお辞儀をした。
「あれは僕の不注意が招いたことです。決して感謝されることではないですし、僕がこの身でお詫びをしたいぐらいです」
七彩は瞬時に椅子から立ち上がり、必死にスライディング土下座をした。
「顔を上げてください。そんなことはしなくていいです。それより私を旧人間園水槽ホテルに連れていってください。息子を少しでも社会貢献させてあげたいのです」
「彼を映画の素材に使うのですか?」
薄氷は咄嗟に聞いた。
「そうですよ。他に何に使えるのか分かりません。でも息子は需要も無さそうですね。なんとか収入につなげたいのですが…」
母親はゴミ袋を揺らしながら悩んでいた。シャンパン男がどんな人生を歩んできたのかは知らないが、親に切り捨てられる瞬間を目の当たりにした七彩は彼を憐れむ。七彩にそう思われる筋合いもないのかもしれない。
薄氷は何も言えなかった。母親がそう言うなら仕方ないのだろう。今まで父の言葉に従って生きてきた薄氷にとって返す言葉もなかった。薄氷は残りのラーメンに手を付けられなかった。レンゲの中の汁は、いつの間にか冷たくなっていた。
急に窓を打ち付けるような風が吹いた。ピリついたような空気を感じ取った店主が、不自然に裏の倉庫へ逃げる。刹那、小規模な雷が母親を襲った。ラーメン屋の出入り口から、屈強な女達がぞろぞろと入り込み、母親をゴミ袋と一緒に軽トラックの荷台に乗せて急発進した。
「お客様達に、お騒がせして申し訳ございません。ただの小規模な雷です。お客様達に害はありません」
ラーメン屋の中の積乱雲から出てきたのは、メイド服の
「薄氷くんお久しぶり。元気に傘Life送ってた?」
渦雷は手を振りながらにこやかな顔でそう言った。
「お久しぶり。至って普通。貴方がいない日々は僕にとって長く感じたよ」
薄氷は傘を広げながら答えた。それは待っていたご主人様をお出迎えするペットのような動きだった。
「今、傘を開かないほうがいい」
七彩は薄氷を手で守るようにした。薄氷は静かに身体全体(傘)を閉じる。
「今は雷を落としたい気分じゃないから、怖がらなくて良いよ」
「渦雷さん、リサイクルは僕だけでお願いします。薄氷君には何もしないでください」
「薄氷君には何もしないよ。今は晴雨兼用折りたたみ傘君がいるから興味ないし」
渦雷の持つ傘が視界に入った瞬間、薄氷は胸の奥がざわついた。
(え?)
一拍遅れて理解が追いつく。
(やっぱり僕の上位互換がいたんだ)
薄氷は悔しそうに唇を噛んだ。晴雨兼用折りたたみ傘試験に合格しても、自分の代わりは既にいる。同等の存在に勝つにはどうしたらいいのか分からない。試験勉強する意味はあったのか考える。でもそんなことよりも、もっと大事なものが薄氷にはあった。
「分かりました。お願いします」
七彩は渦雷に連れて行かれる。七彩は色々な思いを喉の奥に閉じ込める。
「待ってくれ」
薄氷は渦雷の手首を石突きで刺す。渦雷は痛みで悶える。渦雷が手首を抑えた隙に、薄氷は七彩を自分の方に引っ張る。渦雷がすかさず落雷を何回も落とす。電気のブレーカーが落ち、皿やコップが割れる。スープが床の上を自由に広がる。薄氷は器用に椅子を使って振り払う。雷の強力な電流がガス管を通る。不快な煙と臭いがラーメン屋を包み込む。逃げ惑う客。騒ぎに気づいた店主はこうなることもあろうかと、厨房の奥からおもむろに催涙スプレーを取り出した。そのスプレーを渦雷にかけて請求書を顎に貼る。
「後で修理代いただきます」
店主の動きが薄氷達に逃げる機会を与えた。薄氷達はラーメン屋を出て街を駆ける。
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